尋 問  (2)







「何の変哲もない普通の女じゃないか」
「でも美人だろ」
「この状況でのろけるなよ」
お前が何をそんなにこだわるのか分からないと真っ直ぐな視線をこちらに向けてキスリングは断じ、対するミュラーは上目遣いにニコリと屈託なく笑う。
確かにフィリーネの外見は一見すれば美人の部類に入るのかもしれない。
帝国貴族の血を引きながらも同盟で生まれ育った彼女は、帝国女性にも同盟女性にもはたまたフェザーン女性にもない摩訶不思議な趣があり、キスリングの配下にある親衛隊員達の間でも話題になり易い傾向にあることも否めなかった。それでも、実際に先方に誘いを掛けたという話はついぞ聞いたことがない。隊員たちのプライベートにまで干渉する趣味をキスリングは甚だ持ち合わせていなかったから、それが皆無だと断言することは出来ないが、それが事実だとした上で原因はひとえに彼女の経歴にあるのだろうと彼は踏んでいる。
厄介事は抱えないほうが誰にとっても無難なのである。
特に現在の帝国に於いて、その国民のほとんどは前王朝の時代に生を受けた者たちなのである。つまりは当時の思想犯・政治犯と目された者たちへの弾圧の酷さやむごさを知っている者たちがほとんどなのだ。罪という名の下に一体どれだけの人間が濡れ衣を着せられ粛清されていったことか。もちろん、中には真に国家に仇名す輩もいたには違いないが、一体何処までが事実で何処までが嘘であったか。真実は永遠に歴史の闇の中である。
そんな歴史的背景を持つ国家において、時代は変わったのだとどれだけ叫ぼうとも、果たしてそこに生きる人間たちは、まるで服を着替えるように容易に思考の変換など出来ないはしない。
そういう理由では、帝国人にとって最も深みにハマってはならない存在の例がフィリーネであるといえるのではないか。
「もう一年経ったか…早いものだな」
キスリングが氷だけとなったグラスをテーブルに置いた。
「昨年の祝賀会の後のこと、覚えてるか。俺がお前に何と言ったか」
今夜と同じように杯を傾け合うお互いの姿が、酒場の落とされた照明が、そして喉の奥に流し入れた酒の味までが、ミュラーの脳裏に鮮明に浮かび上がると彼は無言で頷いた。
思えば、初めて自分がフィリーネを特別な存在として意識し出したのもあの夜がきっかけだったのかもしれない。
「余計なことをしたと思ってる」
ミュラーの思考を掬い上げたかのような自嘲を含んだキスリングの低音だった。


キスリングの開いたグラスを砂色の視界に入れながらミュラーはぼんやりと思考する。
これまでキスリングの口から発せられたフィリーネに関する讒言は、本来ならミュラーに向けられるべき不満が形を変え爆発した結果なのではないか。あるいは、ミュラー自身が無自覚であった感情を目覚めさせ、彼の意識の表層へと追いやり、だがしかしそれを成させるがままに傍観を決め込んでしまったキスリング自身の悔恨とそこから発生するやり場のない苛々の捌け口か。そうでなければ、熱くなることはあっても決して己を見失わない冷静さを絵に描いたような男の今夜の突発的な行いを容易に説明できそうもなかった。
それに昨年の祝賀会以来、何となくキスリングを避けてきた部分がある。表向きはそれまでと変わらず接していたつもりだったが、やはり心の何処かに一点の曇りがあった。それは謂うまでもなくフィリーネに関する事だ。
キスリングとはその話題をしたくなかった。理由は勿論、彼の不興を買いたくなかったが故である。
(そういえば、此処しばらく腹を割った会話をしていなかったな)
改めて思い至った。


対するキスリングはというと、ミュラーが懸念したように後悔の中にいた。
(あくまで可能性と直感だけの話であったのに、あの時あの場所であんな話題を振ってさえいなければ……)
もしかしたら現在の状況を避けることが出来たのではないか。事此処に至ることもなかったのではないか。
(結局のところ、俺は逃げた)
あの日、二人が並んだ姿を視認した際にキスリングは知ってしまったのだ。この同盟軍士官がミュラーの人生を変えてしまうだろうことを。それが旧友にとって良いことであるはずがない。
傷口は広がらないうちに治療するのが得策なのだ。出血は少ないに越したことはないのだ。だから即日で止めに入った。
しかしながら、現実は決裂に近い格好となってしまった。自身に鈍感なミュラーはキスリングの話を一笑に付し、全否定した。
それで話題は終わったのだ。お粗末なことこの上ないではないか。
だからこそ、ミュラーが持つフィリーネへの想いを憂慮しつつも、尻切れトンボのようにすれ違ってしまった話がキスリングに恐れさせたのだ。それ以上そこに踏み込むことによって生じるであろうミュラーとの関係悪化を。
だから彼はあの時もその後も、全てを感づきながらそこに触れるのを避けてきた。


