第9話  大団円のその果てに     (蒼山史樹)







女という生き物は理不尽である。
そもそもフィリーネとビアンカが険悪になったのだって決してミュラーとビッテンフェルトのせいではない。
公の会議の席でひょんなことから口論を始め、ヒートアップし、周囲に多大なる迷惑を与え続ける二人を叱責し、止めに入ったのがミュラーであり、性急な事態の収束をはかるべく動いたのはビッテンフェルトだったはずである。
その上でミュラーは女性二人の仲を取り持とうと努力した。これには多分に私情も挟まれてはいたが、それでも今や旧交を取り戻したフィリーネとビアンカには感謝されこそすれ、文句を云われる筋合いはなかった。
だが現在、女性二人の間では諸悪の根源は男性陣だという思考が平気で成立している。とはいえ、フィリーネには内心で若干首を傾げてみたが、ビアンカの言葉に先導されて同意したほうが心が楽だったので、結果、それで良しとすることにした。


「私たち二人が最悪の再会を果たしたのは男二人のせい」


果たして女性二人はキッチンへの侵攻を開始するのだが、ここからはまた後の話となる。


まずは時を遡ってこれより数十分ほど前、ビッテンフェルトは空腹を抱えたミュラーを従えてキッチンの司令官として着任した。
鍋、包丁、まな板等のキッチンツールを該当箇所から一切無駄のない動きで取り出すビッテンフェルトの背はミュラーにはとてつもなく頼もしく映る。と同時に、縦横無尽に無駄なくツールの数々を慣れた手つきで使いこなしていく手際の良さに理由の解らない苛立ちも覚えた。
「ほら、これでも飲んでろ」
知らず眉間に皺を寄せたミュラーの表情が空腹から来たものだと勘違いしたビッテンフェルトはボトルワインを半ば放るように手渡した。
グラスはそこにあると顎で促されたミュラーはツカツカと無言で当該シェルフからグラスを二つ取り出すと、これもまた黙って栓を抜いて注いだ。
その間にもキッチンには平和的な生活感があふれる小気味のいい様々な物音が響き渡り続ける。
ミュラーは注いだ赤ワインにちびりと口を付けると、
「閣下はいつもこういうことをされてるので?」
表情は訝し気だ。
因みに『こういうこと』とは料理を指している。
疑うことを知らないビッテンフェルトは振り返ると、質問者に向かって満面でニカッと笑ってみせた。その身にはギャルソン風エプロンが着けられ、右手にはよく手入れされたと見える包丁が握られている。
「おう!あいつも料理をしないではないが、俺がいる時は大概な!」
「ふうん、見事なものですね」
頷きながら更に一口赤い液体をすすった。
「そうか?慣れてるからな。実は嫌いではない」
それでも好きだと言い切ってしまわないのは『男子厨房に……』の格言が脳内をかすめたからである。だが声音は得意げだ。
「しかし、お前に褒められるのはなかなかに気分がいいな」
既にこちらに背を向けて食材と格闘を始めたビッテンフェルトが得心したように言い放つと、ミュラーは再び杯に口を付ける。が、中は空だった。
新たな液体をグラスに注ぎ、今度はあおった。
「私に褒められるのは気分がいいですか?」
「そりゃ……」
言いかけてビッテンフェルトはぎょっとした。
包丁を握った右手のすぐ傍にミュラーの顔がぬっと出てきたからである。
「そりゃ、なんです?」
続けてくださいと砂色の瞳が訴えたがビッテンフェルトは言葉を濁した。
目が座っているような印象を覚えたが光の加減だと思うことにした。
「それにしても細かいですね。こんなにゴツイ手でこんなに細い千切りがどうやったら出来るんです?」
左のこめかみが僅かに音を立てたが無視して包丁を動かし続けると、
「閣下の見た目からは想像できませんよね。すごいな」
わざとらしく感嘆の声を上げたミュラーが千切りにされたキャベツを摘まんで自分の目線まで掲げた。
「普段こんなことばかりしてるから仕事では大雑把になるんですかね」
納得したと云わんばかりに放った言葉は、言った本人にとっては悪意の欠片など微塵もないものであるが、先方にとってはどうやらそうではなかったようである。
両のこめかみがするどくつま弾かれたような感覚が全身を走ると、包丁を持つ手が無意識に小刻みに震えた。
「そういえば、先日の書類もすごかったな。決裁は私だったんですがね、あ、ご存知ですよね。書類をチェックする身にもなってほしいものです。必要項目が抜けてるの抜けてないのって…」
言い終わる前にミュラーの鼻先に鋭い切っ先が突きつけられた。
「おい、いい加減にしとけよ」
牽制したつもりだったが、ぎょっとしたのはビッテンフェルトのほうである。
