第3話 思惑の在処 (蒼山史樹)
「今日は少し予定を変更していいかな?」
待ち合わせ場所に時間通り現れたミュラーは挨拶もそこそこにそう言った。
「変更って何処へ?」
本来なら二人で夕食を取るはずだった。
だが、昼間の件もあって何となく対面で食事をするのが憂鬱だったフィリーネは聞き返しながら内心でほっと安堵の息をついた。それが束の間の安息であるとも知らずに。
「君も知ってるだろ?ビッテンフェルト元帥。彼の自宅にお邪魔しようかと思ってるんだ」
「何故?」
「それは…」
今を遡ること数時間前。
「珍しいではないか。卿が俺に頼みごとなど」
おそらく生涯かかっても慣れはしないだろう事務処理作業に追われていたビッテンフェルトが、頼みがあると自分の執務室を訪れたミュラーに開口一番放った言葉である。
「そうでしょうね…」
この時のミュラーは甚だ気が重かった。それが失言の類であるなど気づけぬほどに。
しかしこれは実際のところ真実でもある。何故なら彼がローエングラム麾下に名を連ねて以来この猛将に迷惑を掛けられることはあってもその逆の記憶は存在しない。しかしながら生来の彼ならありえない無神経な一言でもあり、それほどまでにミュラーが気鬱であった証拠でもある。
好きでもないデスクワークに忙殺拘束され疲労と苛々が増したビッテンフェルトの眉がひくりと微かに動いたが、ミュラーの意識がそれを認識することは終になく、胸に刺された小さな棘が抜けないままにビッテンフェルトはミュラーの話を聞く羽目になった。
猪に傷を負わせた男の話はこうだった。
会議で激しい口論を繰り広げたビアンカとフィリーネはおそらく今日の一件の顛末に対して納得してはいないだろう。更にはこのままでは二人は仲違いしたままになるのではないか。それでは今後の仕事に支障が出ることもあるのではないか。だったら二人の仲を何とかしてやりたい。だから今晩にでもフィリーネと二人でビアンカの住まいでもあるビッテンフェルト家へ訪問させてはもらえないだろうか。
つい先ほどの失礼な言葉に突然の申し出。これでも一応大人の括りに分類されるビッテンフェルトは増し続ける苛々を押さえ込みながら、年下の同僚の一連の話に耳を傾けてやった。
「お願いできませんか?」
そう締めくくったミュラーの眼前で、腕を組んで何事かを考える仕草をしたビッテンフェルトは苦虫を噛み潰したような顔で口を開いた。
「あのな、そもそも…」
「ご迷惑は承知の上です」
「そういうことではなくてだな。いや、ビアンカにしてみればそうなのか?」
最後は独りごちるように首を傾げると、続いて頭をぶんぶんと振った。
「そもそも、それはわざわざ我々が手を焼いてやることなのかということだ」
「と、いいますと?」
「あれは仕事上お互いがぶつかってしまった結果であろう。少々行き過ぎた感はあるがな。それにビアンカも俺も仕事の話は家に持ち込まないことにしている」
ふんと鼻を鳴らしながら言い切った。
「しかしですね…」
近い将来のことを考えれば女性二人には仲良くしてもらわなければ困るというのがミュラーの本音であった。色々と課題の多いフィリーネと自分だが、せめて自分の同僚とその家族には友好関係を結んでおいてもらいたいのだ。だがさすがにそれをビッテンフェルトに言うのは憚られた。大体にして彼には自分とフィリーネの関係を話してはいない。
すんでのところで言葉を切る。しかし…。
「卿は甘いのではないか?」
「は?」
「件の少佐とは男女の仲にあるのだろう?この期に及んで隠してくれるなよ」
そんなミュラーの様子を見ていたビッテンフェルトの薄茶色の瞳が細められると、鉄壁はこの猛将の下に陥落せざる得なかった。
「嫌!どうして?どうしてわざわざ訪ねていく必要があるの?あれは仕事上のことだわ」
「それはそうだが…」
誰も彼もが仕事を理由に拒否するのか。
そんな思いが脳裏に浮かびながらもミュラーは、全身を使ってそっぽを向いてしまったフィリーネの肩に手を掛けこちらを向かせようとするがあっさりとかわされてしまう。
確かにあれは仕事上のことではある。本来なら私生活の部分に持ち込む問題ではないのかもしれない。しかし、時にはそうでもしないと永久に解決をみないという事態もあるのではないか。
「あれは侮辱されたも同然だわ…」
背中越しにフィリーネが呟いた。
両肩が小刻みに震えている。
「侮辱?」
ミュラーは息を飲み込み、伸ばしかけた手を空中でぴたと静止させた。
彼女はビアンカの一連の発言を侮辱と捉えたのか。だからあのような言動に出たというのか。しかしあの時の様子を振り返ってみれば、ビアンカの言動はともかくその声音には何か正体不明の険があるようにも思われた。フィリーネが言う侮辱とはおそらくそれを指しているのだろう。
