第2話 キッチン (ゆうやん)
キッチンのテーブルには予想通りに大量のジャンクフードから有名菓子店のバッグが所狭しと積んであった。
ことさらに嫌いではないが、帝国育ちのビッテンフェルトにはなじみが薄いそれらを彼は横目に上品なケーキを両手に持って噛り付いているビアンカを見た。
「いふぁないれ。おろなげのぉごじゃいまひら。わあてるのよ。はんふぇーひれます。」
床の上にはビアンカが消費したらしい菓子袋の類を始末し続けているのか、自動清掃マシンが振動を続けている。
「反省してるのなら、口に食べ物突っ込んだまましゃべんじゃない。・・・・なんだ?この色。絵の具か?」
摘み上げた指先の袋にはいかにも人工着色料なマシュマロの紫色が入っている。
バクラヴァ、なる菓子を食べていたビアンカは指まであふれ出た蜜でベタついている手の甲を舌で舐めた。
他の菓子ならそこに唇を這わせて悪戯に及ぶこともあるのだが、これだけは彼には殺人兵器並みの甘さであるし、状況が状況なのでそれはしない。
「今日はいったいどうした?あれくらいで頭に血を上らせるとは・・・らしくない。というか前から何かあるのか?」
とりあえず自分の手前の袋の洪水を手でかきわけておいてからビアンカの向かいにビッテンフェルトは腰を下ろした。
「こちらの意図する言葉と違う言葉を使われたのは本当だもの。」
「古い言葉だとそういう言い回しになることもあるんだよ。お前だってわかってるだろ?」
「わかってるよな、っていうあいまいさが危険だってことはフリッツだってわかるでしょう?そういうことじゃなくて。」
そこまで言うと立ち上がって水で手と顔を軽く洗って戻ってくる。が、今度は別の店の紙袋からシュークリームを取り出した。
「初めてじゃないわよ。彼女は意外そうな顔してたけど言葉についてはちょっと触れたことがある。ま、今日の様子じゃ忘れてたわね。」
そう言うともう一度腹立たしげに舌打ちした。
「しかし、彼女は通訳としては文句なく正確な帝国公用語を話す、それは間違いなかろう?」
「そう、帝国公用語としては文法も何も間違いないわね。フェザーン訛りの私や現地採用組よりも正確でしょうよ。」
蜂蜜色の瞳に思い出してきたのか鈍い怒りの色を滾らせながら、それでも口調は冷静にビアンカは言うと手にしていたシュークリームを口に放り込み、考えをまとめる時間咀嚼すると飲み込み、指先についたクリームをペロリと舐めとり袋の山を傍らに押しやる。
「帝国と彼らは長い間戦ってきたわね。お互いの政治形態を認められないというただそれだけの理由で。最後の頃にはそんなことわかっていたのかしら?ただ、親を殺し友を殺したあの相手がにくいってだけになっていたのではない?それをやっと終わらせたばかりなのよね。私たちはとりあえずはこの平和をできるだけ長く続くように頭をひねらなければならない。そのためには慎重にも慎重を期さねばならない。今日の言葉の話だけど、彼女が意見を言うべき立場なら私は何も言わない。だけど今、彼女の立場はそうじゃない。極言させてもらえば通訳は『道具』に徹するべきだ、と私は思う。彼女には今そのことがわかってる?今日それを改めて感じたわ。」
通訳とて人間であるから多少の齟齬は仕方がない。だが、今日の会議の最後ミュラーの指摘に抗う姿勢を見せたフィリーネの姿にも、もとよりの反感を除いた冷徹な部分でビアンカはフィリーネの職務への適性に疑問を抱いた。ミュラーと彼女の仲を噂する向きも宮廷女官を中心に少しづつ知られるようになっているこの時期にあの態度では『やはり』と思う者も自分以外にも少なからず存在するだろう。こうやっている自分だってビッテンフェルトとの関係であれこれとつまらない指摘をされることも多々あるのだ。彼女とミュラーの場合ならばそれはより攻撃的になり慎重を期さざるを得ないだろうに、彼女はそれをしなかった。少なくともあの場においてその配慮を忘れた。フィリーネをそんな状況に追いやったもともとの原因は自分にあるのはいささか後ろめたく思いつつもビアンカの公人としての部分はそう結論づけた。
