Bitter & Sweet (完結篇)
やはり大神オーディンの思し召しだったのだろうか。
思索の海をただひたすら漂い続けたミュラーは短い悲鳴で現実に引き戻された。
弾かれるようにそちらに視線を遣ると、生きた彫像と化したフィリーネの姿が視界に飛び込んだ。驚愕に目を見開き、ある一点を凝視している。その青い双眸には明らかな困惑の色が見て取れた。
何事があったのかと慌ててソファから立ち上がれば、膝とテーブルが華麗なる接吻を交わした。先方は鈍い叫びを上げ、自身はその鈍痛に顔をしかめざる得なかったが無視を決め込んでやった。彼女に起こった事態の把握のほうがより優先度が高かった為である。
「フィリーネ、君……それ……」
だが次の瞬間には、つい先刻の痛みなど虚空の彼方へと消し飛んだ。
砂色と青色の異なった二対の瞳が交錯した時、フィリーネは見事な焦げ茶色に染め上げれた自身の右手をゆっくりとこちらに披露してみせた。
「ナイトハルト、これって…」
一瞬何が起こっているのか理解出来なかったミュラーだが、それは彼女も同様のようで、耳に慣れ親しんだはずの明るい声が僅かに震えていた。
しかし、差し伸べてやろうとした手は寸前で停止する。
「もしかしてチョコレートを食べようとしたのかい?」
「だって、貴方が食べてもいいって言ったから」
言わずもがな、チョコレートとはルシエルから届けられた一品のことである。
帰宅後、いつもの癖で無意識にキッチンカウンターの上に置きっぱなしにしていたらしい。しかも、よくよくフィリーネを問い質してみると、自分はどうやら食べても良いのかという彼女の問いに対して了承の意を示していたらしいのだ。
思索の大海に全身どっぷり浸かっていたせいであろう、全く記憶になかった。
しかし今はそんなことを議論している暇はない。まずは後始末だ。
「ああ…こんなにしてしまって」
心底の憐憫の情からフィリーネの手を取ったミュラーだったが、その刹那、彼の中で何かが煌めいた。
降臨したといっても過言ではないのかもしれない。
「きゃっ」
次の瞬間にはチョコまみれの手の平に口づけていた。
不意に捧げられた接吻に驚いたフィリーネが、反射的にその手を我が元へ引き戻そうとするが、相手は決して離そうとしなかった。
ミュラーは空いたもう一方の手でカウンター上のチョコをもう一つそっと掴むと軽く握り締める。体温に満たされた拳の中で固形物が液体へと変化していく様がはっきりと肌に感じられた。
そして有無を言わさず手を引き彼女の全身を自分の腕の中に押し込めると、柔らかい唇に熱い接吻を落とした。衣服が汚れるという懸念が頭を掠めたが、ここまできてしまえば構ってなどいられなかった。
「ナ…イト…ハルト…」
塞いだ唇から吐息と共に己が名を呼ばれると、今度は先ほどの拳を彼女の首筋の位置まで持ち上げそのままそこに撫でつけた。白い地表が茶色の大地に染まると、その奇妙な触感にフィリーネの身体がビクリと弓なりになり、合わせられた唇が僅かにずれた。するとミュラーはそれを追うように見せかけて、すかさず自身の唇を彼女の首筋に這わせる。甘さが口内を支配し、先ほどまで自分と一体だった口からは短いあえぎが漏れた。
「これって…」
「こういう使い方をするものだそうだ」
「嘘…」
「本当さ」
心底信じられないという彼女にいとも簡単に否定の言葉を返してやる。
「だって…こんな…おかしい」
思うままの反論が途切れ途切れになるのは、決して悦にいっているからではない。自分が今成している行為へ対する恥ずかしさと、想像もしなかった世界の突然の具現化に対する驚き、その二つがないまぜになって今まで経験したことのない羞恥を味わっているからである。
ミュラーはそんなフィリーネの性分も知っているし、心情も理解しているつもりだ。
「それでもこういう楽しみ方もあるんだ」
「でも…」
言いながら首筋を這い続ける男の動きは止まりはしない。そして、新たな濃い茶の物体を掴んだ男の手が開いたシャツの隙間を縫って白い肌に差し入れられようとした時、いよいよフィリーネは声を上げた。得体の知れない恐怖もあった。
「やだ。このままじゃ服が…!」
汚れると小さな抵抗を試みようとして、はたと口を噤んでしまった。
自分は何を言おうとしているのか。これでは本来の目的、彼にこんなことをやめさせようとする意図と全くずれてるではないかと思い至り、再び顔に熱がこもるのを感じた。
その瞬間、身体がふわりと浮いた。
「じゃあ、もっと合理的な場所へ移動してみるかい?」
「合理的?」
「服が汚れても即洗濯可能。更には身体もキレイに出来る場所」
柔らかく弧を描いた砂色の瞳の下、抱き上げられたフィリーネは目を見張りながらも、彼の口元に付着した茶色の画材で刷いたような跡に心ならずも吹き出しそうになり慌てて自分を制御した。
「ここなら君のする心配は何もないだろ」
そう言って降ろされた場所はバスルームだった。
二の句が継げないままに身体が壁を背にすると、白い肌がむき出しにされ、チョコという名の物体が肌に触れた。かと思うと、未だ暖かい蒸気がこもる室内と二人の体温によって温められたそれは瞬く間に液体へと見事な変化を遂げていく。
冷たいとも温かいともどちらともつかない感覚が胸元から大腿へと伝わるや否や、大きな温かい手が彼女の身体をまさぐり、柔らかい唇と熱い舌が首筋から胸元へと徐々に移動する。
「あ……」
