おわるものU(6)





訪問者を告げるベルの音に扉を開きかけると待ち切れないというようにフィリーネが抱きついてきた。ミュラーはその衝撃に僅かばかり身体を後ろに傾げつつもその全身を受け止める。
つい先日もこんなことがあった。
そんな既視感に囚われながら抱きとめた彼女はだがあの日とは違い確かに自分のものだ。
「今日皇太后陛下にお茶に誘われたわ」
ミュラーの腕の中でフィリーネがポツリと言った。その表情は見えない。
「貴方の謁見があったと聞かされた」
フランネル地のシャツ越しに感じる彼の熱と規則正しい心音を聞いているとこのまま密着していたい思いに駆られ、背に廻した両腕に力を籠めた。
「それは…」
フィリーネには言ってなかった。
ひょっとして彼女がそのことについて怒っているのではないかという考えが頭を過ったがどうもそうではないような気もしたので、まずは部屋に入ることを勧めると存外あっさり彼女は従ってくれた。
ミュラーはかばうようにフィリーネをリビングに導いた。


通されたリビングには既に暖気が満ちていて部屋の主がだいぶ前に帰宅したのであろうことは容易に予測出来た。
ソファに腰を落ち着けると最初に口を開いたのはフィリーネだった。
「今日の日中の会議の後に呼び止められてお茶に誘われたの」
皇太后本人も認めていた偶然ではない招待への経緯とその席での会話の内容をミュラーに伝えると彼は右手を顎に充て何事か思案する仕草をした。
「話したのはそれだけ?」
「ええ」
やがて発したミュラーの質問に頷くも彼が何故そう言ったのかが気になった。
「貴方との謁見ではもっと何かあったの?」
皇太后と皇帝の温情に触れ涙し、己の心の内を熱く語った。とはさすがにフィリーネには告白するのが躊躇われた。しかしミュラー等も当初から憂慮していた事であり、皇太后本人からも懸念の言葉が出された事態をヒルダは何故にその当人であるフィリーネに伝えなかったのか。
「出自について聞かれたんだ」
「私の?」
「ああ。それについてはどう考えているのか、と」
「そういえば…」
その件については何の言葉も無かったことにフィリーネはこの時初めて気づく。
「でも実際意見を求められても困るわ。私、自分の家柄とか当時何があったかとか…本当に何も知らないのよ。正直なところ、こうなるまで興味もなかったわ」
ミュラーはそれに一つ頷き返し、実はと自分がこれまで調べ上げたリーゼンフェルト家の事実について語って聞かせた上で皇太后もそれを認知している旨をフィリーネに話してやった。
「だったら何故私にそれを私に尋ねなかったのかしら」
「俺もそう思った。だから君から会話の内容を聞かされた時不思議に思ったんだ」
「……」
二人同時に溜息をつくと顔を見合わせた。
「もしかしたら…」
「え?」
「いや…」
皇太后にしては容易過ぎやしないかという疑念が生まれた。
しかしそうでなければ納得出来ない。
フィリーネの血縁に関する記録の一切がこの世に存在しないのだ。例え誰であろうとその筋を辿ることなど出来やしない。それとも実のところ、皇太后は我々では知り得ない何か別の事実を掴んでいるのだろうか。その上で、この件に関しては問題にするに値しないと判断されたのか。それとも…。
現実として顕現してはならない事態。皇太后も懸念していた事柄が急ぎ足で脳裏を駆け巡るとミュラーは内心でかぶりを振った。
つい昨日までフィリーネとの結婚がすんなりいけばいいとどれだけ望んでいたことか。
それなのにここにきて無限に近い想像の翼を広げようとする自分がいる。
(所詮は戦争屋なのか…)
彼は自身を笑ってやりたくなった。
どちらにしても、皇太后がそうされたのであればミュラーは彼女の敷いたレールの上にすんなり乗ってやるのが得策なのだ。
「問題なしと判断されたのかもしれない」
だがミュラーの一言にフィリーネの眉根が不審げに寄せられる。
「確かにそうであるなら正直ほっとするわ。でも…」
「でも?」
「何かが違うような気がする…」
「何かって?」
「皇太后陛下らしくない。私は陛下の人となりを詳しく存じ上げないわ。だからそう言い切ってしまうのは貴方がたには面白くないことなのかもしれない。けど、率直にそう思うの」
よく知らないと言いながらも彼女はよく見抜いている。いや、それともそう考えるのが普通なのか。
ミュラーはフィリーネの傍らに座を移すと、その肩を抱いた。
相変わらずの軍人にしては細く繊細な肩だった。
「それでもそうするしかない」
胸の内で呟いた筈の言葉が、小さな、だが力強い音となって漏れ出していた。
「ナイトハルト?」
はたと我に返ると腕の中のフィリーネがこちらを見上げていた。
こういった理不尽めいた事柄に対して敏感で、感情を露わにしてでも自分の意見を述べる彼女であるのに、今の彼女の瞳には不安が色濃く漂っている。
そんなフィリーネを砂色の瞳に収めていると、何年か前にこの青い瞳に強い光をたぎらせて自分を叱咤した彼女がとても遠く懐かしいもののように感じられた。
ミュラーは黙ってフィリーネの柔らかい唇に口づけた。


この1週間後、ナイトハルト・ミュラー元帥の軍務尚書辞任の意向が正式に公表された。

<END>



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