第8話 曇りのち晴れ所により荒天 (ゆうやん)
ともかくも、女性二人はなんとか和解にこぎつける事ができたらしい。たとえそれが彼の努力とかそういうのとは全く別次元の過去の関係によるものだとしても、何はともあれミュラーには望ましい解決だったと言える。
(・・・よかった。とにかく、まぁよかった。)
『ぐぅぅぅ〜キュルルル』
そんな和やかになりつつある雰囲気を劈くように響いたのは、今までの緊張から一気に解き放たれた途端に空腹を訴えたミュラーの腹の音だった。
「なんだ?卿、安心したら腹が減ったのか?わかりやすいヤツだな。・・・が確かに腹減ったな。」
ビッテンフェルトが大きな声で笑い、子供のような己の体に羞恥心をかみ締めようとしたミュラーの胸にグサリ、と一突きを加える。
「あ、そうだ。ベル、あんたたち食事しないで来たんじゃないの?それじゃお腹減るよね。フリッツもいつまでも笑わない。」
肩をゆすって笑い続けるビッテンフェルトを窘めつつ、気まずそうに宙を見つめるミュラーの様子にビアンカもこらえきれなにのか、声が微かに震えている。腹立たしいことにフィリーネの青い瞳にすら呆れたような笑みが浮かんでいた。
「ナイトハルトってば。でもごめんね。私がもう少し早くここにきてればよかったのよね。」
口では済まなそうに言いながら、家人と一緒になって笑われているようでミュラーの胸のうちにぼんやりと何かがわだかまる。
「とりあえず、何か食うものを見繕うか。ミュラー、キッチンになら酒もあるし卿も来るか?待てないようなら準備中のものから摘んでもかまわんぞ。」
「私たちはこちらでお茶でも飲んでる。ね、いいでしょ。フィリーネ。」
フィリーネに否やはないのかにこりと微笑んだ。
「ったりまえだ。アレ以上食ったら本当に重量オーバーに・・・。」
みなまで言わずに大げさに口をつぐんで見せたビッテンフェルトの視線がフィリーネのそれとかち合ったのか、二人が同時に笑みを浮かべる。そんな彼女に何か言いたそうな表情を浮かべたミュラーだったが、瞬く間にビッテンフェルトに腕をつかまれてリビングを後にした。
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「だけどなぁ・・・。あんたがベルだって知ってたら私もあんな言い方しなかったのになぁ。」
男二人が去ったリビングのソファで軽く伸びをしながら体を反らせたビアンカの胸が揺れるのにフィリーネの視線が釘付けになる。そんな様子を見て思わずもらしたため息にビアンカがふと気がついた。
「これ?胸がこんなやろ?布を引っ張り上げてしまうんよ。これだって悩みっちゃ悩みなんよ〜。ちょっとかわいい短めの着丈なんかだとお腹見えちゃうし。うっかりお腹にお肉ついたらもう悲惨なんだから。」
行儀悪くソファの上にあぐらをかいて座ったビアンカが顔にかかった髪を払いのけながら吐き出すように言った。
「どうして?そんなことないでしょ。私、また自信なくしちゃう。」
思わず自分のそこを手で覆うような動きをしかけて、フィリーネは慌てて手をひざに下ろす。
「だからぁ、実際に見てどうよ?このアンバランスさ。」
ソファの上で中腰になったビアンカを改めて見れば、今は先ほどの先入観も消えたのかそう見えてくるのが不思議だった。
「それよりもさ。そのワンピ、かわいいなぁ。ね、ちょっと立って見せてくれる?そうそうそこでくるっと回って。」
言われるままにモデルよろしくポーズまで取らされたフィリーネをビアンカは腕組みしたままでうなずきつつ眺める。
「いいなぁ。そのライン。私も本当はそれ欲しかったんだよね。でもさ、胸が入るとお腹周り余るし、なんかシルエットがかわいくなかったのよね。マタニティ?って感じで。」
言われてフィリーネは小首をかしげて考えてみた。前が持ち上がって横から見るとアシンメトリーなラインを描く様が脳裏に浮かび、思わずプっと噴出してしまう。
「あ、笑わないでよ。自分でもよぉくわかってるもんね。まぁ容姿の問題はいろいろあるもんなぁ。たとえば、さ。フィリーネは絵に描いたような金髪じゃない?私はほら、この重たいブルネット。さて、帝国ではどちらが好まれるでしょうか?」
