第7話  Far Memory     (蒼山史樹)







宇宙歴788年。
ハイネセン近郊コリントス・シティ。ロザリアン・ジュニアアンドハイスクール。
ビアンカが初めてフィリーネと出会った場所である。
いわずもがな、この場所は両人が当時通学していた学校であり、二人はここに付属する図書館で人生最初に対面を果たすこととなった。

この時期のビアンカにとって学校というものは退屈極まりないものであった。頭脳が優秀であるからそもそもの授業がつまらないということに加えて、何より彼女は元々の出自が同盟ではない。そんな事情から、クラスメート達には意識するとはなしにビアンカは敬遠された存在であった。であるから、長めの休み時間も放課後も兎に角空き時間があればビアンカの足の向く先は自ずと決まっていた。
あらゆる知識の宝庫、図書館である。
ここならば誰に気兼ねすることもない上に、所狭しと並ぶ蔵書の数々が彼女の知的好奇心をも充分刺激してくれた。
そんな場所である日ふと目に留まった自分より3つ4つ下だと思われる少女、それがフィリーネである。
一度二度見かけただけなら印象には残らなかったのかもしれない。
しかし、その少女はいつも図書館で読書に耽っている。
ビアンカがその場所を訪れる度にほぼ確実に遭遇するのだから、本が友人なのだろうか。それとも本当は図書館に住み着いている亡霊の類で、実際に目に見えているのは自分だけなのか。
「幽霊の正体、枯れ尾花」
とはいつの時代の何処の国の言葉だったか。
非現実的だと苦笑しながらもビアンカの脳裏にはそんな考えが張り付いて、一人、自分の想像力の逞しさに頬を緩めたものだった。
それにしても、金髪碧眼の幽霊とは出来過ぎた話だ。
彼女は本当にこの世に存在するのか。それともまさかの幻なのか。
果たして、少女を見かける数が両手の十指で足りなくなりかけた頃、気づかれないようにそっと彼女の後ろに立ってみた。
果たして結果として少女は実在の人物であったのだが、その背後から覗き見た本の中身が問題だった。それはどうやら帝国公用語、それもビアンカが知る言語より古い時代の所謂古典の類だ。自分より年少の生徒が読む内容とはとても思えなかった。更に、また別のある日はピアノの譜面と思しき楽譜。音符が複雑怪奇にズラリと並んでいる。あきらかに図書館の蔵書ではないだろう。持ち込んでまで読み耽っているのかと人知れず目を丸くした。
それでもそんな事が何回か続いたある日。
その日もまた、図書室の扉を開けて真っ先に飛び込んできたにはあの少女の姿だった。
(今日は何を読んでいるのだろう)
いつものようにそっと彼女の後ろに歩を進め、何気を装って背後から本を覗き込む。
『ベル』という同盟公用語が見えた。
「あんたがベルよね…」
意識するとはなしにボソリと言葉が口をついて出てしまった。
瞬間、書物に集中されていた少女の意識がこちらに向き、その本体がくるりと首を巡らした。
しまったと思い、心の中で慌てて口を両手で塞いだが遅かった。
「私がベルに似てるということでしょうか?」
振り返った青い瞳が訝しげに問うている。
それはそうと、金髪碧眼の正統派な美少女といえなくもない読書好きの少女には空想癖もあったりするのだろうか。
物語の中の『ベル』は街でも変わり者で有名な主人公のことである。正確に『ベル』に喩えるのであれば、この少女も周囲から変わり者と称されてなければならないだろう。
(毎日のように図書館で見かけるんだからそうなのかな)
親しい友人の一人もいないのかもしれない。
だったら彼女の未来は野獣の王子様と結ばれる運命にあるというのか。そうだとするなら、本当に本の中から抜け出した物語の主人公だ。
名も知らない少女のそんな未来予想図が頭の中を駆け巡るとビアンカはぷっと噴出するのをどうにも止めることが出来なかった。
「何故お笑いになるのですか?」
丁寧な大人びた言葉使いとは逆に白い頬が紅潮して年相応のはらみを見せるが、しかし、公共の場でのマナーも心得ているのか、熱し具合に反比例して声は抑え気味である。
「ごめんごめん。思わず…ね」
ぐいと顔を近づけて小声で囁き、
「いつもここで本読んでるよね」
言った側から相手の了承など得ずに空いていた隣の席に腰掛けた。
「あんた、名前なんていうの?」
「答える義務はありません。それに相手の名前を尋ねるならまずは自ら名乗るべきです」
ぷいと本の世界に戻してしまった。
それにしても、いつの時代の何処のお嬢様なのか。やたら言葉が丁寧で上から目線である。
ビアンカは内心で溜息をつき、それでも懲りずに隣の空席にカバンを置いた。これは言わずもがな、持ち前の好奇心が頭をもたげてしまった結果にすぎない。
そして頬杖をつくと、活字の世界に没頭する横顔を視界に入れてその姿を見守った。

