キャンドルの炎





ひどく赤いように思われた。
目の前に並べられた自分にしては豪華な料理も食器も、それらが乗せられたテーブルクロスさえも何もかも。
テーブルの中心に置かれた柔らかな灯を提供するはずのろうそくの炎でさえ今日は深紅にゆらゆらと揺れているような心持がした。
それはきっと差し向かいに座っている女が発した言葉のせいなのだ。

「別れましょう」

席に着き予約したメニューが運ばれてくるまではいつもと何ら変わらない二人だった。
仲睦まじげな恋人同士のはずだった。
会話も滞りなく進んでいたし、彼女の表情にも何の曇りもなかった。
なのに突然彼女は切り出した。

「どういうことだ?」

彼女は待っていたというのか。
その言葉を自分に突きつけるタイミングを。

「どういうこともこういうこともないわ。私たち別れたほうがいい」
「一方的にそう言われて納得するわけないだろう」

キスリングは押し殺したように声帯を震わせた。
昨日まで何の悪い兆しもなかったはずだと、それまでの出来事を頭で反芻してはみるがやはり理解できない。

「だって私待てないもの」
「待てない?」
「貴方、前回私に会った日を覚えてる?」

女にそう言われて脳内のカレンダーをめくると、そういえば今月に入ってから彼女の顔を今日まで見た記憶がないという事実に思い当った。だったら今日の約束はどうやって取り付けたというのか。

「ほら、そうでしょ。それに知ってた?私、貴方の声を聞くのさえ今久しぶりのことよ」

僅かな表情の変化に気づいたのか、ほらみたことかと言うような口調で女が鼻で笑った。

「今日の約束だって私から連絡しなければ貴方は私の為に時間を割こうなんて思わなかったはずだわ」
「それは…」
「それも電話は一向に出る気配もない。留守電ばかり。仕方ないからメールをすれば、返ってきたのは『わかった』の一言だけ」

ああ、そうやって今日の約束は取り付けたんだっけ…。
ぼんやりとそんなことを思った。

「だったらとクリスマスの約束を取り付けようとしても一向に貴方からの返事はなかったわ」
「それは仕方ないじゃないか。毎年のことだ。この時期の忙しさは」

反撃を試みるが相手は聞く耳を持たないようだった。

「全くそうだったといえるの?」
「は?」
「あえて私に入れようなんて思わなかったんじゃないかと言ってるの」

苛々し気に女の口から出た言葉は抑えてはいるが怒気をはらんでいるように思えた。

「貴方覚えてる?私が此処も予約したのよ?」
「ああ。それは覚えている」

確かクリスマスの約束をしようという旨のメールが届いて、それに対して何も答えぬままに気づいたら次のメールが届いていた。そこに店を予約したと書かれていたように記憶している。だから今日の勤務もそれに合わせて入れてやったはずだ。

「悪いと思わないの?」
「悪いとは思ってるよ。だからこうして今日は会ってる」

正直に答えた。
だが女は自分の意見を翻すつもりは毛頭ないようだった。

「悪いと思ってるって…。嘘よ」

鼻白んだように女が吐き捨てた。

「何が嘘なものか。それは真実だ」
「真実かもしれないけど、私はそういうことは望んでないのよ」
「仕方がないだろう。俺には俺の仕事があるし、全うすべき職責もある」

本当のことだった。本音でもあり本心であった。

「知ってるわ」
「だったら…!」
「嫌になったのよ」
「は?」
「こちらからしなければ連絡もない。かといって電話に出るかといえばそうではない。もっぱらメールばかり。顔を合わせるのだって…何か月ぶりかしら」
「だからそれは仕方ないことだと言ってるだろう」
「貴方にとってはね。でも私にとってはそうではないのよ」

言うや否や女は席を立った。

「何処に行く?」

キスリングは低く問うた。
デザートはおろかメインの肉料理でさえ未だ半分以上手つかずのままだ。

「帰るのよ。もういいわよね。というか、私がもうごめんだわ」
「それでいいのか?」
「ええ、構わないわ。私が望んでるのはそんな関係じゃないもの」
「そうか…」

納得の言葉が口をついて出たが内心は決してそうではなかった。
しかし反面、ならば仕方ないという思いも頭の片隅に存在する。

「さよなら。貴方のことは愛していたけど、ただそれだけだった」
「俺もだよ。だがここで別れを切り出されるとは思わなかったがな」

金色の瞳が赤く揺れるキャンドルの向こうでキラリと光ったように見えたのは気のせいか。

「それは貴方も私を愛していたけどそれだけだったって取っていいのかしら?」
「いや、俺は俺の出来る精一杯でお前を愛していたということさ」

口角が上げられると鋭利なトパーズがこちらを見て細められた。
女はその様子を数瞬凝視したが、やがて呆れたように形の良い鼻で短く吐息をもらすとその視線を顔ごと逸らした。

「さよなら」

一言そう言い置いて背を向けた女を追うなど無様な真似をキスリングはしなかった。
この日のために誂えただろう赤いドレスが遠ざかっていく。

これでまた一人になった。

何とはなしに内心で独りごち、窓外に目を向けるとちらほらと冬を象徴する白い結晶が舞い降り始めていた。
ガラスに映ったキャンドルの炎が柔らかい暖かさを連想させる。
キスリングはそれに侵食されてしまいたい思いに駆られ始めていた。




<END>


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