「あなたたち軍部とあちらの中枢との間には・・・なんというかしらね、心につながりがあるのよ。あなたたちに自覚はないんでしょうけど、そうね。戦いあってきたもの同士の連帯感、とでもいうのかしら?『無能な味方より、有能な敵の方が親しく感じる』とか言うらしいじゃない。そういう考えにのった甘えがあるように、私たち文官サイドには、ううん。とにかく私には感じられるのよ。」
あの時、フィリーネに強い言葉を発したミュラーの方にも瞬時の迷いがあった、と思う。ビッテンフェルトが口を挟まねばそれは周囲の人間にもきっと感じ取られたに違いない。小さな漣が大きな波を生み出すようにきっとそれはよくない波紋を生むだろう。
「今の状況なら彼女はいらない。私が間に入って通訳したほうがなんぼも早い。ただそれをしちゃえばこちらがそれこそ力でごり押ししてることになるでしょ。そこのバランスがあの人はわかっているのかしら?言葉は確かに正確だけど軍人の片手間通訳なら彼女はいらない。民間人でもプロの方がいい。この意見おかしい?内政干渉に取られかねないしヒルダ・・・いえ皇太后陛下にお願いすべきか迷ってたけど、今日決心がついた。少なくとも文民レベルの会議の場に彼女を通訳として呼ぶことは今後自治領側に遠慮してもらうことにするわ。これ、私だけの意見じゃないのよ。前から・・・その現場レベルで出ていたことではあるの。」
フィリーネの話す帝国公用語は確かに正確無比で美しい。だが、正確無比な帝国公用語の使い手はいくら疲弊した自治領といえども多く存在するはずだ。
加えて彼女自身もよくは知らないその出自を明らかにするかのように門閥貴族、それも生粋の上流貴族の使うそれであり民間レベルでは帝国人ですら時折首をかしげるような言い回しも存在する。フィリーネ自身の努力によりその違和感はいくらかでも少なくなるように勤められてはいたものの主に平民、もしくは貴族社会とは縁のない帝国騎士階級が中心の現在の現場においては受け止め方が異なっていたことも事実の一端ではあった。始めは過去の幻影にしばられているようだ、と笑っていた現場だが、度重なってくると彼女の姿に門閥貴族の幻をみてその意のままにならざるを得なかった記憶がよみがえるものがいるのも事実で、加えて彼女は純粋な門閥貴族ではなく『祖国を捨てた者の末裔』であるというおまけまでがついている。感情レベルの話なので誉められたことではないが軋轢となるものは少しでも避けるのも知恵だろう。彼女には別に活動の場があるはずだった。
ビアンカに思いのほかに静かな声で言われてビッテンフェルトは反論を返そうとした言葉に詰まった。確かに現自治領政府の首脳部は、その多くをイゼルローン軍の首脳陣が勤めていることもあり、常に声高に民生の充実ばかりを訴え軍の縮小を図るばかりの現帝国政府の首脳のほうが余程疎ましい、と感じることがないでもなかったからだ。
「確かに戦ってきたのは、実際に血を流し傷ついてきたのはあなたたち軍人で、私たち文官はそのことを忘れてはいけない。でもね、私にはもうひとつ大事な、忘れてはいけないことがあるのよ。そのためにも今の平和を損なうような要素はできるだけ取り除いておきたいの。平和がなければ私はそれをなしえない。」
ビアンカはそう言うと右手に視線を落とした。その視線の先にあるのは先年のテロに巻き込まれて失った指の代わりに義指がある。
