新たなる扉 (1) 







結局のところ、ミュラーの意向は受理された。
しかしながら、ローエングラム王朝開闢以来――といっても未だ二世代五年ほどの短い経年であるが――軍部の中心として国を支え、人望も実績も申し分のない彼の軍務尚書辞任を惜しむ声が出ないはずがない。
「だが退役されるわけではないようだ」
追って新たな事実が確認されたが、今度は兵の間から何故この時期にミュラー元帥はそのような決断をされたのかという疑問の声が湧き上がる。
七元帥の中でも一番若く、実年齢的にも働き盛りであり、先代皇帝の信任も篤かったであろうミュラーが、いくら本人の意向の下とはいえ、こんなにも容易に辞任を許されていいものなのか。
事の詳細を知る筈もない人々の疑念は更なる疑念を生み落とす。

ミュラーは急がねばならなかった。
兎にも角にも公的な部分での手続きは完了したが、私的な部分でのそれは完了どころか一切合財が手つかずだ。仕事を理由にその他の事柄をおざなりにしてきた自分を悔やんだが、今さら後の祭りである。
正式に辞意が表明された今、大きな混乱ではないにしても軍内外に動揺があるのは確かだ。そのほとんどは、ミュラーの辞任理由と何故軍上層部がそれを許したのか。そこに集積されているといっても過言ではないし、人の口に戸を立てることは出来ないのもミュラーは経験で知っている。虚実ないまぜであっても、早晩、様々な憶測と噂が人々の口に上り始めるのは確実なことのように考えられた。それによって何がしかのわだかまりが国と民の間に生じさせるのは決して本意ではない。
ミュラーは、久しぶりに与えられた休日の決して失礼には当たらない朝一番に、フェザーン市街へと地上車を手配した。
本来なら公よりも私が優先される事柄である筈なのだが、己の立場上、そうもいかないのが現実である。それでも通すべき筋は通さねばなるまい。
ミュラーは久方ぶりの部屋着ではない私服に袖を通すと目的地を告げた。

