第4話 困惑の行方 (ゆうやん)
「おぉい。出てこいよ。予告なく連れてきたのは俺が悪かったと言ってるだろうが。」
ビッテンフェルトの方もこういう展開になるとは思っていなかった。もう少し早く帰宅してビアンカにミュラーの訪問の趣旨と自分の考えを伝えておくつもりだったのだが、あの呪うべき書類仕事に帰宅の予定は大幅にずれ込んで官舎の入り口でフィリーネの説得に時間をかけたミュラーと鉢合わせをする羽目になったのだった。玄関先で待たせるのも失礼と思い、キッチンと近いリビングに通してビアンカの姿を探して先刻の展開となる。
豪放で細かいことは気にしないビッテンフェルトだったが、成り行きで聞かれた最後の内容はいかな彼でもあまり聞かれて嬉しい類のものではなかったし、ビアンカの余計な怒りを誘発したらしきことを考えれば、先ほどのミュラーへ感じた漠然とした負の感情も含めて愉快な心境ではありえない。
「どうしてもミュラーがお前と彼女を和解させたい、というのでな。俺は正直余計な世話だと思ってるのだが、あまりに頼むので了承してしまった。これで追い返すわけにもいかんから出て来い。彼女との和解までは強要せんから。」
反応のない扉に向かってそんなことを考えながら、ビッテンフェルトは正体不明の感情が沸き起こるのをふつふつと感じていた。
扉の向こうから聞こえるビッテンフェルトの声を聞きながら、ビアンカはため息をつきながらスーツの下のカットソーを脱ぎ捨てた。
もったいぶった説を聞かれたのはまだ構わない。腹蔵なく話してすっきりできるなら相手はともかくこちらの精神衛生上願ってもない。ただ・・・最後の会話だけは聞かれたくなかった。
本来ならこのまま寝室に篭城したいところだが、尋ねてきた相手を門前払いでは自分の度量がいかにも狭いようで口惜しすぎる。まして、あのような言葉を最後に聞かれたからには、それはまるで仕事上の本音の部分まで偏見のレンズで歪んでいるかのように取られるかもしれない。
(どこから聞いてたかは知らないけど、大筋の部分では私は間違ったことは言ってないわ。)
そう考えてビアンカは背筋を伸ばした。
「ごめん。フリッツ。すぐに出る。だから、・・・お客様にコーヒーでも出しておいて。お菓子余ってるから。」
とりあえず納得したのか、部屋の前から遠ざかる足音が聞こえた。
(少しでもラフに・・・そう自然体よ。苦手な相手と相対するのは仕事で慣れてるでしょ。あぁ、でもどうしよっかなぁ・・・)
そう考えながら寝室の鏡にビアンカは微笑んで見えたが、映ったその姿はなんとも引きつった笑顔をしていた。
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ミュラーとフィリーネを見た途端に脱兎のごとく2階の寝室へと駆け上がってしまったビアンカを追ったビッテンフェルトの声が階下のリビングにまで聞こえてきてミュラーは一人ため息をついた。
渋るフィリーネを何とかビッテンフェルト家まで連れてきた。だが、ビッテンフェルトもデスクワークに忙殺されて帰りが遅くなったためミュラーたちが伴われていることをあらかじめ知らせる余裕がなかったと聞いた。結果、意識せずにとのこととはいえ、ビアンカの本音をミュラーたちにとっては不本意ながら聞いてしまうことになった。
(なんか・・・かえって聞かせないほうがよかったかもしれない。しかしなぁ文官ってのはどうしてこう了見が狭いんだ。)
ビアンカの意見の後半部分、フィリーネの出自に関わることは彼女自身には何の責任もない。はっきりと偏見に分類されるだろう。それを知らずとはいえ聞かされてしまったのだから、彼女も平静でいることは益々難しいだろう。そんなことを思いつつ居心地の悪い思いでソファに身を預けるミュラーだった。
「ま、急に連れ戻ったのでな。勘弁してくれ。やけ食いの後始末と着替えをしたらすぐに出てくるそうだ。」
どうにか場を収めたのかビッテンフェルトは場の雰囲気を和ませようとしてか『やけ食い』という言葉を強調しながらキッチンへと引っ込むと、すぐにトレイにコーヒーを4つと適当に見繕ったのか茶菓子を入れて戻ってきた。
ミュラーとフィリーネもとりあえず友好的な雰囲気を少しでもアピールするために、特に欲しくもないコーヒーに口をつけお茶請けに出されたクッキーをひとつ摘んでみたが、あまり味などわからない。ただ、こういうことをまったくしそうにないビッテンフェルトという男が、意外にも手馴れた感じでこなす一連の動作は新鮮な発見だった。
「なかなかイケるだろう?俺はよく知らんのだがな。あれは仕事なんぞで何かあるとやけ食いする癖があってな。それが何でもいいわけじゃなくてな。なかなか拘りの店とかがあるんだ。だから、ま、味は確かだ。あの食われ方では菓子に気の毒という思いがせんでもないのだがな。」
そう言うとビッテンフェルトはミュラーとフィリーネの向かい側のソファに腰をかけると長い足を組んだ。
「そうなんですか・・・。」
挨拶程度に答えたフィリーネを傍らにミュラーは自分の選択が正しかったのか、確信を持ちえずにいた。
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「来客なのに引っ込んでしまって・・・その、大変失礼しました。ごめんなさいね。」
そう言って現れたビアンカの姿にフィリーネは呼吸をひとつ吐き出した。
「いえ。こちらこそ。ビッテンフェルト元帥に随分とご無理を言ってしまいました。どうかお気を悪くしないでください。」
硬い表情のまま軽く礼を返すフィリーネの横でミュラーが苦笑しつつそう答える。
確かに突然の訪問を頼んだのはミュラー自身なのだから、当然といえば当然の挨拶なのだが「この女」を相手に彼までも下手に出ているようにすら感じられてフィリーネの孤立感はいや増す。そして、彼女自身がそれが被害妄想の部類に属することを自覚していることが自己嫌悪の感情とあいまってしまう。
(ひょっとすると、彼女のどこか険のある行動は最後の会話が原因なのだろうか?だとしたら私の力量に関しては難癖以外の何者でもないのか?)
