第1話   議場にて     (蒼山史樹)





会議は粛々と進んでいた。
その事件が起こるまでは。
本人たちにとって『事件』と表現されるのは甚だ心外であったろうが、その場にいた者たちにとってはそれ以外の何物でもない出来事だった。

「少しいいですか?」
口火を切ったのは太后主席秘書官ビアンカだった。
右手で挙手をして、ゆっくりとした動作で椅子から腰を上げ起立する。
「リーゼンフェルト少佐…でしたっけ?通訳というお役目が大変なことは分かります。しかし少佐も此処に通訳という名目で出席されてるなら所謂プロなのですよね?」
抑えてはいるが言葉尻には険がある。
「それはどういう意味でしょうか?」
名指しされたフィリーネの片眉がピクリと動いた。
「失礼ですが、今しがたの少佐の訳では私どもの意志が正確に伝わらないのではないかと思いましたので…」
もったいぶるように言葉を切る。
「といいすますと?」
議場の和やかといえないまでも平和な空気を壊してはいけないとあえて穏やかに答えてやったが、その心の内は決して平穏ではなかった。
「勝手に意味を加えて欲しくないのです」
「勝手に…とは穏やかでないですね」
「今しがたの少佐の訳はそう取れましたが、違いますか?」
ビアンカが鼻で笑った…ように思われた。
その瞬間フィリーネの心のひだがちりりと音を立て、敏感に先方の裏側の敵意を見抜いた。
この顔は知っている。確か太后主席秘書官だ。皇太后の隣に控える姿を何度か目撃している。均整のとれた身体に美しい容姿。そして躍動的な蜂蜜色の瞳が印象的だった。皇太后が呼んだ彼女の名前も記憶にはあった。だ
が実際言葉を交わすのは初めてのはずだ。だから何故敵視されるのかが理解出来ない。それとも自分は彼女に何か悪いことでもしたのだろうか。
いや、そもそもがこの秘書官は最初からあまり良いイメージがなかった。何処かつっけんどんな近寄りがたさを初対面の時から漂わせていたからである。彼女の領域に踏み入ることは許されないのではないか。あの時の己の第六感は確かにそう告げていた。
そんな近い過去の記憶を掘り起こしながらもここは仕事の場である。
「もしそう取られたのであれば失礼しました」
他に言いたいことはあったが素直に頭を下げた。
「もし、とは…」
だがビアンカはすんなり手を緩めてはくれないようだった。
「それこそ穏やかではないのでは?」
「それはどういうことでしょう?」
頭を垂れたまま上目遣いにビアンカを見遣ると蜂蜜色の瞳が挑戦的にこちらを見ていた。
「少佐の訳仕方いかんではせっかく築いた平和にヒビが入るかもしれないということです」
それは確かにそうだ。しかしフィリーネには正確に仕事をこなしているという自負がある。そもそも帝国と同盟の間で言葉の壁などほとんどないに等しいのだ。では何故通訳という役目があるかといえば、その薄い壁をより正確に確実に乗り越えるためにである。
「それは重々承知してます。ところで失礼ですが貴官のお名前は?」
フィリーネは氷のように青い瞳を細めて、わざと名を尋ねた。
そうでもしなければこの胸のムカつきが今にも身体の外にそのままこぼれてしまいそうだったからである。
円卓を挟んだ向こう側で起立するビアンカの蜂蜜色が一瞬丸く見開かれると続いて刃のように細められた。
「少佐とは面識があると記憶してますが…」
「そうでしたか。ああ、そういえば…」
大仰に右手の人差し指を額に添え苦悶の表情を浮かべながら記憶を呼び起こす作業を開始してやると、案の定反撃が返ってきた。
「わざとらしい演技はやめて頂けませんか?こちらが指摘したことがお気に召さないのであればハッキリそう言っていただきたい」
「いえ、小官の勉強にもなりますのでそれはありません。それより…」
対してフィリーネはあっさり肯定すると、心配げに眉をひそめた。
どうせそれも演技の内だろうと懐に秘めた刃を隠しつつビアンカは抑揚を押さえ言葉を発した。
「何でしょう?何が気に入らないのでしょう」
「そんなにカリカリされてはお仕事に差し障りがあるのでは?よもやお疲れですか?」
言い放った表情にはニッコリと満面の笑みが浮かんでいた。大輪の花が今まさに開花したような微笑である。
「あんたのせいでお疲れなのよ!」
ビアンカも一応はエリートの端くれであり、いい大人でもある。喉元まで出かかりはしたがさすがにその言葉は飲み込んだ。
それにしてもこの同盟軍少佐。一見したときから気に入らなかったのである。何処がどうとは上手く言葉にならないのだが、とにかく直感的に受け付けなかった。そしてその不快感は彼女の口から最初に発せられた帝国公用語によって更なる高みへと押し上げられていったのである。ビアンカにとっては耳障りに近い帝国でも上流の貴族が使うと思われる品のある格式高い公用語をフィリーネは発した。古い言語も所々混在していたがそんなことは問題ではなかった。彼女の名を聞いてみれば亡命貴族の末裔であることは明らかだった。
