新たなる扉 (2) 







「荷物って本当にこれだけなのか!?」
アッテンボローは、フィリーネが頼んだ引越業者の貨物車両を見上げて目を丸くし、素っ頓狂な声を上げた。
「これだけですが、なにか?」
問題でもあるのかと言いたげなフィリーネの荷物は単身用コンテナ半分ほどの量でしかない。
「いくら遠距離だといったって、若い娘がこれかよ」
アッテンボローは肩を落とした。
事前に、フィリーネが日常使っていた家具家電等の生活用品を前もって処分したという話は聞いていた。
「それにしたって……」
これまでの私生活が偲ばれる荷物の少なさである。
毎月振り込まれる給料のどれだけを自分の為に使ったのかと問うたら、きっとフィリーネは答えることが出来ないであろうと想像された。
余談だが、フィリーネには親が残してくれた土地建物等の所謂遺産もあったが、こちらも事前に処理処分済みだ。その結果手元に入ったお金は全て、戦災孤児の育成を担う慈善団体に寄付したという。
徹底した話だとも思えたが、次のハイネセン帰省がいつになるのか見当も付かない状況ではそれも致し方ないかと黙って話を聞いていたが、それにしたって目の前のフィリーネの元には業者のコンテナ一台と手荷物のスーツケースが一つ。
「まさかミュラー元帥に『身一つでいい』と言われたなんて言うんじゃないだろうな」
冗談めかしてえげつない目線を送るアッテンボローであったが、内心では彼女の潔さに舌を巻いていた。
「違いますよ。これは私の考えた結果です」
途端に真っ赤になって生真面目に答える姿が白いワンピースに映えて初々しい。
「それにしたってここまで徹底しなくとも……お前さん、退職金まで寄付したって云うじゃないか」
「何処でそんな話を聞いたんですか!?」
そう問われたアッテンボローの流れた視線の先にユリアン・ミンツの姿があった。
ユリアンは慌てた。矛先が自分に向いたと察したからだ。
「だ、だって驚くじゃないか。財産のほとんど全部を手離すなんて……!」
「さもありなん」
味方するつもりもなかったアッテンボローだったが、全くの同意見であったので両腕を組んでうんうんと頷いてみせる。
「帝国軍元帥ともなれば、我々が手にすることもないだろう破格の給料が毎月振り込まれるのかもしれない。令夫人となるのだから金には困らないだろう。しかし、何だかんだと言ってはみても、結局のところ、いざという時に役立つのは金だ。持っていて損はない」
「そういう問題じゃありません!」
「ケジメ、でしょ」
ユリアンがフィリーネの代弁者のように言い、彼女も首を縦に振る。
「あ、ユリアン、お前、一人だけ良い奴になろうとしてるな」
ああ言えばこう言う性分は変わらないアッテンボローがユリアンに詰め寄った。
それにしても、帝国にしたって同盟にしたって、軍高官に嫁ぐということは言わずもがな将来を保証されたようなものだ。万が一にでも、夫が軍を退役して起業した挙句に事業に失敗したといったことでもあれば話は別だが、余程のことが無い限り生涯の金銭的問題は解決されたと云っても過言ではない。
更には、これまで職務においてそれなりに多忙で独り者であったフィリーネには同世代からも一目置かれるほどの蓄えもあった――これはユリアンとアッテンボローにも当て嵌まる――これは特筆すべき趣味等を持ち合わせていなかった本人にお金の使いどころがなかったという結果でもあるが、この期に及んでは喜ばしいことなのかもしれない。
「とにかくもう決めたんです。変わらないんです」
「欲の無いヤツだな」
呆れたように肩をすくめて零してみせたアッテンボローであったが、その表情には何処か満足げな色が見て取れた。
「そろそろ出ますが積み忘れはありませんよね?」
絶妙のタイミングで引越業者の声が掛かり、話題はそこで終止符を打たれるのだった。
フィリーネが内心で胸を撫で下ろしたのは言うまでもない。

今日はいよいよ旅立ちの日である。

*****

ナイトハルト・ミュラーは兄二人姉一人を持つ四人兄弟の末っ子としてこの世に生を受けている。両親が思いがけなく授かった子であったし、上の兄に至っては一回りほども年が離れていたから、乳児期から士官学校入学時までの15年間は家族中で可愛がられ大切に育てられた。
そんなミュラーの両親が思いがけなくフェザーンを訪れたのは、ミュラーがFTLで両親に結婚したい旨を伝えた二週間後のことだった。つまり、息子から報告を受けるや否やの早晩に現居住地であるオーディンを立ってきたに他ならない。

両親がフェザーンに至ったという姉からの一報を、携帯端末メールで知ったミュラーは息を飲み込んだ。
受信したのは今からちょうど一時間ほどまえのことだったのだが、定例の御前会議の真っ最中であったので、放置するしかなかった。まさか皇帝陛下の御前で、端末を開くなど無礼も甚だしい。それに、何かの一大事を告げる類の用件であるならば、部下が直接会議の場にまかりこして耳打ちするはずである。
故にミュラーは受信メールを開封するには至らなかった。
しかし、今回ばかりははある意味一大事に相違ない。
「どうかしたのか?」
会議が終わり、皇帝が退席するとほぼ同時に携帯端末を開くと、一読しただけで氷のようにミュラーは固まった。それを不審に思った隣席のミッターマイヤーが声を掛けなければ、半永久的に彼の時は静止したままであったのかもしれない。