ただ、それ以前の冷静な話しぶりは会議の場よりもより深くフィリーネの矜持を傷つけたのも確かだった。
昼間は隙なくスーツで装っていたビアンカは、ローライズのジーンズに黒いチェックのシャツを羽織り髪は下ろした自宅らしく、くつろいだ衣服に変わっていた。少なくとも男性二人、ミュラーとビッテンフェルトにはそう感じられたし、到着直前の会話がなければフィリーネもそう感じただけだっただろう。
だが、その格好は『今の』フィリーネには胸元が開きすぎているし、着丈にしても不自然な短さでバランスの取れた肢体をわざとさらしているようにしか感じられない。その着丈の短さの不自然さが豊満な胸が生地を引っ張り上げているのが原因だと気がついてフィリーネの不機嫌さはさらに増す。隣に座るミュラーをそっと見る。豊麗な肢体に彼が息を呑んで魅入った、ような気がした。
傍らに腰掛けているミュラーがそこはかとなく沸き起こる負のオーラに体を硬くする気配が伝わるが、フィリーネにもどうしようもなかった。
少しでもラフに場の空気を和らげる一端になればと選んだカジュアルな服装が、まさかフィリーネの胸の小さなわだかまりをさらに大きくしているということには、ビアンカはまったく気がつかない。それどころかこちらも昼間の軍服とは趣の異なる彼女の私服に目を奪われていた。
ミュラーとこの後食事をすることになっていたフィリーネの服装は、人目をひかないように控えめで清楚なデザインで淡いブルーがかったグレイのワンピースで、彼女の金髪と色白の肌によく映え、青い瞳の色とのコントラストもいい。ふんわりと緩やかなラインはほっそりとしたフィリーネが身に纏えばまさに『良家の子女』という雰囲気になる。フェザーンのモード誌などでもよく見かける人気のものだった。
が、自分がそれをまとえばビッテンフェルトなどに言わせると「妊婦か?」という状態になるだろう、悪意あってのことではないと理性で理解しているもののビッテンフェルトの過去の発言をまた思い出し、傍らの男を盗み見た。その表情は多少不機嫌さを覗かせてはいたものの臨界点まではまだ余裕がありそうだった。
視線を走らせてミュラーの様子を見れば、彼女の発言に事の詳細まで脳内で再現することができたらしく、紳士的で温和という評判のその表情は苦悶しているようにもあろうことか笑っているようにも見える。傍らの女の表情は伺えない。きつく握り締めた拳がわずかに震えているのは、さて、ビアンカの言葉の前半部分に怒りを溜め込んでいるのか、後半部分をあざ笑うのを堪えているためか?