今更認めたくなかったが、結局のところそれが真実なのだ。


「親切心なんか出すもんじゃないな。もれなく余計なおせっかいになってしまった」」
何処かバツが悪そうにキスリングは語った。
「それはないよ。遅かれ早かれこうなることはきっと必然だったんだ」
多少時期が早まっただけだと、しかしミュラーはあっさり否定する。小さく首を傾けて、苦笑混じりに淡く笑んだ顔には慰めに似た表情が浮かんでいた。
今までならこういった同情の類を決して許しはしないキスリングであったのに、今日は不思議と心が落ち着いた。
悔い改めた罪人が罪を許された暁にはこんな気分になるのだろうか。
何とはなしにそんなことが頭を過った。
(手前勝手だな、俺という人間は……)
表には出さずに頭を振りながら内心で自嘲するのは彼がギュンター・キスリングたる由縁なのか。
「正直なところは……」
やがてキスリングは、ミュラーの寛大さに対するお返しだというように一つ息を吸い込むと決意したように、だがゆっくりと口を開いた。
「悪い人間ではないと思う」
素直な見解だった。
「だろ?」
「調子に乗るなよ。だからといって全てが良しだとは決して思ってないのだから」
軽口に釘を刺すが、つい先刻までの一切の険はもはや忘却の彼方である。
「お前の人生の一大事らしいから俺も本音を云わせてもらうが……」
「いつも好き放題言ってるくせに。さっきだって……」
砂色の双眸がやんわりと緩み、発言の中断を余儀なくされると、だまれと一喝した。
ミュラーにはその一言にキスリングの照れが含まれているように思われた。しかしそれを口にしてしまえば、先方はまたしても態度を硬化させだろう。だからあえての反論はせずに黙ってその言葉に耳を傾けた。
「悪くはない。決してな。打ち明けてしまうと、お前の想いが成就するように手を貸してやりたいくらいだ。だがそれは彼女が今の彼女でなかったら……という絶対条件付だがな」
「しかし、今の彼女じゃなかったら俺はここまで真剣にならなかった」
淀みなく言い切るミュラーの瞳は真摯な光に溢れていた。
その様子に今度こそキスリングはこれでもかというくらい大きなため息を現実に吐き出した。
「そもそも、何処でそうなった。どうして魅かれた。俺は確かに後悔している。お前を唆すような真似をしたことをな。だがそれはあの時点でお前が彼女に興味を抱いていると感じたからだ。しかしミュラー、お前と彼女とはそもそもの接点がないではないか」
もともとが敵同士であったのだからむしろあるはずがないだろうと半ば詰め寄る格好だ。
「あったよ」
表情を変えることなくキッパリと言い切った姿に黄玉の瞳が見開かれる。
「ヤン・ウェンリーの弔問の際に会っている。それが最初だ」
「それだけか?」
「いや、その前に話だけは知っていた。キルヒアイス元帥。お前は会ったことがなかったよな。生前の彼が捕虜交換式に臨んだ際に彼女と言葉を交わしている。その時の話を俺はキルヒアイス提督本人から聞いていた」
キスリングがラインハルト麾下に配されたのはジークフリード・キルヒアイスが故人となった後のことだった。ラインハルトが帝国宰相となり、彼が新たに創設した親衛隊に隊長として配されたのである。
「しかし、それだけで?」
「そんなことはないさ。単にフィリーネを知った出発点ということだよ。俺だってそこまで単純じゃない」
ミュラーが微笑んだ。
「それはそうだが……」
キスリングは納得できない様子だった。
「それに俺にだって彼女とそうなるまでに付き合った女性は何人かいた。それはお前も知ってるだろ?」
「しかし軒並み長続きはしなかっただろ」
「まあね。実際、軍務が忙しすぎて、まあ、色々と……」
言葉を濁した。
「なのに、仕事を放り出して会ったのが彼女か」
「言うなよ。後から考えると自分でも信じられない」
「元帥閣下の言葉とは思えないね」
「だろうね」
参ったというようにミュラーが淡雪のように笑む。
「とにかく、気づいたら好きだったということじゃないかな」
「何を、何処が」
「さてね。俺にもそれが分からない」
だから困ると締めくくったが、その言葉はそのままそっくり相手に返された。
「こっちだって困るんだよ。それとも言いたくないのか?」
