第6話 戦況激変 (ゆうやん)
「それは・・・どういうことですか?」
フィリーネの声が硬く、幾分か震えを帯びて聞こえた。ビアンカがおや?という表情になってそんな彼女をみやる。
「いや・・・その。」
責めるような色を浮かべた青い瞳にミュラーは説明するための言葉に窮した。
「ミュラー閣下はいったいどう言ってフロイラインをここまでお連れしたのですか?でも、フロイラインもここに誘われた時点である程度は察していたのではなかったのですか?」
また自分を責めるのか?ときっとビアンカを見返そうとしたフィリーネだが、ビアンカの蜂蜜色の瞳に多少のからかいはあったものの素直な驚きが浮かんでいるのをみとめてその勢いは削がれてしまう。たしかにミュラーの意図はたやすく察せられるものだったのだから。
「ま、ミュラーにどんな意図があったとしても、少なくともその半分はフロイラインの為を思ってのこともまた事実だろう。とりあえず俺はあなたよりもこの男との付き合いは長い。少なくとも自分のためだけに事を起こすヤツではない。保証しよう。ま、俺に言われずともあなたにもわかるだろう?」
彼は女性同士が仲たがいをしようが和解に向かおうが根本的には興味はないだろう。どういういきさつでこうなったかはミュラーと彼のみが知るところではあるが、それでも彼なりにフィリーネにも気を使ってくれていることは明らかだ。
粗野なだけの典型的な軍人という印象を彼に抱いていたが、以外に器用で他人に配慮することのできる男だということを見せられて会議の時から今日一日、フィリーネのビッテンフェルトという男への評価は随分と変化していた。そんな彼にまでそう言われればフィリーネに否やはなかった。
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(これは・・・なかなかにおもろいことになってきたんやないの?)
誰にも聞かれない内心でビアンカは自分がこの状況をいまや楽しんでいることに気がついていた。
もともと彼女のことをいけすかない、と思った理由の大部分はその純粋培養されたがごとき典型的な貴族を印象付けさせる金髪碧眼と、軍人らしからぬ楚々としたその雰囲気によるところが大きい。外見上どうしても遊び好きで軽い雰囲気に見られがちなビアンカにとって、それは羨望にも似た感覚だった。
だが目の前のフィリーネが感情の赴くままに表情をくるくると変えるのを見ているうちにそれが第一印象に過ぎないことを思い知らされた。まだ完全に見方が変わったとは言い難いが、気取った仮面の下に息づく生の人間性に触れた。
そう感じるとビアンカの中に反感に取って代わり今度は持ち前の好奇心が沸き起こってきたのだった。
ミュラーは非礼をとがめたが、最後の発言などビアンカのが来し方に受けてきた発言をかんがみればかわいいものである。
(余計なこと言わんといいのに、ポロと言ってしまうところなんて・・・まぁかわいいもんやないの。そう言えば会議の時もそうやったわねぇ。もう少しオブラートに包んだ言い方もあろうってものなのにねぇ。わかりやす。ってかもともと素直なお嬢ちゃんってことか。)
今や余裕すら感じながらフィリーネを見ていたビアンカはふと彼女の表情に既視感を覚えた。
不満そうに口を曲げ、でもそれを必死で悟られまいとしているそれはだがそれは最近の記憶ではない。記憶の中のそれは随分と幼い表情のような気がする。
(なんだろ?この子・・・どうして?懐かしい気がする・・・)
だが瞬時に思い出すことはどうしてもできず、ビアンカはひとまずは記憶を探ることをあっさりと断念した。
そして一方で絶妙なタイミングで場を和らげたビッテンフェルトの横顔を見ていると安心感が胸を温める。彼女は我知らずに微笑を浮かべるとビッテンフェルトの手をぎゅっと強く握った。
突然の行動に、ビッテンフェルトは「お?」という表情を浮かべはしたが、それを言葉にすることもなく、口の端だけを軽くあげて見せただけだった。
「まぁ。そういう事なので・・・さっきも言ったようにできれば私は和解への道を模索したいと思ってます。どうですか?」
もう一度ビッテンフェルトに笑みを見せた後でビアンカは言った。
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ビアンカの言葉にフィリーネは改めて身を硬くした。ここは自分がそれを受け入れれば話はスムーズにまとまる。ミュラーの愁眉は開くだろうし、この気まずい訪問もとりあえずは終わりを向かえることになるだろう。職務も変わればビアンカと顔を合わせることはなくなるだろうからこの場さえしのげればいい。
だが、どうしてもそれは受け入れがたいことで、フィリーネの声帯は彼女の意思に反して本能に従い声を発することを拒んでいるかのようだ。