「そうよ。だって信じられないことよ。私は至らないかもしれない。勉強不足かもしれない。未熟だわ。だけど、あんな言い方って…」
言いながらこちらを振り返ったフィリーネはウサギのように真っ赤な瞳をしていた。
思いがけなく飛び込んできたその双眸にミュラーは当惑を隠せなかった。
「甘い…とは?」
ビッテンフェルトにフィリーネとの仲を明かさざる得なかったものの、その言葉の真意をミュラーは理解できなかった。いや、無意識に理解するのを避けたのかもしれない。
「さっきも思ったのだがな…」
やれやれと云った風に両手で降参の体を取ったビッテンフェルトが大きく息を吐きながら、ミュラーに顔を近づける。
「卿は彼女に甘すぎるんだよ。その証拠に卿はあの時あの場で周囲を省みず帝国軍元帥…それも相手は軍務尚書だぞ…まあお前のことだが…それに食ってかかる彼女の行為に対しては何も追及しなかった。それどころか一瞬とはいえ迷いが生じたであろう」
「それは…」
全く以ってその通りである。
自分のしたこと、つまり会議の場で口論し合う二人を止めに入ったことは決して間違ったことではない。それはあの場にいた全員の救いにもなったはずである。だったらその言を受け入れることが当事者の当然ではないか。なのにフィリーネはそれを成さなかった。しかし今回はまだ運が良かったともいえる。あれが皇帝陛下であった日には不敬罪にも問われかねない事態であるのだから。
「まあ、彼女も相手が卿だったから気が緩んだのだろうがね。とにかくだ。先方の落ち度を尻拭いするために卿がわざわざ俺のところに出向くというのだから…甘いとしか言いようがないではないか」
眼前のビッテンフェルトの苦笑が手に取るようだった。
どうも今日は自分に分がないように思われた。悉く向こうに先手を取られ続けている挙句いちいち彼の言うことはもっともな気がして仕方ない。いや、事実そうなのであろう。
ミュラーはあっさり頷くしかなかった。
「確かにそうかもしれませんね」
「お!認めるのか?」
我が意を得たりと瞳を輝かせたビッテンフェルトに対してミュラーは力無い笑みを返してみせた。
「あの場で一瞬とはいえ躊躇したのも仰る通りですし、こうして元帥の元を訪ねたのも尻拭いでしかないかもしれませんが、全て私がそうしてしまうんですから仕方ないんですよ」
「今後のためにも…か?」
「そういうことです」
自嘲の言葉が溜息と共に零れ出た。
「しかしだな、それも正直どうかと思うぞ。いくら私生活で関係があるとはいえ、公の場で甘い顔ばかりしてても決してお互いのためにはならないだろうよ」
「仰ることは分かりますよ」
「近い将来その必要もなくなるなんて言うなよ。お互い腰掛で今の職責に就いてるわけでもあるまい。まして元々は敵同士でもあったのだからな。この先どうなるのかも…」
「知ってます。それはこれからお互い厳しく律しなければならない部分でしょう」
ビッテンフェルトの言葉を遮って、ミュラーは柔和に、だがはっきりとした口調で応えた。
「それでも今回は許していただきたいのです。ですから、どうかお宅にお邪魔させて頂けませんか?幸いにも今夜は彼女とも約束があります。それとも本日奥方は不在ですか?」
「留守という予定は聞いてないが…」
嫌がるのではないかと声には出さずビッテンフェルトは呟いた。
「では是非とも」
「どうも尻拭いの片棒を担ぐというのは性に合わないのだがな…」
ぶつぶつと口の中で不平を唱え頭をゴリゴリ掻きながらも渋々頷く僚友の姿が、この時ばかりは救いの神に見えた。
「だけど、ひどい言い方をしたのはむしろ君のほうじゃないのかい?」
ミュラーは多少迷いを感じながらもあえて宥め諭すような優しい口調で語りかけた。何故なら、ビッテンフェルト家への訪問をごねるフィリーネに対してまごまごしてもいられないのが実情だからだ。時間の経過というシビアな現実が憂慮される。いくら訪問を許可された身とはいえ、常識を考慮すれば訪いを許される時間帯というものには限りがある。
「でも…!」
フィリーネが両の拳を胸の位置で固く握り反論を試みる。しかし、砂色の瞳に射られたと同時に脳裏を昼間の出来事が走馬灯のように駆け抜けると、自身の手の抱擁を解くしかなかった。
こうして、当初は自分の発言が更に彼女の機嫌を損ねることになるのではないかと危惧したミュラーだったが、はからずもその目論見は成功を収めることになった。
「わかるだろ?昼間あんなことになってしまったけど、本当は君だって誰とも仲違いはしたくないはずだ」