「違うよ。そうじゃなくて、どう説明したらいいか分からないんだ。あんまり根掘り葉掘り聞かないでくれ。この辺りで勘弁してくれないか。どちらにせよ言っても言わなくても、お前の考えが変えられないのと同様に俺の気持ちも考えも変わりはしないのだから」
そして笑いを収めると、
「でも唯一言えることもある……」
一転、真剣な面持ちでうつむき、ポツリと呟く声が耳に入るとキスリングは無言で次の言葉を待った。
「他の人間から奪ってでも欲しいと思ったのは彼女だけだ」
言いながらミュラーの脳裏に昨冬の出来事が走馬灯のように過った。
改めて思い返せば、あれも一つのきっかけだったのかもしれない。
何故ならそれまでは、ゆっくり進めれば良い事柄であると呑気にも考えていたからである。それでお互い異存はなかったのだ。
だが、あの出来事はミュラーの中に僅かばかりの焦りを生じさせた。このような事態は今後二度と起こるわけがないと理解しつつも、事を急ぐ気持ちが急速に芽生え成長した。
そして、その思いはフィリーネも同様であったのか、彼女に至っては年末に突然ミュラーの下を訪れた際には既に辞表を上部に提出した後であったというのだ。彼女はそれについての心の内を詳しく語らなかったし、ミュラーもあえて問い質さなかったが、フィリーネにとってそれは過去への決別を意味していたに違いない。
しかし、今回のことをあまり良くは思わないキスリングにしてみれば、実はそれも向こうの手なのではないかと勘ぐってしまう。
「それはないよ」
彼女の思惑など知るところではなかったが、それでも一向に構わないとミュラーは考えていた。むしろ良いきっかけだったのだ。
「それにお前だって本心からそんなことを思ってはないだろ」
図星だ。キスリングだって伊達に帝国軍に於いて重要な位置を占めているわけではない。人を見る目はあるつもりだった。そんな彼から見るフィリーネは人間性において特に何の文句もない。
(だからこその厄介事だったというのに)
「ふん……」
胸中で不平を言いながらも現実では黙るしかなかった。これ以上何を云おうが無意味だという確信もあった。
「なんにせよ。重ねて言うが、俺の気持ちは変わらない」
穏やかだが確固とした意志を感じずにはいられないミュラーの言葉である。
「まさか自分のごく身近に女で人生を狂わせるヤツが出るとは想像もしなかった」
吐き捨てるように毒づいた。
「本当に狂わせたかどうかなんて現段階でわかりはしないよ」
全く。ああいえばこう言う。何て男だ。
人の幸せなんてその人間の考え方次第で変わるものであり、他人がどうこう言えるものではない。
それはキスリングにも解り切ったことだったが、どうにも文句を言ってやらなければ済まない気分である。自ずと出る言葉が憎まれ口ばかりになるのは致し方ない
「それにしても、意外とあっさり納得してくれるんだな」
空になった二人分のグラスに追加の酒を注ぎながらミュラーが言った。グラス目がけて落ちる琥珀色の液体に目線が集中されている。
「あっさりだと!?言ってくれるじゃないか。これでも色々と抑えている」
「だろうね」
珍しく真剣な様子でキスリングが眼をむいて文句を述べると、くくっと喉で笑いながらミュラーが酒の入ったグラスを不平の塊と化した男に手渡した。
「それにしてもお前という奴は向こう側の人間と巡り合わせが強いんだな」
「え?ああ……」
突然の話題の飛躍に砂色の瞳を瞬かせるが、内容には心当たりがあった。
(オーブリー・コクランを指しているのだろう)
ミュラーには容易に理解された。
コクランという人物は、バーミリオン会戦においてミュラー艦隊が反転攻勢の一番槍を成し得たきっかけを作った人物ともいえる。そして戦後、その人となりを忘れなかったミュラーは部下に命じて彼を探し出させ、自分の幕下に主計監として迎え入れていた。
「なんだ、忘れてたのか?」
指摘はまさしくその通りである。今の今までコクランが同盟出身者だということをすっかり失念していた。
キスリングの口の端が引き上げられる。
「そんなだから……どうせ彼女に惚れた時も忘れてたんだろう。後の祭りってね」
「言うなよ」
そう言って苦笑いしてみせたが、その意見はあながち間違ってはいない。
ミュラーは胸の内で更なる苦笑を禁じ得なかった。

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