「貴方が自分から進んで訪ねて来るなんて珍しいわね」
そう言って軽く憎まれ口を叩いた姉が淹れてくれたコーヒーは懐かしい味がした。
「少し話があったからね」
ひとつ口に含んでカップを置くと、姉のマルガリータが呆れたようにごく短く息を吐き、
「それって、今の役職を辞めるってこと?」
唐突な切り返しにミュラーの瞳が見開かれた。
「主人の知り合いがね、軍人さんなのよ」
一昨年まで自分の家族と共にオーディンに住んでいた姉は、夫の転勤もあって今では一家揃ってフェザーン市街に居を移している。
そんな彼女が困ったように眉根を下げて弟の無言の問いに答えを与え、その話を知ったのはつい昨日のことだと打ち明けてくれた。
「早いな……」
情報の伝達についてである。
「何か不始末をしたとか、そういうことではないと聞いているけど」
弟は首を縦に振った。
「だったら何故?あまりこういう言い方をしたくはないのだけど、せっかく手に入れた今の地位じゃないの。そんなに簡単に手放してしまって」
大丈夫なのかと姉は憂えた。
(皆が皆、同じことを言うのだな)
当たり前のことだと思いつつも、ここしばらく同じセリフを何度聞いたか分からない。
知らず短い溜息が洩れた。
「子供たちは?」
「今日は二人とも夕方まで帰らないわ。マリーはお友達と約束、アルノーはクラブよ」
気分転換の意味も込め、話題を切り替えると姉は何を言うでもなく質問に答えてくれた。
「そうか、懐かしいな…」
何の苦しみも知らなかった少年時代が思い出され砂色の瞳が細められた。
その頃も悩みや苦しみはあったが、今思い返せばそれは年齢に相応しい苦悩でしかなかった。人の生も死も、人生の先行きだって、決して軽んじなどしていなかった筈だが、今の自分の思考の幅と深さとは比較にならないほどには浅く狭かったように思える。見える世界の広さも、背負っている物も、違いすぎるとも云えるのかもしれないが、それでもあの頃の自分は何と幼く青かったことか。末っ子でもあったので、早く大人になりたいと何度願ったことか知れない。そして願った結果がこれである。果たして自分はあの頃の自分が思い描いた大人になることが出来たのか。それに関しては甚だ自信がなかった。
「それより、わざわざ訪ねて来て話があるなんて…重要なお話なんじゃないの?」
空想の海に漂っていた思考が、姉の言葉によって現実に引き戻される。
「よくわかるね」
慌てていつものように笑んでみせたが成功したかどうかは甚だ疑問だった。
「そりゃあ分かるわよ。そっちからの連絡はほとんど電話かメール。こちらから催促しないと顔を見せもしない。なのに…」
「今回は俺のほうからだ」
ミュラーの顔が綻んだ。
こんな時、昔から姉のマルガリータは知ってか知らずか、何でもないように話しかけてくれる。おそらく、あえて彼が口をつぐみたい部分には触れないのだろう。それでも姉は何気を装って、ミュラーが抱える問題部分に静かに歩み寄ってきてくれる。生来的な性分なのかもしれないが、どちらにしても幼い頃からミュラーにとってはそれが救いであった。だから、どんな話をするにしても彼女を一番に選んでしまう。だが、これが両親や他の兄弟だったらこうはいかない。彼らは、いつでも朗らかで優しげな表情を絶やさない末弟の機微を敏感に感じ取って、十中八九憂えてくれる。それは単純にありがたい。しかし時にはいくら家族でも入ってほしくない部分があるのも事実で、いかにミュラーであろうともその部分に踏み込まれることは苦痛以外の何物でもないのだ。
「で、どんな話なのかしら」
水を向けられ、いつものように切り出そうとするが言葉が出ない。通常なら、こうして自分の目線まで降りてきてもらえれば、いともたやすく問題の要点を言えてしまえるのだが今回はどうも違うようである。
ミュラーは場を取り繕うようにコーヒーを口に含むと、お土産にと持参したアップルパイにフォークを入れて口に運んだ。そして口に広がった甘みを抹消するために再びコーヒーに手を伸ばと、苦さと甘さが混じった不可思議な味覚が気道を通過した。
「言い難い話なの?」
そんな弟の一挙一動を黙って見ていたマルガリータが遠慮気味に口を開く。
「いや…」
「歯切れが悪いのね。貴方のことだから悪事に加担したとかそんなことではないんでしょうけど、余程重大なことなのかしら」
「まあ…ね」
「今回の人事より?」
「どうだろう。だけど、今回の元になったことではあるのかな」
「元になったって…貴方…」
「実は結婚したいと思ってる」
姉の言を遮って、静かに述べた。
「結婚!?」
反復された言葉には黙って頷いてみせた。
「相手は姉さんも一度会ったことがある女性だよ」
そう言われてもマルガリータには記憶になかった。
不肖の弟が過去に自分に会わせてくれた女性などいただろうか。そもそも、女性の影が付きまとっていたことなどあっただろうか。なかったはずである。だからこそ、弟の栄達とは別の心配を常日頃マルガリータは持っていたのだから。
だが、瞬間、彼女の脳裏に数年前の夏の日の出来事が蘇ると、それは瞬く間に鮮明な色と匂いと音声を以って現実の記憶と化す。
「もしかしてあの方!?えーと、そう!フィリーネさん!!」
目の前の弟がほっと一安心と云った表情を作り無言で頷くと、一緒になってマルガリータも内心で胸を撫で下ろした。
「そう、彼女だよ」
「あの方ね。でもあれから全く話題にもならないし…」
「それはそうだよ。色々とあったし、はっきりしたのはつい最近だ。それに俺だってなかなか会えない人だからね」
「それってどういう意味かしら。お忙しい方なの?ああ、そういえば、前にお会いした時はオーディンだったわね。てことは、オーディンにお住まいなの?遠距離ってことかしら」
フィリーネについて細かいことを勝手に思い出してくれる姉に嬉しい心持がした。しかし次に彼女の背景について語れば、きっと彼女は目を丸くするに違いない。それともそんな相手を選んだ自分に激昂するだろうか。生まれてからずっと一緒にいて相談相手でもある姉なのに、今回ばかりは予測がつかない。
「そう、遠距離。でも方向は姉さんの言った場所とは逆だ。ハイネセンだよ」
「ハイネセン!?」
幼い頃から見慣れた姉の目が驚きに見開かれるのを最後に目撃したのは、いつ以来のことだろうか。
相好は崩さずにミュラーは静かに頷いた。