(もう知らん。あとはどうとでもなるでしょ。先手必勝よっ。)
とりあえずこの場に新しい展開を引き出すにはビアンカ自身の行動が先立つ必要があるだろう。咳払いをひとつすると一気に言い切った。
「とにかく。今日は私はあの会議の場において色々と大人気なかったのは確か。ミス・リーゼンフェルト。失礼をお詫びします。」
一度深く下げた頭をあげて、向かいに座ったリーゼンフェルト少佐の出方をじっと見つめる。傍らではビッテンフェルトがまさか、真っ向きって謝罪するとは思っていなかったのが表情から読み取れるが、事態がどう転がっていくのか楽しみにしている風にも見える。フィリーネの隣のミュラーが顔の全面に不安を貼り付けているように見えるのとは好対照だ。
「おい。ビアンカ。なんとなく謝っているような態度には見えんのだがな。」
思ったままを口にしたビッテンフェルトに、ミュラーが余計なことを言うな、と目で語ったがフィリーネの言葉がそれを遮った。
「それは私の通訳としての技量に疑問符をつけたことも含まれますか?」
フィリーネは同盟公用語でそう尋ね、ミュラーとビッテンフェルトはお互いに顔を見合わせた。
「いいえ。そちらについては訂正する必要を認めませんので。あくまで私的な行動に対しての謝罪です。」
間髪をいれずに切り替えしたビアンカの返答もアクセントも完璧な同盟公用語で、譲る気などひとかけらもないことは明らかだ。フィリーネの方は初めて聞く相手の同盟公用語が予想以上に完璧なことに少々意外だった様子が見て取れる。
(けして片手間なんかでやってきたわけではない。通訳は本職ではないけどでも。)
ふたたび胸の奥に湧き上がってきた怒りを表情に出さないように必死に堪えつつフィリーネも抗弁を試みた。
「私は私のできうるすべてをかけて職責を果たしています。片手間などと・・・撤回してください。」
「では、それについては撤回しましょう。しかし今片手間ではない、とおっしゃった。自分は万全だと。ではなおさら当方としては少佐の更迭を要求せざるをえない、と判断します。私は、いつも自分は完璧ではない、と思っています。伝えたいことはきちんと伝わっただろうか、と。人間の通じ合おうと言う努力に『これで限界』などということはありえない。常に自身の技量の充実を問いつつ己にできる万全を期す。この気構えがあなたにおありですか?」
フィリーネは奥歯を硬くかみ締め反論を試みようとした。だが、今日の会議や先ほどの硬く決め付けた口調は急に消えうせ、ビアンカは冷静に、むしろ諭すような口調に変わっていることに気がついた。
「私たちは今、150年ぶりに戦いのない平和を築こうとしている。そのためにできうる限り意を通じ合わせなければならない。刃ではなく、言葉を尽くして・・・ね。あなたの仕事はその一番の根本を支えることになる。土台が強固でなければそのうえにどのような建材を使おうとも住みやすく安全な家を建てることは適いません。」
そう言うとビアンカはもう一度まっすぐにフィリーネの青い目を正面から見据えた。返答がないのを見るとまた言葉を続ける。
「確かに『戦争』は終わりました。だが、それは武器を持っての戦いに過ぎぬこと。生きるための人の戦いはまだ終わったとは思っておりません。少佐、辺境に行かれたことは?」
フィリーネが首を横に振る。両親の勤務地に伴われたことはあったが、末っ子で女の子でもあった彼女は学校に行くような年齢になると祖父母と暮らすようになり、生活の場はハイネセン・ポリスが中心となった。
「私は独立商人の叔母夫妻に育てられましてね。子供の頃にここに、GPSを埋め込まれてました。誘拐対策ですよ。辺境では公式にはされてませんが子供が『迷子』になることが多くてね。『迷子』はけして見つからないのですよ。」
項を指差しつつ意味深に語られた言葉から人身売買の存在をその場の全員が嗅ぎ取る。
「長く戦いを続けていると辺境の警備よりも当然国境の警備が優先される。辺境の多くは貧しい、人々は飢えている。売れるものなら何でも売るのです。やっと、今そこに日の目をあてようとしている。やっと、ここまで・・・来た。辺境での生きるための戦いはまだ終わってないんです。それを今からやっと是正すべき余裕ができた。だからそれを遅らせるような要素は少しでも少なくしておきたい。もうお聞きになってるので言いますが、半分は失礼ながら我々の偏見でその点はこちらも改めねばならない、と承知してますが。・・・と、まぁここまでは堅苦しい仕事の話です。では、反論があればお聞きします。どんなことでも・・・ね。」
言いたいことは言ったぞ、さぁかかってこい、と言わんばかりに胸をそらしたビアンカに思わずミュラーが口を挟む。
「フラウ。言いたいことはよくわかった。しかし、この場であの会議を蒸し返さなくてもいいんじゃないかい?」
「ミュラー閣下。お言葉を返すようですが私は改めて彼女、ミス・リーゼンフェルトに自分の言いたいことを言いたいだけいいました。それもかなり言いたい放題にね。それなのに私が彼女の主張するところを聞かないのでは不公平に過ぎるのではありませんか?」
柔らかい微笑で、だが断固とした口調で問いかけられればミュラーは黙るしかない。確かに現況ではフィリーネは一方的に攻撃されるばかりだった。彼女へ反論する機会を与える、というのは間違った選択ではないように感じられた。とりなしを求めようとビッテンフェルトへ視線を送ってみるがこの男は黙って腕組みをしているばかりでミュラーに合図を返すこともしない。
かくして3人の視線がフィリーネ一人に注がれることになった。
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