と、部屋に満ちた緊張した静けさを携帯の着信音が引き裂く。
「あ・・・・ごめん。仕事の電話。すみません。ちょっと失礼します。」
そう言うとビアンカが立ち上がり携帯の置かれた部屋の隅の小机に向かう。
「はい、お待たせ。私です。ええ?繋いでくれる。うん、構わないから。」
そう言うとくるりと上体だけで振り返り、失礼をわびるように軽く会釈すると、小さなシャツに押し込まれた豊満な体が主張するように揺れた。
ほとんど小走りで部屋を去ったビアンカは書斎にでも行ったのか、ドアの閉まる音が聞こえてきた。
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フィリーネは突然ビアンカが傍らの男に向けて見せた笑顔に記憶層を刺激されていた。
(あ・・・この顔、どこかで見た・・・。似てる。そう、あの写真だわ。)
フィリーネの脳裏に色彩まで鮮やかに、数ヶ月前の記憶がよみがえってきた。
ミュラーがどうしてもはずせない用件で皇宮へ赴き、フィリーネが一人ミュラーの自宅で待っていた日のこと。特に興味を引くようなテレビ番組もなく、家主からの許可は得ていたので徒然にミュラーの本を覗いていた。気まぐれに手に取った1冊はフェザーン語の会話テキストである。
今ではフェザーン語にも流暢なミュラーもこんな本が必要な時期があったのだと思うと微笑ましくもあり、フィリーネはページをめくった。何ページかめくり次の本に移ろうと書棚に戻そうとしたその時、ひらりと一葉の写真が舞い降りた。
(いけない。戻しておかないと・・・)
伸ばしかけたフィリーネの指が寸前でふと止まった。
そこには柔らかい笑顔を向ける女性がいた。長く癖のない濃褐色の髪をした彼女は満たされた笑顔を向けている。
その笑顔を向けた相手はきっとミュラーだろうと思うとフィリーネの胸は鈍く痛んだ。彼女よりは年長である彼だから当然そのような経験が皆無ではなかろうことは頭では理解しているつもりだった。自分の事もある。
だが、それを現実的な形を取って見せられることは、やはり強い痛みを伴わずにはいられなかったのだ。
だからフィリーネはビアンカの姿、正確にはその濃褐色の髪をみた時に写真の記憶が想起されて心に漣が立ったのだ。そこにミュラーの何気ない一言が加わり、ビアンカ自身からのよそよそしい応対もあって確固たる忌避まで高まったのだった。
(似てる・・・・。やっぱり。だからナイトハルトはあの人をかばうの?)
砂色の瞳が自分を見つめていてくれれば、そんな想いは笑い飛ばして自分も彼の望む方向へ一歩踏み出すことができるかもしれない、と思いながらも今フィリーネはどうしても彼の顔を素直に見ることができずにいた。
「奥方は相変わらず忙しいようですね。自宅までとは大変だ。」
限界近くまで高まった緊張感から急に開放されてミュラーが息をつくようにそう言った。
「あ、まぁもう慣れたがな。好きでやってることだから止めるだけ無駄だ。」
ビッテンフェルトはそう言って、なぜかフィリーネには寂しげに見える笑みを浮かべた。
フィリーネはふと思い出す。ビアンカにまつわる噂のひとつ、彼女と今は亡き初代工部尚書とのいわゆる『特別な』関係のこと。ビッテンフェルトはそのことを考えたのだろうか。だとしたらビアンカはずいぶんと自分勝手なのではないだろうか。
そこまで考えるとフィリーネは少し悲しくなった。
(あぁ私ってこんなに人を貶めようとする人間じゃないと思っていたのに。)
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「失礼しました。電話で何とかすることができました。お待たせして申し訳ありませんね。」
そう言いながら戻ってきたビアンカを迎えたフィリーネの青い瞳は、だから何とも言いがたい怒りにも似た感情を浮かべていたのかもしれない。そんなフィリーネの青い瞳をビアンカはじっと見つめた。この表情をもう少し幼く、もう少しふっくらとさせれば何かがよみがえりそうな気がする。
あまりにまじまじと見つめられてフィリーネはいささか居心地悪げに息を飲むのと、ビアンカが唐突に切り出すのはほぼ同時だ。
「ベル・・・って呼ばれたこと、ない?」
「は?」
フィリーネの名前にはどこをどういじってもベルになるはずがない。ミュラーは突然の話題の転換に目を白黒とさせている。
しかし、フィリーネはその名に聞き覚えがあった。だがまだ半ば固まっているフィリーネをよそにビアンカはすくっと立ち上がるとすばやく移動しその傍らにすとん、と座った。
「あ、あの・・・」
問いかけようとしたフィリーネを蜂蜜色の丸い瞳がじっと見つめる。
(あれ?私も・・・この目は知ってる・・・かもしれない?)
