それでもその手に残り得たものは





闖入者が白い静寂を破ったのは、ミュラーが漸くベッドから起き上がれるようになった頃だった。
「ごめんなさい!」
年の頃は7〜8歳かと思われる少女だった。
疾風のように病室に入ってきたかと思うと、閉じるのが待ちきれないというようにスライド式の扉を素早く閉め、完全に閉じられたことを確認した後に慌てて小さな栗色の頭を下げた。その胸には少女の身の丈の半分はあろうかという程のクマのぬいぐるみが抱えられていた。
「!?」
ミュラーは突然の小さな乱入者に一瞬目を見張った。
しかし少女はそんなことお構いなしに閉じた扉に耳を付けて外の様子を伺っている。
どうやら誰かに追われているらしい。
そして、誰も追ってきてないことを気配で察すると、今度は丁寧に病室の主に向かって頭を下げた。同時にクマもぶらんとお辞儀する。
「少しだけここにいさせてください」
少女の年格好と言葉遣いがちぐはぐでミュラーは思わず吹き出そうになる笑いを懸命にこらえた。すると未だ癒えない肋骨が悲鳴を上げた。痛覚を刺激され、無意識に顔が歪むのが分かった。
「おじさん、大丈夫?」
少女が心配げに眉を寄せ近づいてきた。
(おじさん…)
未だ二十代で元帥府の将帥の中では最年少を誇るミュラーだが、幼い少女にはそんなことは関係ないようだ。身体の痛みとは別に心がほんの僅かに痛みを訴える。
今回の会戦で心身ともに傷ついた彼だったが、療養先で更なる打撃を受けることになろうとは。
「あ、ああ。大丈夫だよ。ちょっと傷が痛んだだけだから」
取り繕うように微笑んでみせるが、上手く出来たかどうかは分からなかった。
「本当に?」
と少女が首を傾げると、相棒のクマも呼応して全身を傾けた。
「それより」
どうして逃げてるのかと何とか気を取り直して聞いてみた。
「わかる?」
「わかるよ」
先ほどの行動を見てれば誰でも容易に予測はつくだろうが、あえてそれは口には出さなかった。
「だって嫌なんだもん」
「何が?検査?注射?」
病院指定の着衣を身につけた少女は自分と同様入院生活を送っているに違いなかった。
ミュラーの問いにコクリとうなずくと、少女はうな垂れた。
「それと…お薬も…」
抱えられたクマも深く体を二つに折ってしまった。
「そうか…」
ミュラーはそれだけ言うのがやっとだった。
掛ける言葉を見つけることが出来なかったのだ。
「……」
「……」
しかし、沈黙が重い帳を降ろし、ミュラーがそんな自分を情けなく感じ始めた頃、彼にとっての救世主は現れた。尤も、少女にとっては悪魔の手先だったのだが。
「ああ、此処にいたのね」
扉がノックされるや否や、半ば呆れ顔の看護師が姿を見せた。
「小児病棟から此処まで来るなんて、それだけの元気があれば病気も直ぐに治っちゃうわね」
言いながら少女の背に手を掛け連れ出そうとする。
「だって…嫌なんだもん…」
「でも治療しないと…」
二言三言押し問答にもならない会話が交わされ、少女はこれ以上の逃亡を諦めたのか看護師の指示に従った。
去り際にバイバイと手を振られたミュラーは出来る限りの笑顔で応えた。
それが数日前の出来事。