「それは・・・やっぱりブルネットでしょう。貴族とかはそうじゃないかもしれないけど。」
「はい。半分正解ってとこかな。貴族様の世界はもちろんそうよね。でもね、これってやっぱりみんなそうなんよ。うーん。品質保証っていうのかしら?なんか違うけど。やっぱ雑種より血統書つきがいいって言うし。」
ひらひらと手を振って笑いながらなので思わず流しかけるが、口は悪い。
「同盟ではこんな私みたいなのは、その・・・頭の悪い印象があるのよ。その・・・街角とかにいる・・・ね。」
フィリーネの場合はそれでも楚々としたその雰囲気と眼差しの怜悧さがいくらか印象を和らげてはいるらしい。ただどうかすると歩いている後姿からとても言えないような声をかけられたことは、確かにある。
「あ〜。まぁ聞いたことはある。・・・まぁ都合よくはいかないものよね。」
ころころと笑い転げていたところに、今日見ている限り2度目のビアンカの携帯が鳴り出した。
10分ほどの会話にビアンカが操ったのは帝国公用語に同盟公用語、フェザーン公用語にフィリーネの耳にはかろうじて意味がわかる程度だったがどこかの星系の惑星標準語由来の単語が混じっていた。
「こんな時間までお仕事なんて、やっぱり忙しいの?」
「うーん。まぁ忙しくないってわけじゃないけどこの電話は特別かな。恒星間のFTLから引っ張ってるんだけど宇宙空間の磁気嵐とかフレアとかの関係でね。この時間が一番つながりやすいの。私もだけど相手も残業だから条件は一緒かな。でも、ま、片付いたし。今夜はゆっくり眠れそうかな。」
こともなげに言うビアンカにフィリーネはあっけに取られる。戦いに臨んでいるときは不眠不休、不規則な生活は当然だったがデスクワークに従事するようになってからは定刻どおりの勤務でことは足りている。正直な部分でデスクワーク中心の業務にそんな制約があろうとは思いもよらなかった。
「あ。ワーカーホリックって思ってる?」
「ううん。その、大変なんだなって思って。」
「いえいえ。ワーカーホリック大いにあたってるので反論のしようもございません。楽しいばかりじゃないけど、これができるのは私が生きてる証拠にもなるというか。うーん。生き残った人間の責任?違う、重いな。うん、やっぱこういうの好きなんだと思う。根っこのところで。」
そう言って笑みとも自嘲とも判別しにくいあいまいな表情を浮かべたビアンカにフィリーネはわが身を省みる。自分は今まで通訳という仕事にそこまでの熱意を持ってあたっていただろうか?そんな表情に察知したのか、居住まいをわずかに正したビアンカが問いかけた。
「な。話を戻すけど軍でなんで通訳なん?帝国語が堪能でそれを『道具』として使いこなせたから?なんとなく?」
フィリーネは質問の真意を測りかねたのか一瞬戸惑った表情になった。
「言葉は道具やんな。こう胸の奥に抱えてること、いろいろとした細かい技術とかの伝達とかに必要だよね。でも結局は人が使うもの、人と人との架け橋になるもの。伝えたいっていう熱意が必要なんだと私は思うんだよね。今の段階のベルにはそれがどこまでわかってるのかな?とは思ったかな。」
「自分でもそう思った。自分は機械みたいに伝えればいい、って思ってたんじゃないかな?って。はっきり思ってたわけじゃないのよ。ただ、人と人とをつなぐっていう意識は希薄だったかもしれない。なんというか・・・それが改めて自覚できて、今はよかったと思ってる。これは負け惜しみとかじゃないのよ。」
「まぁまぁそんな顔しないで。えらそうに言ってるけど私だってまだ自分が不十分なことは十分わかってる。だって私たちまだ20代なんよ。そんなに達観できるわけないじゃん。」
「痛い思いして成長していくのも大事って事よ。・・・ってえらそうに言ってて私もいつ大コケするかわからないなぁ。」
こんなことを言うタイプじゃないんだけどなぁ、と言って照れた表情を浮かべるビアンカの顔をフィリーネはまじまじと見つめ返した。
(どう答えたほうがいいのかな。やっぱり私、すこし固すぎるのかしら?)