「これか!?」
自分の勘は正しかったのだとビアンカは人知れず納得したが、かといってフィリーネに対する忌避感は容易に拭い去れるものでもなかった。
今回はそんな鬱々とした情を抱えての会議出席であった。
「疲れてなどおりません。少しご考慮して頂きたい旨を述べたいだけです」
「では続けてもよろしいですか?このままでは無駄に会議の時間を削ってしまいますから」
相も変わらない穏やかな口調であるが、フィリーネの目だけは決して笑ってはいなかった。
それを見た時ビアンカの中の導火線に再び火が灯される。
「待ってください。答えを頂いておりません」
「はい?」
「正確な訳を要求したはずです」
「それは最善を尽くします。と述べたと思いましたが?」
「聞いておりません!」
こっちが下手に出たというのにこの返答なのか。
我知らず、声が議場に高く響き渡った。
「では…!」
釣られたフィリーネもいつになく声を張り上げる格好となる。
だがそれは粛然とした声によって見事に遮られた。
「待たないか!」
女性二人の視線が一斉にそちらへ向けて注がれる。
ナイトハルト・ミュラーだ。
彼は今日の会議に直接関係していなかったが職務上臨席を余儀なくされていた一人だった。そしてその隣には両腕と両脚を組み、固く瞑目したビッテンフェルトが並んでいた。
「双方、この席を何だと思っているのか。皇帝陛下こそご臨席されてないが、少なくとも神聖な会議の場であることには変わりはない」
両国間でも穏やかだと名高く、せめてフィリーネに対しては温かいぬくもりに満ちているはずのミュラーの砂色の瞳も面持ちも今は厳然たる真剣さで彩られていた。
隣に我感ぜずを装って腰かけるビッテンフェルトの周りにも怒気を含んだオーラが立ち込めている。誰に分からなくともビアンカには理解出来た。
「よもや理解出来ないと言うのではあるまいな」
ミュラーの厳しい目が二人を交互に見比べる。
「失礼いたしました」
ビアンカは素直に頭を垂れると引き下がったが、対面のフィリーネが抗議の声を上げたのを聞いた時はさすがに動揺を隠せなかった。
「しかし…!」
この同盟軍少佐だという女は何を考えているのか。ミュラーの言ってることは尤もなことであり、意義を唱える余地などないではないか。ビアンカは頭を垂れたまま、フィリーネを盗み見た。
「理解できないとでも言われるか?」
ミュラーの静かだが力強い問いが再度投げかけられる。
「私は…!」
それでもフィリーネの言い分は続こうとしている。
彼女は自身でも理由が分からぬままいつになく熱くなっていた。
普段ならミュラーと自分の立場を鑑みて公私の分別をはっきり付けているし、彼女自身道理が判らない人間でもない。だが今はそんな理性は何処かに吹き飛んでいた。すっかり失念していた。むしろ我を忘れたという形容の方が合っているかもしれなかった。だから、ビアンカ同様、本来ならミュラー元帥の言を最もなことだと納得し引き下がるはずであるのに、そういった真っ当な行動に移る判断力にも欠けてしまっていた。そこには、ミュラーをよく知っていて、彼なら自分の言い分を許してくれるかもしれないという無意識の甘えもあるのかもしれなかった。
ビアンカがチラリと見上げたフィリーネの瞳の中には強い闘争の炎が見て取れた。
何より閣下に喧嘩越しで異議を唱えるなど有り得ないと思えた。それとも仰ぐ旗が違うのなら関係ないとでもいうのか。自分の我を通してみせるとでもいうのだろうか。
そんなことを考えながら、次に国家の重鎮であるミュラーを横目で見ると、こちらも普段の穏やかさなど微塵も感じられない様子だった。
「フィ…!」
ミュラーが一端そこで言葉を切ると一つ小さな咳払いをした。
此処は神聖な会議の場である。誰にとっても其々の職責を果たす場あり、私<わたくし>などという存在は許されない席だ。
ミュラーの激しい檄に似た声が議場に轟いた。
「リーゼンフェルト少佐!このようなことが理解できぬ貴官ではないだろう」
「それは…」
「少佐!」
「……」
厳しい語調に瞬間フィリーネが怯んだ。
するとその間隙を突くように開眼したビッテンフェルトが場を締める。
「もういいだろう。これでは時間の無駄である。我々も決してヒマではないのだ。それにミュラー元帥の言はこの場の総意だと思われるが…如何か?」
シンと静まり返った場内が賛成の満場一致を示しているのは誰の目にも明白であった。
それで全て終了した。
嵐のような一幕は終わりを迎えたのである。
「では会議の続行を…」
ミュラーの一言で議事が再開されると、その日の会議はそれ以降つつがなく進行される運びとなった。
但し、ビアンカとフィリーネ双方の心に黒いわだかまりを。そしてまたその場に偶然居合わせたビッテンフェルトとミュラー其々の心にも暗澹たる重い塊を創造するという成果を残して。




<END>

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