新しい未来、新しい秩序、誰も見たことがないような世界を作る。誰よりもそうしたかった人間を眼前で失ったその記憶。
遠くを見つめる表情になった時、ビアンカの左右の瞳は微妙にその色合いを異ならせる。ビッテンフェルトがそう感じた次の瞬間、ビアンカは自失から立ち戻る。
「ま、それはそれなんだけど。実際今日の私は確かに大人気なかったわよ。だけどあのお嬢ちゃんも虫も殺せんような顔して結構強情よね。・・・って言うか私もあそこまで言う気なかったのよ。何が『お疲れですか?』よ。あれはそのうちミュラー閣下を尻にしくわよ。・・・これでこの話は終わり。家で仕事の話するのやめるって言ったのに、長々話しちゃった。お茶入れよ。フリッツ、何か摘みたいのあったら摘んでいいわよ。私、もうお腹いっぱいだから。」
「お説はごもっともだ。・・・でもそれだけか?」
「は?」
「なんかなぁ、お前、腹にまだ一物蓄えているような気がするんだがな。ま、仕事人としてのお前の見立てに反論する気はないけどな。しかし、彼女が現場に出てこないと残念に感じる野郎もきっと多いな。俺は軍部でよかったかもしれん。軍部の会議は出入り禁止にまではならんだろうからな。」
「ほら、そうやってかばう。ったく美人には・・・」
そこまで言ってしまった、という表情でビアンカは口をつぐみ、ビッテンフェルトの様子を横目で伺うと、彼は呆気にとられた表情から次第に頬をヒクヒクと痙攣させた。
「なんだ?お前?やっぱりさっきの勢いとはまた違う理由がありそうだな。」
そろそろ長い付き合いになりつつあるが、ビアンカがそういう嫉妬めいた振る舞いを見せるのは初めてだ。内心で面白いことになり始めたか?と思いつつビッテンフェルトは膨らんだ頬のままのビアンカを真正面から見た。
「・・・金髪美人・・・」
「あ?」
「帝国の正統的な金髪に蒼い目。人形みたいってなあんなこと言うんだろうな。って言った。」
「あ?」
そんなことを軽く口にしたかもしれない。だが、記憶に定かではない。ビッテンフェルトは沈黙した。
「力を入れすぎると折れてしまいそうに細いんだな、お前と違って、って。どうせ私は上に載ったら重くてフリッツの腰が痛くなるわよ。スレンダーでなくて30代が心配で悪かったわね。」
「ちょっと待て、ちょっと待て。俺、そんなこと言ったか?」
「あんなのばっか食ってるから運動が必要?載った瞬間にずっしりとして息が詰まる、肉がこすれて痛いですって!」
先ほどまでの冷静さを脱ぎ捨てたように声のトーンがあがり、たれ気味の丸い目が釣りあがってすら見える。ビッテンフェルトは少々のけぞり気味になりながら、慌ててそんなビアンカを遮った。
「ちょっと待て!ストップだ。それ以上言うと」
「それ以上言うとなんなのよ?叩くの?怒るの?」
酒飲みなら確実に絡み酒だ、と思いつつ素面でこれではなお恐ろしい。そんなことを考えながらこの後の衝撃を思うといささか気の毒な気さえしつつビッテンフェルトは咳払いをひとつするとこう言った。
「いや、さっきから色々と丸聞こえなんだ・・・。お前が・・・困るだろ?」
もはや目を合わせることすらできずに肩を竦めるビッテンフェルトに、腰掛けたスツールから転がり落ちるように降りる。
「困る・・・ちょっと、ひょっとしてお客連れてきてたの?やだっ!信じられない。ねぇ、聞かれたの?今の全部?」
キッチンからは死角になっているリビングに飛び込んでみると、ソファには困惑しきった顔のミュラーと俯いたままで表情は定かではないが膝の上の拳を震わせているフィリーネが座っていた。
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