***

一方、ハイネセンでも帝国の人事に関する報がもたらされていた。
「お前、知ってたのか?」
たまたまアッテンボローの執務室内においてユリアン等と談笑していたフィリーネは、部屋の主でもあるアッテンボローから向けられた水に咄嗟に答えを返すことは出来なかった。
そもそも何も聞いていなかったのだから答えられるわけもない。
「辞任だぞ。軍務尚書の地位を捨てるってのか、あの男は…」
理由は何かなどアッテンボローには容易に予測がついていた。
「お前さんが昨年末に辞表を提出したって聞いた時にも驚いたがな。んで、結婚しますってか。相手は帝国軍元帥にして軍務尚書とはな」
その時も何の前振りもなかった。突然だったのだ。
納得するしかなかった。
というのもアッテンボローはミュラーとフィリーネの関係を薄々感づいていた。だが、あえてこちらから水を向けるということはしなかった。その時になれば、事を成すための何がしかのアクションがフィリーネ側からあるだろうと考えていたからだ。彼女とは決して短くはない付き合いでもあったし、同じ釜の飯を食った仲でもあったので、何かのきっかけで先方から打ち明け話でもあるだろうとタカをくくっていたのだ。直接的ではなくとも、せめてユリアンを介して事の詳細が語られる日も遠くはないだろうと勝手に思い込んでいた。
しかし結果は違った。
話をされるどころか、フィリーネは誰に云うこともなく辞表を提出した。
その時は彼女という人間は自分にとっては全くの他人に他ならなかったのかと一抹の寂しさを覚えたものだったが、後から聞いてみればユリアンも事前には何も知らされていなかったというのだから仕方ないと自分に言い聞かせた。
「あれは…!すみません」
目の前のフィリーネが頭を下げた。
「まあ、いいってことさ。終わってしまったことだ」
ヤン・ファミリーなどと云われていても、本当の家族が時としてそうであるように、何もかもが開けっぴろげになることなど理想の上に理想を重ねるようなものだ。
アッテンボローは単純にそう思い、無意識に見えない嘆息を零す。
フィリーネの謝罪に対しては片手を上げて目をつぶった。
それよりも今は帝国の人事である。
「地位や名誉より女ってか。うちのお嬢さんも高く買われたもんだ。なあ?」
「アッテンボロー提督!」
ユリアンである。
「違う違う。評価って意味でだぞ!」
慌てて意図するところをかみ砕いたアッテンボローであったが、耳にした人間によっては大きな誤解を生む恐れがあることを省みる。
「我々の仲間内から名だたる元帥閣下に高評価を得られる人物が出ることは喜ばしいことだがね。そんなに窮屈な国なのかと些か不安にもなる」
「そもそもがそういう国家ですよ。仕方ないと思いますけど」
「じゃあ、ユリアン。お前はこの決定を評価するとでも?」
「評価するかどうかは後世の歴史家に委ねますよ」
「お、珍しく逃げたな」
冗談交じりに糾弾してみせたアッテンボローだったが、それ以上追及の手を伸ばす気にはなれなかった。


***

「貴方が自分自身で判断して決めたことなら良いんじゃない」
ミュラーの話を一通り聞き終え、二つ三つ質問をした姉が溜息混じりに下した答えだった。
あまりにあっさりした解答にミュラーの方が口を半開きにするくらいには間髪無い解答でもあった。
「いや、正直驚いた」
「まあ、どうして?」
「こんなに簡単に肯定されたのは初めてだ」
多少苦みの入った表情に笑みを懸命に浮かべて弟が正直なところを吐露すると、姉は二杯目のコーヒーを差し出しながら、
「皆に反対された?」
「まあね。キスリングなんか目を剥いてたよ」
言いながら新たなカップを両手で挟むと痛いほどの熱が白磁を通して否応なく伝わり、慌てて手を引いた。
「だって、昔から貴方は本当に重要なことは自分で決断した後にしか報告してくれなかったじゃない。それで反対しても自分の意志を梃子でも曲げないのよ。いつもは穏やかなくせにそういうところは頑固だったわね」
「そうだったかな」
ミュラーが本当に知らないというように首を傾げたが、構わずに姉は笑って続けた。
「それに、事情は複雑なようだけど、一昨年前に私が会ったあのお嬢さんは悪い感じはしなかったもの。第一印象は大事よ」
聞きながらミュラーは、とてつもない重さの荷物を下ろしたように肩が軽くなるのを感じずにはいられなかった。
「そんなことより、オーディンのお父さんたちには報告したの?」
「それはまだ…」
「早く知らせてあげなさい」
「この後にFTLで報告するつもりだったんだ」
「FTLね…直接は甚だ難しいでしょうけど、こういうことは私よりお父さん達に知らせるほうが先じゃないのかしら」
そんなことは云われなくともわかってる。が、やはり長年の慣れからどうしても足がこちらに向いてしまったのだ。
姉の苦言をあえて無視してほどよく冷めたコーヒーに口をつけると、本日二杯目のそれは、正に飲み頃の温度でミュラーの心身を至福で満たしてくれるのだった。


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