砂色の瞳が赤らんで座っていたからだ。
今度こそ、気のせいでも幻でもない現実だと認識した。
半ば反射的に先ほど空けさせたボトルを持ち上げてみると、驚くほど軽い。
「お前、いつの間に……」
この男らしくなく本気で絶句した。
「私は何も知りませんよ。閣下が飲めというから飲んだだけです」
「知らない訳ないだろ。飲めとは言った。言ったが……」
急いで飲めとも全部飲めとも言ってない。料理が完成するまでヒマをつぶしてろと言っただけである。大体にして、空の胃に適度の酒を流し込めばどうなるか。そんなこと飲酒に知識のある人間なら誰でも知っている。ましてや、それを知らないミュラーでもあるまい。
「何故飲んだ……?」
「だから飲めっていうからです。そんなことより現在の私の疑問は、ビッテンフェルト元帥の仕事が大雑把なのはこうして普段から料理なんてチマチマしたことをやってるからなのでしょうか、ということなのですが」
答えてくださいとミュラーが詰め寄ると、短時間で蓄積されたアルコールの香りが鼻を付いた。
「それより俺は何故卿が酒を飲んだかを聞きたい。空腹にこれだけの酒を入れれば……と……チマチマだと!?」
ビッテンフェルトが今気づいたと云わんばかりに鼻息を荒げる。
「そんなこと言ってませんよ」
呂律が廻っていないのは明白だ。
「言ったではないか。料理をチマチマだと言った」
「言ってませんてば」
つい今しがた口にしたことを覚えてないのか。
「言った!しかも、料理のせいで仕事が大雑把だと!?」
「どちらにしても大雑把なのは確かでしょう」
「はあああ!?なんだと!!」
思わず胸倉を掴んでしまった。だからといって決してクッキングツールを武器になどしない。それがビッテンフェルトのこだわりである。
「苦しいですよ。離してください」
ミュラーは抵抗の意を示したが、酔いが廻った手元は要領を得ない。襟首は依然掴まれたままだ。
「俺は料理も仕事も手を抜いたつもりはないぞ」
「ほら、それが悪いんですよ。私が拝見する限り、閣下の料理の腕は一流に近いものなのでしょう。味は分かりませんがね。何しろ私は閣下の料理を口にしたことがない」
「そんなはずないだろう」
今日以前に幾度かビッテンフェルト家をミュラーが訪れた際には例外なく何かしらの手料理を振る舞っている。主の手製であると説明した記憶もあった。しかも、この年少の元帥は、その都度、さかんに料理の作り手と味の両方を褒めながら完食していたではないか。
「知りませんよ。もしくは忘れました」
しれっと言い切る相手に猪の沸点は目前だ。
「兎にも角にも仕事にもこのきめ細やかさを見せて欲しいものです」
ビッテンフェルトが気づいた時にはもう、思い切りよく包丁をまな板に刺していた。
切っ先が怒りの矛先に向かなかったことは幸運というべきか。
続いて近場にあったコショウを砂色の頭めがけて振り捲いてやる。
細かな粒子のおかげで自らも咳き込むという被害にあったが構ってなどいられなかった。
「な、何をするんですか!?」
これには相手も気色ばんだ。
ミュラーがとっさに手に触れた直径20pほどの皿を盾代わりにして顔面を防ぐと、先方は一回り大きな鍋の蓋を左手に身を守る姿勢を取る。
果たしてどちらが先だったのか。
VTR判定が存在しない限り判別が不能な速さで、どちらからともなく手近の武器を相手目がけて放ると、キッチン中に甲高い嫌な音が鳴り響いた。
瞬間、はたとしてお互いがお互いの足元に釘付けになる。
すると、ミュラーの元には大皿が、ビッテンフェルトの元にはコーヒーカップが、無残な姿を曝していた。
それと同時に、この家にあるキッチン用品の全てを知る男フリッツ・ヨーゼフ・ビッテンフェルトは内心で激しい落胆を禁じ得なかった。己がポリシーを相手の口車に乗せられた形で破ってしまったのは勿論のことながら、それより何より、敵の陣地で粉々に砕けた品は一枚でひと月の食費を賄えるだろうほどには高級な、しかも愛する妻のお気に入りの一品であることを認識したからである。
「お前、それ……!!」
震える手がミュラーの足元を指すと、
「それはビアンカの……!」
声音も穏やかではない。
皆まで聞かずとも憶測を付けるのは容易だった。
ミュラーが爽やかに微笑む。
「割ったんですか?ご自分の手で」
酔いが廻っていようとも確かな六感と春の木漏れ日のような笑顔に、一度は急降下を辿った怒気が急速な再上昇を果たす。
「卿という奴はー!!」
その後は推して知るべしである。
重厚な防火ガラスの遮断音と氷のようなスプリンクラーの水温に頼るまで、二人の三十男が我に返ることはなかった。


