Bitter & Sweet  (決起篇)







ナイトハルト・ミュラーは悩んでいた。

ビッテンフェルトが得意満面語った武勇伝。
キスリングの不敵極まりない笑み。
それぞれがそれぞれではあったが、共通するのは二人ともその出来事に満悦していたということだった。
二人は自分の知らない世界を知っている。
争うようなことでもないのに何故か面白くなかった。
優越感を感じないというのであれば、それは嘘だ。
だがそれ以上に、自分でも愚かだとは思うが二人の味わった世界を知ってみたかった。

「まあ無理だろう」

しかし、ビッテンフェルトも言っていたが、フィリーネが相手では話を切り出すのさえ躊躇された。話をすれば、彼女はほぼ100%の確率で彼の提案を拒否するに違いない。だったら強硬手段に出ればいいとも考えるのだが、彼女相手に手荒なマネをすることは胸が痛いことこの上なかった。

(だったらどうすれば……)

*******


時を遡ること数日前。
真夜中過ぎの電話を取ったキスリングは不機嫌だった。声音から察するに、既に就寝していたというわけでもなさそうだが、あえてその理由を問うのは避けた。
奥方との秘事を中断させてしまったのだろう。
ミュラーは直感でそう判断した。

「何かあったのか?」
「いや、有事ではない。個人的に少し頼みたいことがあって」
「は?プライベートか?」
「すまない。こんな時間に」
「まったくだよ。しかもお前、これ、守秘回線だぞ」

キスリング側の着信通知には、はっきりとミュラー元帥の執務室からの機密連絡であることが番号によって明示されていた。

「ったく、何を考えてんだか…」

意味が分かっているのかとたしなめられ、非常事態かと思って出ちまったと毒づかれると、苦笑するしかないミュラーであった。
これが最善だろうと信じて使った策だったはずなのに、改めて指摘されるとひどく自分が馬鹿な人間のように思われてきたからだ。

「で、何の用だ?」

電話の向こうのキスリングが気持ちを改めるように一つ息を吐き切ると、呆れたように髪を掻き上げる彼の姿がミュラーの脳裏で容易に再生され、羞恥を新たにさせられる。

「何の用って…」
「さっき頼みたいことがあるって言ってただろ。あれは嘘か?」

言い淀むミュラーをせかすように鋭く切り返した言い草は、苛々を隠せないといった様子だった。情事の中断を余儀なくされたのだ、当たり前と言えば当たり前のことだろう。ミュラー自身だって同じ立場になれば表には出さずともその胸中は穏やかではないはずである。
と、キスリングの背後で何かが動く気配がした。

「誰?こんな時間に」
「ミュラーだ」
「ミュラー元帥?」
「こいつ、守秘回線使ってやがる」
「ふうん」

ルシエルだ。
遠くから耳を打った彼女の声音が、気のせいであろうか、何事かを含んだ意味ありげな響きに感じられたのは。直接会話してもいないミュラーの思惑を見透かすように愉快気に赤い瞳が細められたような錯覚に囚われたのは。

「すまん。で、もう一度聞くが…用件は何だ?」
「いや、いいよ。サンダルフォン大佐だろう。夜分に申し訳ないと謝っておいてくれ」
「ああ。そんなことよりお前の用事だ」
「……」

ミュラーは今度こそ明らかに言い淀んでしまった。
深夜の執務室に唯一灯されたデスクランプが、まるでスポットライトのようにミュラーだけを白く煌々と浮かび上がらせ、世界という舞台の上の現主役が彼であることを無言のうちに物語っているかのようだった。

それにしても、何故キスリングなどに電話してしまったのだろう。
これくらいの用件なら、勤務中の間隙にでも彼を呼び止めて済ませてしまっても何ら問題ないはずなのに。それとも、直接自宅に赴いて酒の肴代わりに余談を装って漏らしてしまえばいい内容であるのに。
そもそもこの話題を持ち込むのであれば、あの時あの場にいたビッテンフェルトかルシエルに頼るのが筋ではないのか。
だがミュラーにしてみれば、内心の思惑は別として、あの場ではただ聞き役に徹した自分であったから、今頃になってあの二人のどちらかにアレを請求するのはどうにも間が抜けているような気がしないでもなかった。
それに、その後のことを鑑みたときに、ビッテンフェルトなどに依頼するのは出来るだけ避けたかった。何故なら、今回の件を彼の元に持ち込めば少なくとも極少数の誰かには自分の言動がそのまま伝わってしまうのではないか、ただ単純にそんな事態を恐れたのだ。かといって、ビアンカに話を振るのもこれまた筋違いのように思えた。であるならばと思索を巡らす徒労も無駄なことで、残った関係者は自ずと一人に限られてくる。あの場には存在しなかったものの、あそこにいた全員に深い関わりを持つ人物。
貝のごとく固い口を持つと評判の親衛隊長殿である。

会話と会話の間隙の、短い躊躇の合間にこれまでの心象が脳裏を通過していった。
すると、まるでミュラーの頭の中を見透かしでもしたかのように、通話相手の声が突如として豹変した。

「ミュラー元帥。元帥の用事って、あの件なのではありませんか?」
「おい、ルシエル!」
「何よ…いいじゃない別に」
「別にって、おい!てか、あの件ってなんだ!?」
「あの件っていったらあの件よ」
「どういうことだよ」