「おじさん、帝国軍の偉い人なの?」
「え?」
今日、少女は再びクマと共にミュラーの病室を訪れていた。今回は闖入者としてではなく、扉をノックし部屋の主の了解を得ての正式な訪問者として。
「ムッターが言ってた。おじさんは偉い人だって。『はんらんぐん』をやっつける為に戦って『めいようのふしょう』したんだって」
その太陽のように無邪気な屈託のない言い様に比例するようにミュラーの心は曇る。
前回の少女乱入の後、ミュラーは彼女の病についての情報を耳に入れていた。それは決して不治ではないが、完治まである程度時間を要する病だということだった。そして本人は長期間にわたる治療にストレスを感じているということらしいのだ。
だから、笑顔の少女がひょっこり自分の病室を訪れた時は嬉しく感じた。
だが、今はミュラーの中に少女の言葉が重くのしかかる。
「名誉の負傷…」
「違うの?」
不思議そうに小首をかしげる少女を視界に入れながらミュラーは思う。
(そうではない。名誉などではない)
決して戻らない時に思いを馳せても何も還るものはないのだと知りつつも、彼はそこに引き戻される。
「おじちゃん?」
少女の声に我に返り無理矢理笑んではみたが、彼女の問いに対する明確な答えを与えてやることは出来なかった。
すると、そんなミュラーを暫くの間見つめていた少女が口を開く。
「ラウラね、聞いちゃったの」
ラウラとは少女の名前である。
少女について尋ねた際に看護師がそんなことを言っていた。
「ムッターとファーターが話してたの」
ラウラがよいしょとクマと共にミュラーのベッド際に腰かけた。
「ファーターはおじちゃんのお蔭で帰れたんだって」
「!?」
「じゃなかったら、ラウラに会えなかったって」
「それは…」
ミュラーは言葉を失った。
「あのね、ラウラのファーターも軍人さんなんだよ。それでね、ラウラが入院するときにお仕事に行っちゃったの。今度はスゴイ仕事なんだって言ってた。それで、この間帰ってきたんだよ」
終始絶句したミュラーにラウラが語った話に寄ると、彼女の父親は平民出身の下士官で先の要塞戦に参戦していたらしい。それもミュラー旗下ではなくケンプ艦隊の所属で。すなわちラウラの父親というのは、ケンプ艦隊崩壊間際にミュラー艦隊が保護し生還した兵士たちの一人であるというのだ。
「だから、えっと…『みゅらーていとくのおかげ』だって」
ラウラの瞳がまっすぐにミュラーを見つめた。
と、まるで今思い出したかのように少女の目が丸く見開く。
「あ!おじちゃん、みゅらーていとくなんでしょ?」
嬉々とした声で投げかけられた疑問にさえミュラーは、ただ頷くしか術を持たなかった。
「ありがとー!」
ラウラが突然身を乗り出し、感謝の言葉を言い放った。
小さな身体がミュラーの傷ついた身体に触れたが痛みは感じなかった。
「ファーターを守ってくれてありがとー!」
「お、俺はそんな…」
ことなどしていない。むしろ失わせてしまった命のほうが多いくらいなのだ。それに守るなどと、あの時はこれっぽっちも考えなどしなかった。ただ帰さねばと必死だっただけだ。
「ファーター、少しだけ怪我しちゃったの。でもね、生きて帰れてよかったって…」
そこまで言ってラウラは途端に口を噤んだ。そして声を潜め、
「ファーターとムッターが言ってたって内緒だよ。二人ともラウラが寝てると思って話してたんだから」
とミュラーに耳打ちし、照れたように微笑んだ。
微笑まれたミュラーはしかし相変わらず何も返すことが出来ない。
「ラウラ、ムッターもファーターも大好き。でも、ファーターがお仕事でずっといないとムッターは時々泣いちゃうんだよ」
ラウラはミュラーから離れるとこちらに背を向けた。その小さな背が悲しげに落ちたのは気のせいではあるまい。
しかし次に振り返ったラウラからはそんな悲哀を感じさせる要素は微塵も存在しなかった。
「でもね、ファーターが帰ってくるとすっごい嬉しそうなの。ラウラも嬉しいの。だからね、ありがとう、おじちゃん!」
今、ミュラーは自分の奥底から急激にのし上がってきた感情の波に耐えていた。
これまで失ったものに対しての感情しか見いだせなかった自分の心が、今在るものに対しての感動に震えている。
幼い心が持つ純粋な感謝の言葉は今、ミュラー自身をこの上ない感動の嵐に巻き込みつつあった。
ラウラの屈託のない笑顔が極上の癒しの光のように感じられた。
「おじちゃん、どうしたの?おじちゃん?」
知らず小刻みに震える肩を止める術はなかった。
「いや…なんでもないよ」
どうにかして取り繕おうと笑ってみせようとしたが、それだけ言うのがやっとだった。
彼は砂色の双眸から零れ落ちそうになる感動の産物をこらえることに全力を傾ける以外選ぶ手立てがなかった。


<END>

今回のタイトルは自力で…頑張りました(汗) 


←BACK/TOP/NEXT→