第5話 敵前逃亡 (蒼山史樹)
「私は…!私は正直なところ、あまり深く考えたことはありませんでした」
6つの視線に包囲されたフィリーネの第一声だった。
これまでの話の流れに添って言葉の意味をそのまま取ってしまえば、とんでもない発言のように思われる。
「でも正直なところ今回の一件と秘書官の言葉で私は思いました。今まで自分は何をしてきたのかと。故の今回の結果だと考えます。ですから、秘書官が誓って二心や私心無くそうだと思われるのなら、どうぞ更迭を要求してください。私は甘んじて、上の決定に従うのみです」
淀みなく言い切った。
「それに先ほどヴィーク秘書官が話された辺境の実態も私にとっては資料や書類上の話でしかありませんでしたし…」
ビアンカの口を借りて語られた辺境の実態は生々しく、フィリーネは素直に身がすくむ思いを覚えた。同時にこれまでの人生において自分がいかに恵まれた存在であったかを思い知った。
先刻、ビッテンフェルト家への道中、ミュラーがフィリーネにビアンカのこれまで歩んできた人生を僅かばかりであるが語ってくれた。
それと比較したって、いや、比肩など出来ないくらいやはり自分は恵まれていたのだ。これまでの仕事上においても大したトラブルに見舞われた覚えがないのは単に運が良かっただけなのだろう。故の経験不足からくる不案内であり、短慮であったと実感せずにはいられない。
「ですから、いつか私が今の職責を失うのは必然のことであったと考えます。ただ単にその日が今日だったというだけなのかもしれません。但し、叶うことでしたら近い将来再びの現職への復帰は望むつもりです。勿論、誰にも後ろ指差されることがないようにもっと実力をつけた上で……」
しかしフィリーネだって、今の位置に辿り着くまでに本人なりの最大限の努力はしているのである。出来うることなら更なる努力を重ねるという条件の下に現職の続行を望みたい気持ちは断固として存在するのだが、事が国家間の一大事に関わってくるとなるとそうもいかない。そのようなことは個人の問題に比べれば塵よりも小さなことであるという認識があるからこその決断である。
それでも、これを口にするのは自分の矜持をまっさらにすることと同義でもある。
「覚悟はできております」
意識するとしないとに関わらずフィリーネの奥底から熱いものがこみ上げてくるが、しかしそれを許してしまったら負けのような気がした。
この時、ミュラーにも彼女の様子が尋常じゃないことは容易に推し量れた。
無意識にその手が伸びるが、しかしそれは中途で断念を余儀なくされる。
不意に傍らの彼女が席を立ちあがったからだ。
「すみません、ビッテンフェルト元帥。洗面所をお借りしたいのですが宜しいですか?」
断る理由も特に見つからないだろうビッテンフェルトが口を開き、場所を説明してやる姿をビアンカは黙って見守った。
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「言ってしまった……」
トイレに隣接した洗面台の鏡面の前でフィリーネは独りごちた。
鏡に映った自分の顔がひどく青ざめて見えた。
だがあれは嘘偽りない真実であったのだから、自分の決断を信じるしかなかった。それにしても正面から自分の否と向き合い、進んで責任を取るという行為はこんなにも精神的に消耗するものだろうか。
席を立つ直前、ミュラーは自分の為にその腕を差し伸べようとしてくれた。しかし、あの場でミュラーに寄りかかってしまえば、確実に自分は涙の虜となってしまっただろう。それだけは是が非でも避けたかった。つまらないプライドであるかもしれなかったが、それに身を委ねてしまったら、何もかもが砕けそうな気がした。だから、卑怯にも逃げ出した。
それでも、今のこの空間を出る時には気分を一新しなければならないだろう。でなければ、
あの場から姿を消した意味がない。きっと、リビングに残された三人も心の底ではそれを期待している。
(だから、それはもういい。済んだことだ)
そう思わなければならない。『私』という人間としては決して愉快なことではなかったが、変な意地を張っても所詮虚像はまやかしでしかない。後々自分の身に大きな負債となって返ってくるのは確実だ。それだけは御免こうむりたかった。
「それにしても……」
普段着に着替えたビアンカの姿が鏡の中の自分と重なった。
(あの格好はなんなの)
短いシャツにローライズのジーンズは今にもヘソが見えそうだったではないか。ひょっとしたら、ジーンズに隠れた下着までチラリズムとばかりに見せることを狙っているのだろうか。胸元など豊満さを強調するためにわざと1つ2つ余計にボタンを外しているのではないのか。
でもそれらはきっと明らかな自分の欲目に違いないのだ。
違いないのだけれど、どうにも許せなかった。
(誘ってるの?)