どうやらルシエルが夫の手から端末を強奪したようだ。
キスリングの抗議と疑問の声に対して、妻は特に悪びれる風でもなくけろりと夫をあしらっている。
そんなやり取りが通話口から漏れてくるとミュラーは思わず受話器を耳から遠ざけた。

「ねえ、ミュラー元帥」

だが、突然向けられた矛先に慌てて受話器を自分の耳元に引き寄せる。そして、妖艶という表現が見事に的を得た赤い瞳が不敵に笑む様が明確な絵となって砂色の瞳に幻視されると、彼は声もなくただ頷くしかなかった。
それにしても、顔を突き合わせて3人同じ場にいるわけでもないのに、瞬間的とはいえそんな気分にさせられるから奇妙なものである。

「つまり、私が察する所に因りますと…ですが、元帥は例の品を手に入れたい、そうお考えなのではないのですか?」
「サンダルフォン大佐…!」
「違いますか?因みに例の品とは、先日話題に上ったアレのことです」
「アレ…とは?」

今更ではあっても用心深く確認をするミュラーの姿は、傍から見れば甚だいただけない取引を、所謂違法取引を実行しようとするどこぞの悪党であったかもしれない。しかし一方で、その慎重さはナイトハルト・ミュラーがナイトハルト・ミュラーである由縁の姿であるのかもしれなかった。

「チョコ、です。違いますか?」

受話器の向こうで、化粧を取った素顔のルシエルが薄く笑み、形の良い唇が深く弧を描いたような気がした。
誘発されるようにミュラーはその諸手を帝国軍初の女性大佐の前に掲げた。

「まさしく…そのとおりです。ご明察恐れ入る」

完全降伏の意を明らかにした瞬間である。

「では、わたくしが責任を持って元帥のご所望の品を手に入れてみせますわ」

それで話のケリは着いてしまった。
用件を切り出すまでの困難さに比較して、事の決着は存外あっさりしたものであった。世の中そんなものであるとは誰の云った言葉であったのか。
執務室に備え付けの電話の受話器を置いたミュラーは、一つの執着を迎えた事態への安堵に頭を垂れ、走り出してしまった現実へと湧き上がる新たな不安に、執務机と華麗なる接吻を交わす。

(本当にこれで良かったのだろうか)

しかし、これによって事態はキスリングの知るところとなった。
そもそも自分からコンタクトを取ってしまったのだからどうしようもないことなのだが、それでもあの男に己の不甲斐ない一面と隠れた欲望を丸ごと曝け出してしまったということにおいて、何とも得難い屈辱にも似た感情を覚えずにはいられなかった。反面で、最後の一線で自分が求めた人物が旧知の彼であったというのもまごう事無き事実であったから、人間というモノは救いようのない存在なのかもしれない。

「それとも俺自身が救いようのない人間なのだろうか……」

依然熱い接吻を交わし続ける硬質の唇の元でミュラーは、今更のごとくに独りごちるのだった。

******


それが今から僅か数日ばかり前の話である。
あの時ルシエルに依頼した品は、彼女のコネクションに因るものなのか、はたまた単なる偶然の産物にすぎないのか、兎にも角にも疾風怒涛の速さでミュラーの元に届けられた。それは奇しくも、彼の思惑の獲物であるフィリーネがフェザーンの地を踏んだまさに当日の出来事である。
 これについて、配達人でもあったルシエルは特に何の言及していなかったし、ミュラーもあえて語りはしなかった。しかしこのタイミングの良さはまるで、是が非でも計画を行使するようにと命を下す神の御言葉のように彼には思われた。
 だから、帝国軍元帥であり同時に一個の男でもあるミュラーは、本来優秀であるはずの己の頭脳を悩ませ、理性と本能の狭間でもがくのである。

(どうすれば彼女はコレを使って自分と楽しんでくれるのか)

そうして、自宅官舎のソファに腰を下ろして思案に耽る彼はやがてドアが開く音ではたと我に帰る。
件の主フィリーネの登場であった。
仕事後のリラックスとばかりに入浴を終えた彼女が、長い髪をポンポンとタオルで叩きながらリビングに現れたのだ。
我知らず肩がビクリと強張るのをやっとの思いで止める努力をしてみたが、成功したかどうかは分からず仕舞いである。

「どうかしたの?」

 ミュラーの黒ずんだといっても過言ではない思考のオーラに半ば犯されつつあるリビングの一種独特の空気に本能的な警戒心を走らせたフィリーネが、怪訝な表情で彼を覗き込んできた。

「ああ、なんでもないんだ」

 全身から吹き出る見えない汗を取り繕うように、砂色の瞳で曖昧な笑みを浮かべて応えてみせるが、意識は何処か別の次元を浮遊しているようだった。
 だが、フィリーネはそんなミュラーに特に嫌疑をかけるわけでもなく、そうとだけ頷くとすたすたとキッチンへ向かってしまった。湯上りのほてった身体を冷ますために飲み物でも取りにいくのだろう。
 去りゆく彼女の姿を横目で追いながら胸を撫で下ろすと共に、パジャマ代わりの大きなシャツから伸びた白い大腿とそこからスラリと続く生まれたままの足に目を奪われる。

「今日がその機会だというのか…」

欲望という名の権力が徐々に全身を侵食し、本能という名の衝動が己を支配していく様を身を以って体感するミュラーであった。



<END>

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