どのくらい経った頃だろうか。
「…本当は存じ上げておりますよ」
読んでいる本からは視線を外さずに、やがて少女が口を開いた。
「上級生の中でも一際目を引きますもの。主に背丈の面で、ですけれど…」
と、瞬間、ビアンカは椅子を弾き飛ばす勢いで立ち上がる。そして何事かと瞳を見開く相手の鼻先にまたしても顔を近づけた。
「あんた。その言葉、何処で覚えたん!?帝国の子なん?」
漸くこちらに反応した少女が発した言葉は、少し変わってるが帝国本土でも充分に通用するだろう帝国公用語だったのだ。
「違います。でも貴女は帝国方面からいらしたのではありませんか?誰かが言ってました」
だから帝国公用語で話してみた。少女は流暢な帝国語でそう述べた。
驚きに思わず声を荒げてしまったビアンカであったが、意識的に呼吸を整え、気を取り直す意味も込めて大仰に溜息を吐きながら、
「残念だけどな、出身は帝国じゃないんよ」
同盟公用語で否定した。
正確には伯母と共に独立商船で銀河を飛び回る生活をしていたのだが、説明しても分かるかどうか。
そんな考えもふと頭を過ったが、目の前の少女――フィリーネはハイネセンではとんと聞いた事のない種類の言葉に内心で首を捻りながらも、物知り風にふうんと鼻で相槌を打ってみせた。所謂、知ったかぶりをしたのである。
だが、この時のビアンカにはそんなことはどうでも良かった。
「それよりあんた、もしかして亡命貴族なん?びっくりしたわー。ああ、それからな、私は『貴女』とちゃうわ。ビアンカ・ヴィーク。先に名乗れって云われたからじゃないけど、確かにきちんとした名前あるしな。よろしくな」
「そうですか。それでは私も名乗りましょう」
「名乗りましょうって…一体なんなん?何処のお嬢様なの…」
椅子に座り直して呆れた目線を投げかけるビアンカを尻目にフィリーネは初めて微笑んだ。
「フィリーネと云います。正式にはフィリーネ・フォン・リーゼンフェルトと申します」
「フォンて…。やっぱりあんた亡命貴族やんか」
「それは昔のことだと御爺様が仰ってました。ですから今は同盟国民です」
「だから言葉もおかしいのか」
ストンと胸に落ちた。
「ところで私の言葉は間違ってるのでしょうか?通じませんか?」
今度は同盟公用語である。小首を傾げた表情から出た言葉はやはりお上品だ。
「間違ってるっていうか…あれだね、きっと」
「あれ?」
「フィリーネはずっと前に亡命してきたって聞いてるんやろ?」
小さな手に支えられた本の端っこがぎゅっと折れ曲がる音が聞こえたような気がした。何の気なしに発言したビアンカだったが、今のフィリーネにとっては大問題であるのかもしれない。先ほどの素っ気なさとは一転、大きめの青い瞳が固唾を飲んでこちらを見つめている。綺麗な濃い青だった。
「だったら少し古いのかもしれへん」
「古い?」
「うーん。本にも古典ってあるやろ?」
フィリーネが頷くのを確認して言葉を続ける。
「普通話してる言葉と違うのは分かるよね」
「ええ。この本だって時々分からないところがありますのに、古典は更に難解です」
やたら丁寧で古語めいた言葉遣いに疲労を感じ始めながらもビアンカは頷く。
「そうそう。昔の言葉はね、ちょっと違うんよ。今の言葉と。それと似たようなものかな」
「では私の言葉は難解だと仰るのですか?」
「いや、分かるよ。だけど少し違うのかなって、ね」
「そうですか…」
ポツリとそうとだけ言ったフィリーネの視線が再び本に転じられると、胸の内に罪悪感が沸き起こるのをビアンカは感じた。
「ああ!でも全く問題ないよ。充分通じるし。それにこの先もっと上の学年になったら、きちんとした帝国の言葉勉強できるし…」
慌てて言ってしまったが、同盟の教育に関してはさっぱりだったので自分の発言に対して責任が持てるわけでは決してない。
「今からそんなに話せるんだから、きっと一番になれるわ!」
初めて話した相手を何故ここまで持ち上げねばならぬのかと思いつつも、罪悪感の原因は何処か寂しげに自分から外された視線だったのではないかと思い至った。