ハイネセンではそういった格好の女性は決して珍しくはなかったが、ここは新帝国領フェザーンである。元が自由商人の家系だか何だか知らないが、果たしてそれは許されるのか。
まさかミュラーがそれに陥落することもないだろうが、そうは思っても懸念は拭い切れなかった。事実、彼はビアンカのその姿を見て喉を大きくゴクリと鳴らしていたではないか。
一つの問題が解決をみようとしている時に浮かび上がる新たな気掛かり。
フィリーネは初対面の時からビアンカに正体不明の忌避の念を抱いている。それは理由が分からないからこそ、フィリーネの意識が無意識の範囲でビアンカの欠点を探り、原因を追究させようと躍起になる成果なのかもしれなかった。
そして、女性が同性に抱いた嫉妬、特に恋情が絡んだケースにおいては、得てしてその負の感情が異性に向きはしないというのは比較的常道なのである。しかし、恋愛全般に対して年齢にそぐわない疎さを持つフィリーネにとっては甚だ思考の外の話でしかない。
(それにさっきの会話。どうしてあんなことを堂々と話せるの!?)
それは勿論、来訪当初にキッチンから漏れ聞こえてきた、この家の住人の色事に関する会話のことである。
しかし、そんな下世話な話をわざわざ他人に聞かせる趣味はビッテンフェルトもビアンカも持ち合わせてはいなかったので、それについては事故以外の何物でもないはずなのだが、フィリーネは二人の人となりを知らないし、例え知っていたとしても今の彼女にとってはそんなことは知ったことではなかった。
「ありえない…」
無意識に言葉が口をついて出ていた。
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「おい、さっきのあれは何だ?」
フィリーネが去ったリビングで真っ先に口を開いたのは、それまで腕を組んでどっかりとソファに腰を沈めていたビッテンフェルトだった。
「何だって何よ」
ビアンカが蜂蜜色の瞳で声の主を見遣る。
「昼間も驚いたが、さっきのあれもなかなか堂々としたものだったぞ」
「軍人さんですからね、元々は。貴方がたと同じね」
「人は見かけによらないというのは本当なのだな。俺は今日嫌という程知ったような気がする」
「あっそ」
その饒舌さにビアンカが呆れたように頬杖を付き、話の矛先をミュラーに向ける。
「ところでミュラー元帥。フリッツ曰く『あれ』のことですけど」
右の親指を立ててリビングの扉の向こうに位置するトイレを指し示す。
「失礼を承知でお伺いしますが、よろしいですか?」
「あ、ええ、何なりと」
心ここにあらずといった風情のミュラーであったが名指しで指定されれば我に返らざるを得ない。承諾の意を返した。
「ではお聞きしますが、あの少佐の何処が好かったのですか?」
ずばり直球の質問に砂色の瞳が氷点下と化し、本体は絶句を余儀なくされる。
「ついでにおせっかいを承知で申しますと、皇宮の女官の間で徐々にですが噂が広まってますよ。ですから、私もフリッツに聞くより以前に元帥とあの少佐の関係について認知していたわけですが」
そうなのかと氷結しかけた声帯を振り絞って問い返すと、蜂蜜色の瞳がたやすく肯定の意を提示した。
「ですから、元帥の身を案じる皇太后秘書官としては憂慮するわけです」
「それは、そうだろうね。何せ相手は……」
「そういうことではありませんよ」
述べようとした全てを語り切れぬうちに容赦なく否定によって遮られる。
「いえ、もちろんそういった事情も懸念事の一つではありますが、何よりああいった気性の女性で大丈夫なのかということです」
我知らず腰を浮かしていた。
「いや、それは個人の好みの問題もあるだろうから一概にはそうとも言えなんじゃないのかな」
それ以上の覇気を受け止めるのは御免こうむると云わんばかりに両手を前に押し出し、ははははと乾いた笑いを上げると、ミュラーの背筋をつうっと一筋の冷たい汗が流れていった。
「おいおい、ビアンカ。少し落ち着け」
今にも掴みかからんばかりの愛妻をなだめ、ほとほと疲れたと云わんばかりにビッテンフェルトが頭をがしがしと掻く。
「だがな、こいつの言うことも正解も知れんぞ」
「といいますと?」
「普段は穏やかで朗らかに笑っていてもだな、一端切れ始めるとああでは…まあ、この先卿らが一緒になるとしてだが…」
戦時は敵にも味方にも猪と渾名された猛将にしては歯切れが悪く言い難そうに言葉を切った。