「それもだけどさ。ね、フィリーネ。ちょっとお肌触らせてくれる?」
言いかけながら指がすばやく伸びて、フィリーネの頬をビアンカの指先がそっとなぞる。
「うわぁ。ちょっとビックリした。」
少し冷えていた指先にフィリーネが肩を竦めると、頬に当てるのを指先から手のひらに変えたビアンカがふぅとひとつ息を吐く。
「いいなぁ・・・。つやつやしてて赤ちゃんみたいな弾力。ねぇ、どこの化粧品使ってるの?」
「え?どこのって?そんな特に気にしてないけど。普通よ、普通。」
「白いと意外と日焼けとかで簡単にシミとかになっちゃうけど、どうもそんなものないみたいだし。隠さないで教えてよ。」
食い下がるビアンカにフィリーネは記憶を辿ってメーカーの名前をいくつかあげてみた。
「ふぅん・・・。なんか特別なのとかじゃないのかぁ。やっぱ食事と睡眠かなぁ。」
滑らかな感触を楽しむようにいつまでも頬に触れたままビアンカの指先の動きにフィリーネの頬はなぜか徐々に薄紅に染まる。
「わ、かわいい。ミュラー閣下にもこんな表情するの?だったらなんかあの人が手放したくなくなるのわかる気がするなぁ。」
「もう。やだ。そんなこと言わないでよ。今日何回も思ったんだけどビアンカ、少しあけすけすぎない?さっきだって・・・」
フィリーネの言葉をさえぎる様なけたたましい破壊音が女性二人の静寂をぶち破った。
「ビアンカ、なんかすごい音がしてる・・・。」
「ちょっと待って。」
立ち上がり駆け出そうとしたフィリーネの腕を取って引き止めるたビアンカはいくつかのリモコンの中からすばやくひとつを選び出して立ち上がる。それと同時にまたキッチンから陶器か何かが破壊される音が響き、フィリーネは思わず肩を竦める。戦闘の音とは違い生活に密着した何かが壊れる音は神経の異なる部分を逆なでするようだ。
「だって、早く止めないと。お皿とかたくさん壊れちゃう。」
「そっちかいな。ま、フィリーネ、よく聞いてや。」
何かのリモコンを手にしてキッチンへと向かうビアンカは人の悪い表情でにこりと笑う。乱闘中であろう男二人に聞かれても即座にはわからないように同盟語に切り替えてこう続けた。
「男ってバカやんなぁ。あれ、きっとしょーもないことで揉めてるんよ。賭けてもいいわ。」
「そ、そんな余裕してていいんですか?」
「ええの。ええの。お皿とかはもったいないかなーと思わなくもないけど、形あるものは必ず壊れる、これはしゃーないわ。」
「間違ってはいないけど・・・。でも・・・あ、なんか割れた。」
「そもそもミュラー閣下とうちのがしょーもないこと言ってうちら第一印象悪くなったわけじゃん。」
「はぁ・・・。まぁ。」
「で、今度は性懲りもなく、ああなってると。反省がいるとは思わん?」
「ええ。だから!こんなことしてる場合じゃないんじゃ・・・。」
そう言うフィリーネの前でビアンカは人差し指を立て、ちっちっちと言いつつ振った。反対の手にはリモコン。なぜかそれはフィリーネの目には何かとてつもない悪意を持って映る。
「反省、それは頭を冷やすのが一番や。・・・で、こうする。フリッツ。閣下」
殴りあいを続ける男の視線が声の方へと向く。
「はぁい。頭、冷やしてね。」
そう言って傍らのフィリーネが、同性として見ても最高に蕩けそうな微笑を浮かべたビアンカは手元のリモコンのスイッチを入れた。
キッチンと廊下を隔てる防火ガラスが瞬時に閉ざされると同時に激しい勢いで水が降り注ぎ、男たち二人に時ならぬ大雨が降り注いだ。