すかさずその肩に手を添え、空いた片方の手で金の髪を撫でてやると、思いのほかあっさりコクンと一つ頷いたフィリーネがそのまま頭を垂れた。その表情は見えない。だがミュラーの手に収まった肩が小刻みに震えている。
「でも…嫌なの。正直、あの時は我を忘れたわ。だからあの人に対してひどいことも言ってしまったし、貴方にも食って掛かった。それは謝るべきことだわ。いつも仕事は仕事って言ってる側からあんな行動を取ってしまったんだもの。私だって自分の立場はわきまえてるつもりよ」
「……」
「だけどダメなの」
「ダメって何が?」
「あの人よ。ビアンカって皇太后主席秘書官。初めて会った時からそうなの…」
ビアンカは帝国人とはいえフェザーン育ちで性格もサッパリしている筋の通った人間である。文官武官問わずその人となりは概ね好評価を得ているというのがミュラーの認識であり、彼自身も彼女を高く評価していた。だから、彼女を嫌だというフィリーネには首を傾げざる得ない。しかし反面で、人は千差万別であるから世の中にはビアンカを厭う人間も確かに存在する。であるならばフィリーネがビアンカを不得手としても何ら不思議はないはずである。
「ごめんなさい…でも本当のことなの。あなた方が彼女を認めているのは分かっているの。だけど…私は…」
「苦手だと?それとも嫌い?」
「わからない。理由さえも…ね。けど、こんな感情初めてよ。どう表現していいかもわからない」
フィリーネの心情を知ったミュラーは僅かの時間どうしたものかと逡巡した。だが、やがて一つの提案を彼女の前に導き出すことに成功する。
「だったら一度個人的に会ってみるのも手かもしれない…」
「え?」
弾かれたようにこちらを見上げた青い瞳には不安の色が揺れている。
「嫌かい?」
すると瞬く間にその双眸が強い光の輝きを取り戻していく。
「嫌…嫌だわ」
フィリーネは我に返ったようにかぶりを振り拒絶の意を改めて表した。
「どうしても?」
「どうしてもよ。貴方こそ、どうしてそんなに私と彼女を会わせようとするの?それもどうして今日なの?今日は一緒に夕食を取る約束だったじゃない」
いつになくしつこい粘り強さを見せるミュラーに対してフィリーネは苛立ちを隠せない。
「それは…!」
「何?だいたい今日のことはあの場で終わったはずなのよ。私だって…いいえ、向こうだって蒸し返されたくなんかないはずよ」
その考えは的を得ているように思われた。
あんな後味の悪い出来事はさっさと反省なり後悔なりして闇に葬ってしまえばいいことなのだ。そんなことは今さら言われなくとも経験で知っている。だがそれでも彼は食い下がった。
「だけど俺は、俺が理解する人間を君にも理解してほしい」
本心だった。
そしてその瞬間ミュラーは直感で事の好転を確信する。フィリーネの瞳が大きく見開かれ、その感情が動くのが手に取るように分かったのだ。例えは悪いがこうなってしまえばしめたものだった。自ずと饒舌になる自らに内心で苦笑しながらも彼は事の展開に満足していた。
「人間なのだから好き嫌いもあるだろう。しかし、君の得体の知れない嫌悪と…それから…いや、とにかくその訳のわからない感情を見極めるためにもビッテンフェルト元帥のお宅を訪問してみないか?」
「ナイトハルト…」
こちらを見上げた瞳に軽い口づけを落とし内心で胸を撫で下ろしつつも終にミュラーの真に意図する心は明かされることはなかった。
「今度は帝国元帥としてでもなければ軍務尚書としてでもない俺が側にいることを忘れないでほしい」
「だから大丈夫と?」
砂色の瞳が今日一番の笑みを浮かべる様が青い瞳に飛び込むと、その大きな手がフィリーネの手を包み彼女もまたそれに応えた。
漸く二人は肩を並べて目的の場所へと歩を進めるのだった。
「そういえば、ナイトハルト」
「ん?」
「貴方、前に言ったこと覚えてる?」
夜の闇に青い二つの宝石が輝いている。
「何を?」
「ああいうセクシーなのもいいよねって…」
「は?」
何の事を云われているのか皆目見当が付かなかった。
「だから…胸が大きくて、ウェストが締まってて…要するにグラマラスな女の人!」
「それを俺が良いって?」
全く記憶にない話だった。が、彼女がそう言うならひょっとしてそんなことを言ったのかもしれない。だが、何故このタイミングでその話題を振るのか。
「あれって、もしかしてビアンカって人のことなの?」
「え!?」
脳裏にビアンカの姿が過る。さすがに服は着ていたが、布の上からでも容易に想像することが可能であるくらい彼女の曲線美は優秀であった。
知らず、顔の温度が上昇し声が上擦った。
「そ、そんなことない!」
「嘘…」
「違う」
「嘘よ」
「だから違うって…」
「絶対そうよ」
ビッテンフェルト家への道のりはまだまだ遠い。
<END>