それに従い、カンバスに絵を描くように白い肢体が濃厚なブラウンで彩られ、ミュラーという画家によってそれらは順序良く丹念に清められていくのだ。
未経験の羞恥と恐怖を同時に味わいながらも反応するフィリーネは我知らず広い胸にしがみつく格好となった。
「ねえ…ナイトハルト…私…もう…」
視界の下端に砂色の髪を捉えながら呻くように漏らすと、その髪と同色の瞳がこちらと同じ位置に現れた。
「駄目かい?」
「…嫌よ。恥ずかしいし…」
「恥ずかしいし?」
「…その…怖いの…」
言った途端うつむきかけるフィリーネの端正な相貌を、ミュラーは己の手と手で優しく包み込んでやり、静かに口づける。そして濃密な甘さがお互いを蹂躙し始めると、更に深く彼女の口内に押し入った。そうすることによって全身にその甘さが拡散していくような錯覚を覚えるのは、チョコのせいなのか、それともお互いの想いの相乗効果であるのか。
ミュラーは大丈夫だと無言の内に彼女に語りかけ、フィリーネもまたそれに応えるかのように彼の広い背に腕を廻すのだった。
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(そういえばあのキャンディ、引き出しの中に入れっぱなしだったっけ)
夕日が差し込む皇宮を一人歩きながら、考えるともなしにそんなことが思い出された。
(次はそっちもありなのだろうか)
一度味を占めた邪な心は、本人の理性や常識とは関係なく次を求めるのか。
だが、表には出さずにミュラーは首を大きく横に振る。
次を安易に求めるなど本来の自分がすべきことではないのではないか。しかし、近しいものが知り得た快楽の世界を自分だけが知らないのはやはり面白いことではない。それに昨夜の一部始終の甘美さといったら、しばらく忘れられそうもなかった。
「おう。ミュラー元帥ではないか!」
良からぬ思いに囚われていた両肩がビクリと動く。
「何だ、ビッテンフェルト元帥ですか。驚かさないでください」
ほっと胸を撫で下ろしたのも束の間、背景と同じ髪色をした僚友がニヤニヤと話題を振り捲き出した。
「今日の少佐は良い香りがした」
「は?」
怪訝な表情のミュラーの肩をビッテンフェルトが大仰に頷きながら力強く何度も叩き、事の詳細を語ってくれた。
つまり要約するとこうである。
オイゲンが今日たまたまフィリーネと仕事の席を共にした。すると、そのフィリーネから甘い好い香りが漂ってくる。しかもいつもは一つに髪を束ねている彼女が、どういうわけか今日に限って髪をおだんごに結い、うなじを全開にしていた。そのせいなのかどうか定かではないがオイゲンは甘い香りと白いうなじに何ともいえない色香を感じたという。
「そんなことよりだな。俺はそれで考えたのだ」
「何をですか」
「もしかして卿は昨晩辺り例のアレを試したのか?」
どうだと好奇心丸出しの大きな顔が眼前まで近づくと、薄茶色の瞳が爛々と輝いている。
「な、何を根拠にそのようなことを云われるのですか!」
「理由は色々あるが、つまるところオイゲンの話から予測してといったところだ」
「そんな本人たちに確認したわけでもないでしょうに。しかもこのようなところで!」
動揺の色を顔いっぱいに浮かべて拒絶してみせたが、勢いのついた猪には何ら関係ないことであり、また、そんなミュラーの慌て振りは問題に対する肯定以外の何物でもなかった。
「それにしても、一体どのような手段で卿はあの姫様を口説き落としたんだ?」
当然のことながら、話題は願望が成就したという想定の元に進められていく。
「あれは一筋縄じゃいかんだろうな。正面からいけば卿もあっさり撃沈するのは想像に難
くない。かといって強引に事を進めればその後がやっかいに違いない」
一人勝手に首を捻っている。
「うむ。俺にはほとほと見当がつかん」
ひとしきり悩む仕草をしてみせるが、一転、今度は嬉々として己の好奇心を曝け出した。
「で?ミュラー元帥はどんな戦術を使われたのか。是非ともお聞きしたいのだが」
「手段と云われましても……」
全く偶然の産物であるのだから到底説明など出来ようはずもなかった。しかもそれ以前に自分は肯定などしていなかった。だから戦術だの戦略だのを披露するつもりなどさらさらないし、そんな義務もありはしない。
果たして解答の代わりに人差し指で鼻の頭でも掻こうとしたその時、何処からともなく携帯端末特有の呼び出し音が聞こえてきた。
ミュラーの端末だ。メールの着信である。
この場を逃れたい一心で急ぎの仕事であることを願い、メールを開封する。
『差出人:フィリーネ・フォン・リーゼンフェルト』
その名を視認した瞬間に胸が暖かくなり、次に綴られる本文を読んだ後には数瞬ばかり鼓動の停止を余儀なくされた。
「ばか」
たったそれだけである。
「なんだあ、それは!?」
無遠慮にも覗き込んだビッテンフェルトが素っ頓狂な声を上げた。
砂色の瞳がじろりと薄茶色の瞳めがけてスライドする。
「私が聞きたいくらいですよ」
本当だった。だから、ぶっきらぼうであったかもしれないが素直にそう返した。にも関わらず、隣の猪は鉄壁の肩をまたしてもばんばん叩き始めた。
「まあまあ、そういうこともあるさ!気にするな、気にするな!!」
ビッテンフェルトの言葉は励ましとも取れる内容であったが、どうあがいても額面通り素直に受け取れる気がしないミュラーであった。
<END>