そして、その先の台詞に嫌な予感を覚えたミュラーは意識して続きを遮る。
「まあ、でもそれは個人の問題ですから」
特有の穏やかな笑みを湛えつつも胸中は穏やかでは決してない。また、もう一つの内面では別の懸念を考慮して砂色の双眸をフィリーネが消えた扉の方向へと巡らした。
(それに彼女をあそこまで追い込んだ原因はもっと別のところにあるのだろうから)
******
「お待たせしました。洗面所を使わせて頂いてありがとうございます」
リビングでの会話がひとしきり落ち着いた頃、タイミングを計ったように洗面所から帰還したフィリーネが席に着く。
そもそも今回のビッテンフェルト家への訪問は気が向かなかったのだ。
ビアンカと私的に対面するということが何より気乗りしなかったし、正体不明のビアンカへの嫌悪感と昼間の一件から付随した苛々がフィリーネに予言めいた事の成り行きを示唆させていたのである。
それでもミュラーにほだされて、諭されて、のこのこと付いてきてしまった。
やはりあの時に断固として拒否すべきだったのだ。
半ば冷めかけたコーヒーに口を付けつつ、つらつらとそんなことを考えているとビアンカが声を掛けてきた。
「フロイライン・リーゼンフェルト」
階級以外の呼称で呼ばれるのは初めてだ。その事態に内心で驚きつつ顔を上げると、蜂蜜色の視線と邂逅を果たす。感情は読み取れなかった。
「お聞きしますが、フロイラインは私のことがお嫌いで?」
何とも率直な質問である。
「何故、そう思われますか」
「何となく。直感で、としか言えませんけど。因みに私は貴女のことが好きではありません。いけすかない…という言葉が妥当かもしれませんね」
再びの見事な同盟公用語だった。しかし同時にその瞳が僅かばかり穏やかに細められたような気がしたのは錯覚か。
だが、お互いがお互いに同じ感情を抱いていた事実は判明した。
「そうですか…では正直に申しましょう。偶然で恐縮ですが、私も同意見です」
納得したように目を伏せ、再度正面を向いたフィリーネが帝国公用語で切り返す。
傍らのミュラーとその差し向かいに座るビッテンフェルトが顔を見合わせる光景が視界の端に映り込んだ。
「今夜だってミュラー元帥が声を掛けて下さらなければ、この先、公の場以外で貴女に会うなど考えられませんでしたから」
するとそれを口にした途端、間髪入れずミュラーの手が動いた。
「フィリーネ!」
無礼を制止するためだ。
だが彼女は差し出された厚意を無言の元に振り払う。
言い放たれた言葉を受け止めるビアンカの眉がピクリと動いたのが見て取れた。
「そうですか」
ぽつりそう言うと小さな溜息を吐き出した。
フィリーネは続ける。
「それから、先ほど、奥で私について何事か話されていたようですけど、そちらについてはどうかお気になさらずに。それと、私などが意見することでもないと思いますが、失礼を承知であえて言わせて頂くと、殿方のおっしゃることは右から左に聞き流してるのが賢明かと思われます」
「フィリーネ…!」
たまらずミュラーが今度こそ強くたしなめる。
すると、ビクリとそれに反応した彼女が眉を寄せ、ミュラーを仰ぎ見た。
「だって…」
「だってじゃない。それはあまりにも度を越えているんじゃないのかい」
口調は優しいが断固としたものがそこには存在した。
(ほう、ミュラーもなかなかやるものだな)
事態の傍観を決め込んでいたビッテンフェルトが口には出さずに年下の僚友の態度に感心を示す。ちらりとビアンカの方を見遣ると、こちらもあからさまに表情には出さずとも似たような感想を持ったようだ。何事かを発言しようとしただろう口が、普段の彼女らしくなく半ばで停止している。
だがやがて、気を取り直した様に全身で息を吸うとフィリーネに向けて心情を吐露した。
「フロイラインのお気持ちは分かりました。この奇妙な偶然は決して喜ぶべきことではないでしょうけど、ミュラー元帥のお気持ちを考えて私は和解の道を模索したいと思っているのですが如何でしょう?」
瞬間、弾かれたようにフィリーネの青い視線がミュラーに注がれる。
そんなことを考えていたのかというまなざしであった。
対するミュラーは、思いがけなく暴露されてしまった事実に釣り上げかけた眉を正常な位置に戻すとバツの悪そうな曖昧な笑みを浮かべる。
四人、もとい、二人の歩み寄りは今始まったばかりだった。
<END>