***

あの時、充分に通じると言い切った挙句に一番になれると発言してしまった自分と、日中の会議の席での自分が、ビアンカの脳裏にオーバーラップした。
子供の頃の他愛ないやり取り。
責任があるなどとは思わないし、フィリーネもまた彼女に責任を押し付けるなどという愚かな真似は決してしないだろう。
それでも頭を抱えたい気分になったのは事実だった。
だが、それにしても皮肉なものである。
言葉で結びついた自分たちが、今また言葉をきっかけに再会するというのだから。
あの頃から比べれば遥かに成長したフィリーネを視界に入れながらビアンカは深い溜息をついた。

「ベルって君の渾名か何かなのかい?」
困惑を全身に滲み出して今や微動だにしないフィリーネを開放すべく、最初に口を開いたのはミュラーだった。
ビアンカの蜂蜜色と正面から対峙していた青色がゆっくりと傍らの砂色に向けられる。
「渾名、じゃないけど渾名…」
要領を得ない。
「その頃、転校したてで友達がいなかったの。だから学校の図書館に通ってたの」
「そこで会ったのよね」
ニッコリと逆隣りのビアンカが微笑んだ。
「それにしても、変わり者が由来の渾名とは…」
少し間違えればイジメに近いとはビッテンフェルトの素直な感想である。
「嫌じゃなかったのかい?」
次はミュラーだ。
「確かに最初は少し頭に来たけど、でも…」
「でも?」
ミュラーが復唱するとフィリーネは無言で俯いてしまった。
薄らと陰影がかった顔が紅潮して見えるのは気のせいか。
「本当は嬉しかったんやろ?物語の主人公になったみたいで」
すかさず食いついたビアンカがニヤリと正解を披露すると、飛び上がらんばかりにフィリーネの顔を上がり、
「そうよ!それにビアンカがお揃いだっていってくれたから、すごく嬉しかったの!!」
語調も荒く、まくし立てるように言い切った姿にビッテンフェルトが目を丸くし、ミュラーが息をのむ気配が伝わった。
だが、フィリーネのビアンカに対する呼称が「ヴィーク秘書官」から「ビアンカ」になっている。
真っ先にそれに気づいたのは意外や意外、ビッテンフェルトだった。彼は顔には出さずに「ほお!」と感嘆の声を上げ、事の成り行きを見守る為に組んだ足を組み替えた。
対して、もう一人の傍観人でもあるミュラーはそれにしてもと考える。
これまでもフィリーネには気の強い部分があると認識していたつもりだったが、こうした類の感情を爆発させることもあろうとは。新鮮な驚きである。こんな鉄拳の奮われ方であるならばまんざらでもない。しかし、万が一にでも口にすれば全身に浴びせられる白目は免れまい。この件に関しては断固として口を噤むべきである。
決断した矢先、ふと上げた目線がビッテンフェルトのそれと邂逅を果たし、何気ない振りを装わねばと気を取り直した瞬間には先方の表情がニヤリといびつに歪むのが見て取れた。
己の思考がそっくりそのまま読まれたような錯覚を覚えたミュラーが、早急に視線と意識を逸らすことに専念したのはいつもの如くである。