例の写真の残した強い印象を濃褐色の髪を除いて自分を見つめる蜂蜜色の瞳にだけ意識を向けてみれば、その瞳はもうひとつの眠りかけていた記憶を思い起こしてフィリーネはそれを確実につかもうとした。
その瞬間、冷たい手が急に頬を挟み込む。そればかりか、挟んだ手のひらで頬をムニムニと動かされた。
「ちょ・・・フラウ、ビアンカ・・・。君いったい何してるんだ?」
「おいおいおい。お前、突然何始めるんだ?」
事態の急変についていけない男たちの驚愕をよそにビアンカはフィリーネから視線を外さなかった。
フィリーネは魔女の手から逃れようとするように身をよじった。が、ビアンカの指先はしっかり捕らえてそれを許さない。
「宇宙暦788年、ハイネセン近郊のコリントス・シティ。ロザリアン・ジュニアアンドハイスクール」
そんな男たちの混乱にはまったく関心をむけずにビアンカが口にした単語はフィリーネの記憶をさらに揺さぶる。
なぜビアンカが自分の出身校、しかも両親の転勤で半年しかいなかった校名を知っている・・・。戸惑うフィリーネに構わずビアンカは彼女を思い切り抱きしめ、先ほどまでの完璧なアクセントはどこへやら、フェザーンの訛りの同盟公用語で叫んだ。
「な、やっぱりあんた、ベルやったんや。本名忘れてしまっててごめんな〜。大きくなったなぁ。・・・て私もたいがい成長したけどな。」
「あ・・・。あの。あの??」
一瞬前まで忌避していた豊満な胸に抱きすくめられてフィリーネは軍人としては不覚にも身動きもできない。ミュラーもビッテンフェルトも手出しすることもできずに呆然とするばかりだった。
「なんだ?お前たち、以前に会ったことがあったのか?そんな大事なことどうして思い出さなかったんだ?」
「だって子供の時の話だもの。まさかそんなことがあるなんて思わなかったし。」
ビッテンフェルトの呆れた声にビアンカは肩を竦めて笑って答えた。
「もう身長も160センチとかとっくに越えてたし、小学校バッグの似合わない小学生っだったし。この子のことを除いたらあんまり楽しい記憶でもなかったからね。」
ビッテンフェルトは脳内で現在のビアンカに小学生のような制服でも着せてみたのか、複雑な表情を浮かべている。
ビアンカはフェザーンで大学入学資格試験に合格した後、2年ほど叔母夫妻とともに商船で宇宙を旅していた。
商用で半年ほど滞在することになったハイネセンで、通学経験の少ないビアンカは大学か高校かに実際に通わせようとしたのだが学制上の違いで年齢どおり『小学校』に通うことになってしまったのだという。
「資格試験に突破はしてたけどどこにも入学してるわけじゃないから大学はダメって。フェザーンで高校も行ってなかったからね。ほとんど通信講座だったんだけど、同盟の公式でなかったとか、もうややこしくて忘れたけどね。」
「そりゃ、さぞかし見ものだっただろうなぁ。」
「もう学校が毎日退屈で。いや、授業だけの話だけど。ベルと知り合ってからはまぁそこそこ楽しかったけどね。だからフェザーンの大学に行くのも結構憂鬱だったんだけど大学は案外おもしろかったからよかったけどね。」
ビアンカの声を聞きながら、フィリーネは漠然とした記憶が急にはっきりと形を取り戻していくのにまだ困惑していた。
<END>