「少しは冷えたかしら?」
艶然と腕を組んで微笑むビアンカの横で、汚い物を見てしまったかのようにフィリーネが顔をしかめている。
「……」
水圧によって尻餅をつかざるを得なかった二人の男に言葉はもはやない。
「屋内で物騒よねぇ。一体、何があったのかしら?物取りでもなさそうだし」
「いや、これは……」
漸くのことで喉から声を絞り出しながらビッテンフェルトは、尻を足代わりにズルズルと後方に下がった。粉々に割られた愛妻お気に入りの皿をせめて背後に隠すためである。
「ナイトハルト、この有様はどうしたの?一体何があったの?」
事態の壮絶さに震える声でフィリーネが問うた。
「いや、これは……」
ビッテンフェルトと全く同じ台詞を吐きながらミュラーが己の顔を拭うとザリッとした感触がその手に伝わった。先ほど振り掛けられたコショウの細かい粒が防火水の影響で結束して比較的大きな塊となったせいである。そんな塊がいくつも顔面に付着していることは鏡などなくとも感覚から容易に推察出来た。
数瞬の沈黙の後にやがて仁王立ちしたビアンカが口を開く。
「お二人とも……お二人は我々互いの印象を最悪なものにしてくださいました。しかし、今宵、仲を取り持つきっかけを作って頂いたことには感謝しています。ですが、結末がこれですか。なんともお粗末なこと限りないですわね」
「ビアンカ?」
そもそもの話の発端が全く違っていることに気づいたフィリーネであったが、この惨状を目の前にしては旧友の名を呼ぶのが精一杯だったし、多少懲らしめてやりたい気持ちがあったのも事実だ。その問いかけに横目で彼女を見たビアンカも、そんなことはとっくに気づいているとでも言いたげに男性陣には気づかれない程小さく目配せを返してくる。
フィリーネは余計な追及を避けるという選択をした。
「で?この始末はどうしたらいいのかしら?ねぇ、フィリーネ」
「私たちも手伝うしかないんじゃないのかしら」
「本当にそう思ってるの?」
「だって片付けるのは大変だわ」
困り顔で会話を交わす(真にそうであるかは判別不能な)二人にミュラーはしかし抜け目がなかった。
「こうなったのも我々の責任です。我ら二人で原状の回復を図りましょう」
言葉の前半は本心だった。だが後半はそれより何よりこの期に及んでも女性二人に良い顔をしたいミュラーの気持ちの表れでもある。
馬鹿な申し出をしてしまったとビッテンフェルトに脇腹を小突かれて初めて気づいたが、決して時は待ってくれない。
「そう?じゃあそうしてもらおうかしら。私たちもお腹が空いてるし」
ねぇとビアンカが傍らのフィリーネに笑いかけると遠慮がちに頷く姿が見て取れた。
「あ!そうだ。食べ物もお酒も美味しいダイニングバーが近所にあるのよ」
「本当に!」
空腹の人間は美味しい話には殊更に弱くなるようだ。
事実、フィリーネの愁眉が見る間に開いていく。
「行きましょうか」
ビアンカが声を上げると、半ば呆然とする男たちの眼前で瞬く間にキッチンのドアが閉じられた。
扉越しに楽しげな会話が聞こえ、あっという間に遠ざかって行く。
『無情』という単語が、ビッテンフェルトとミュラー、双方の脳裏に浮かんで消えた。


時刻は既に午後十一時を廻っている。
あとどれくらいすれば原状回復が完了するのだろうか。
果てなく思える作業への憂慮が頂点を向える頃、どちらともなく顔を見合わせた。
「ビッテンフェルト元帥。先ほどは本当に申し訳ないことをしました」
ミュラーがモップ片手にぺこりと頭を下げると、
「全くだ。と、言ってやりたいところだがもういい」
ビッテンフェルトは絞りたての雑巾を振り振り応えてやる。
「そうですか……しかし本当に申し訳ありませんでした」
「いや、俺も卿に言われたことは肝に銘じることにしよう。それより、なあ、ミュラー……」
「はい」
「女というのは、恐ろしいな」
「そうですね……」
盛大な溜息を同時に吐き出すと、それが合図だと云わんばかりに背を丸めて再び黙々と作業に取り掛かる。その姿は一国を担う七元帥のそれでは決してなかった。
過去にビアンカお気に入りの一品だった皿に関する顛末は語るまでもない。

<END>



←第8話/TOP/番外編(1)→