「あら、早いのね」
姉のマルガリータは弟が驚くほど呑気に自宅ドアを開けてくれた。
しかし、そんな姉の態度は逆にミュラーの神経を逆撫でることに一役買ったようだ。
「どういうことだよ。俺は聞いてない!父さんと母さんが来るなんて」
静かだなイライラした様子で詰め寄る弟に、だが、姉は動じない。
「私も聞いてなかったわよ」
「じゃあ、どういうことだよ」
「どういうこともこういうことも来ちゃったんだから仕方ないでしょう」
姉ののんびりとした口調に頭痛を覚えながらも家の奥に視線を走らせてみるが、当然、この位置からでは中の様子はうかがえない。
「それにしても早いのね。貴方のことだから『早くても今夜、良く見積もっても2〜3日後かしら』なんてお父さんとお母さんには話してたんだけど、こんなに早く来るなんて予想外だわ」
天変地異でも起こるのかしらねと姉は弟をからかった。
「驚いたんだよ。今までどんなに誘っても年だからとか色々理由付けてフェザーンに来たことなんてないのに」
「息子に迷惑かけたくないから遠慮してたんでしょ。それとも貴方、何か悪い事でもしたの?」
両親の複雑な心情を慮りながらも弟への軽口は忘れない姉を甚だ面白く思わないと同時に、ミュラーには両親の突然の来訪の理由には確信があった。
それは姉も同様であったのだろう。
「貴方がここに駆けつけるまでの間に、お父さんとお母さんには私が知ってる範囲内のことは話してしまったわ」
姉のことだからミュラーに関することは勿論のこと、フィリーネについての複雑な事情もフォローを入れておいてくれたに違いない。
「ありがとう」
先に立って歩くマルガリータの背に向かってミュラーは礼を言った。
「貴方にお礼を云われるなんて何年ぶりのことかしら」
ちらりと振り返った横顔に小さな笑みを浮かべた姉は、やはり頼もしかった。

リビングに一歩踏み出した瞬間に飛び出してきたのは母だった。
「まあ、ナイトハルト!すっかり見違えて!何年振りかしら」
不肖の息子の顔が現れるや否や席を立ち、諸手を挙げて喜びを表現する。
再会のキスと抱擁を施されながらミュラーは、両親との直接対面はいつ以来のことだったろうかと脳内の記憶を素早く懸命に掘り起こしてみるが、残念なことに詳しく思い出せなかった。
それほどには会っていない証拠なのだろう。
久方ぶりに会った母親は、自分の知る母親とは違う人物のように思えた。ソファに腰かけて母と息子を見守る父親も同様である。
何よりまずは、二人とも老いていた。
以前に会った時よりも明らかに、皺の数も白髪の数も増えている。
驚いたのは、自分を抱擁した母親を抱き返した時だった。
母は、自分が知る母親よりもずっと小さく細くなっていた。
しかし、それが病気等の体調不良からくるものでは決してなく、単に老いからくる老化であることは、いかなミュラーといえども誰に何を云われずとも認識出来た。
「しばらく見ないうちに本当に立派になったのねぇ」
息子より頭二つ分ほどは小さくなり、目尻には昨日今日できたのではない深い皺が刻まれている。
己と同じ色の瞳を潤ませた母に両手で顔を挟まれてミュラーは、誰に対するのとも違う類の羞恥を感じて知らず顔を赤らめた。
「そんなことないよ。でも、そうだとしたら、父さんと母さんのお蔭だ」
偽りのない本心だ。
「父さんも元気そうだね」
恥じらいを隠すように言葉を掛けると、久方ぶりの息子に父は黙って頷いた。
「良かったよ」
言いながら、両親に不孝をしたという切実な想いが胸中に飛来して、ミュラー生来の屈託のない笑顔が破綻しかけたが、彼は一生懸命に耐えた。

「ところで先日の件だが……」
落ち着いた頃合いを見計らって、姉が4人分のコーヒーとケーキをテーブルに出すと、まず口を開いたのは父だった。
『件』というのは、無論、ミュラーの結婚の話題についてである。
「父さん達には報告が遅れて本当に申し訳なかったと思っている。それどころか、姉さんから聞いてると思うけど、相手は……」
だが父は息子のその先を手で制するのだった。
「お前が良いと思うなら我々に異存はない」
「幸せにおなりなさい」
それが全てであり、この瞬間、全てが決したも同様だった。
両親の言葉は情感にあふれていた。
「そもそも、お前が15で家を出る決断をした時にはもう、国にくれてやったと思っていた。そして、お前は地位も名誉も掴んだ。お前の選択に間違いはないと信じている」
「父さん……」
ミュラーの奥底から熱いものがこみ上げ、それは喉元へと急激にせり上がってきた。やがてそれが嗚咽に変わるまでに要した時間は明記すべきことではないのかもしれない。
それにしても、何故もっと早く両親に事の次第を伝えなかったのか。何故ためらっていたのか。自分をこの世に生み出してくれた両親は、その実、誰よりも息子である自分のことを知っていてくれたのではないか。
同時に湧き上がった後悔の念が全身を支配した時、
「ありがとう……!」
今日二度目となる感謝の言葉は涙でフィルタリングされて、明確な帝国公用語として機能しなかった。



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