「そんなこと言ったっけ?」
男どもの見えないやり取りの間にも女性同士の思い出話は続く。
だがビアンカの中にはフィリーネにお揃いだなどと言った記憶は微塵も存在しなかった。
「言ったわ。覚えてないの?」
(ああ、この目だ…!)
昔、奇妙な帝国公用語だと言ったビアンカに対してフィリーネが向けた瞳である。
今なら分かる。
あの時、彼女は人知れず傷ついたのだ。
「ごめんな。私、昔のことって忘れっぽいんや」
自覚はなかったが、気づいた時にはそう謝罪していた。

***


「ビアンカさんはさっき私のことベルって言いました。ベルは私の知る限りでは変わり者って意味です」
「そうよ。だってそうでしょ。友達とも遊ばないでここでいつも本を読んでる。違う?」
「確かにそうかもしれません…」
ひとしきり俯いたフィリーネだったが、やがて顔を上げ正面からビアンカを見据え、
「だって、皆、私とあんまり話してくれないし、だったら本読んでたほうが楽しいかなって…」
何処か拗ねたように放たれた言葉は普通の女の子のそれで、内心で目を瞠りながらもビアンカは身体の奥から自然と滲み出る暖かさを感じて我知らず口調を和らげた。
「本が好き?」
「うん」
「なら、ベルと同じじゃない」
「でも変な人だって書いてある」
「変…ねぇ」
だがそれには首を傾げた。
確かにそうかもしれない。本にだって書いてある。だけど…。
「別に個性ってことでいいんじゃない」
「個性?」
「そ!それにね、私も友達いないんだ。転校生ってのもあるとは思うんだけど…うーん…」
首を捻って唸るビアンカの横でフィリーネもまた倣うように小首を傾げる。と、何かに思い当ったようにビアンカの蜂蜜色の瞳がキラキラと黄金色に輝いて、フィリーネの眼前にスラリと長い人差し指が立てられた。
「だったらお揃いってことでどう?」
「お揃い!?」
瞬間、青い瞳が宝石の如くに煌めき、憂い気だった顔には大輪の花が開いた。これにはビアンカも釣られずにはいられない。自ずと同様の笑みがこれでもかと零れるのだった。
「そう!私たち同じよ。だからお揃い」
「ホントに!?」
「本当に!」
「あのね、本当はね、私も転校生なの。でもビアンカよりここに来たのは早いの」
「じゃあ、それでいいやんか!フィリーネも私もベルだ!!」

***


「でもその後、ベルって呼び名使ってたのは専らビアンカのほうだったけど…。本当に覚えてないの?」
具体的な過去の出来事を出されてしばし腕を組んで悩む仕草を見せていたビアンカだったが、やがては降参の意を示すべく両手をパンと合わせて謝罪してしまった。
「ごめん!記憶にないわ」
あからさまに深い溜息をついて肩を落としたフィリーネに申し訳ないことこの上なかったが、真実だから仕方ない。
「いいやないの。あんたもさっきまで私のことすっかり忘れとったんやから!」
だが瞬く間に気を取り直したビアンカが、昔していたようにフィリーネの頭を撫でると以前と変わらない上質な金糸が手に心地よかった。懐かしく優しい感触だった。
「何か釈然としない…」
しかし、相手は悲哀半分、憮然半分といった風である。
「おあいこ、おあいこ。ね!」
「おあいこって…」
恨めしそうに上目遣いでこちらを見つめる姿に、そして更に畳み掛ける。
「もうあんたは!そのクソ真面目なところも変わってないんやな〜」
人生もっと簡単に考えたほうが楽だと今日二度目となる抱擁をするビアンカであった。
傍らではビッテンフェルトとミュラーが二人同時に安堵の息を洩らしたが、それを認識する余裕がこの時のフィリーネにはあるはずもなかった。




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