おわるものU(4)





どのくらい時が経った頃だろうか。
ミュラーが落ち着きを取り戻すのを見計らったかのように皇太后が声を掛けた。
「それで、ミュラー元帥。本日の用件をお聞かせいただけるでしょうか」
ヒルダは場の空気を修正するためにもあえて知らぬふりで皇太后としての言葉を眼前の元帥に投げかけた。
そして、それに応えるかのようにミュラーも大きく上半身だけで息を吸い込み対峙する。
その砂色の瞳は未だ赤みを帯びていながらも強い光をはらんでいて、皇太后の内心に安堵の溜息をもらさせた。

「はい。本日は…」
気を引き締め、改めて言いかけた用向きは、だが皇帝アレクによって阻止される。
「ミュラー。大丈夫なの?」
ぐっと喉が詰まるように身体を強張らせると同時に声の方向に視線だけを落とす。
アレクがミュラーの右腕に掴まりこちらを心配げに見上げていた。
「はい、陛下のお蔭でもう何ともありません」
笑顔で応じてみるが幼帝の疑念は消えない。
「ほんとうに?」
「ええ。本当でございます。ですからご安心を…」
「本当に、本当にか?」
大きく黙って頷いてみせる。
「本当かなぁ。信じられないなぁ」
ぶつぶつと幾度か呟いていたアレクだったが、やがて自分の言葉のリズムに合わせてミュラーの腕を揺らし始めた。
「そうなのかなぁ。本当なのかなぁ」
出鼻をくじかれるとはこういうことなのかもしれない。
気勢がそがれるのをミュラーは感じずにはいられなかった。
それでも用件を伝えるべくそちらには構わず口を開きにかかるが皇帝はミュラーの腕に更に両腕を絡め、ねえねえと揺らしてくる。
しかしそれでもと懸命に用件を伝えようと何度か気を取り直す努力を試みてみるも、自身の精神がどうにもそちらに集中出来ない。
相変わらず皇帝はぶらぶらとミュラーの腕を揺らしている。
先ほどまでの感動は何処へやら、温厚だと謳われた帝国軍元帥は多少の苛立ちを感じ始め、自身の惰弱さと止まぬ皇帝の行動に表には出さず頭を抱えた。敬愛すべき皇帝陛下に対して不謹慎かもしれないと思いつつも止められなかった。
伝えるべき用件。それも己の将来を左右するかもしれぬ重要な事柄について述べる場を与えられながら、与えた当人(この場合多少の語弊はあるが)によって阻止され、伝えることもままならぬというのはこんなにも苦しいものなのか。
いよいよミュラーの堪忍袋の緒が切れかけ、まるで甥っ子を叱るような心持で皇帝に対して言葉を発しようとした時に、それまで無言であったヒルダが遂に声を上げた。
「アレク。いえ、皇帝陛下。おやめください」
その声音は犯しがたい威厳にあふれていた。
アレクの動きがぴたと止まった。
「ミュラー元帥は大事なお話をするために此処を訪っているのです。陛下は陛下のお立場をわきまえてくださいませ」
すると言葉が終わるや否や、静かにアレクの腕がミュラーから解かれ、幼帝はこの元帥から離れていった。小さな身体をいっぱいに使ってすごすごとソファを降りるその姿は哀切に満ち溢れていた。
ミュラーはほっとしながらも、その悲壮感漂う姿に思わず手を差し伸べたい衝動に駆られる。が、手を貸してはいけないという臣としての心がその思いを寸でのところで押しとどめた。

皇帝が皇太后の隣にしょんぼりしながらも腰を下ろすと、ヒルダは目線でミュラーに先を促した。
ミュラーが漸く口を開く。
「今回私的謁見を申し入れましたのは、小官とフィリーネ・フォン・リーゼンフェルト嬢の婚姻の件についてです」
「お相手の方は帝国の人間ではないと認識しております」
「はい。同盟軍少佐です」
言い切った瞬間、ピンと空気が張りつめる。
「ミュラー元帥におかれては、その件は実現出来るとお思いですか?」
「恐れながら、小官には出来るか否かの問題ではありません」
「と言いますと?遠慮はいりません。はっきりおっしゃってください」
「はっ。それでは…」
ミュラーは小さく一礼を施すと、何事かを決意したように言葉を吐き出した。
「まず申し上げます。この件に関しては決して願いを叶えて頂くのではなく、実現するという報告なのです。そのための私的謁見です」
ヒルダの瞳が緩んだように見えたのは気のせいか。
「それでは、それが実現されたとしましょう。それによって起こるかもしれない事態についてはどう思われますか?」
「恐れながら、事態とは?」
ミュラーはわざと素知らぬふりをした。
どうせ避けられぬ問題ならば、その障害を出来るだけ少なく小さくしたいという考えがあったからだ。
「先方の同盟は自由の国だと聞きます。ですから、この場合国家間の問題はあっても極々小さなものでしょう。ですが、問題は民心です。周知の通り、我々はつい先頃まで一世紀以上に渡って武力による抗争をしてきました。それなのに、国家の重鎮たる元帥が敵対していた国家の、しかも軍人の花嫁を迎える。更にお相手の方は元ヤン艦隊所属で同盟瓦解の折にはイゼルローンの革命軍に加わっていたと聞きます。その事実が表沙汰になった時、果たして人々の心はどう動くとミュラー元帥には思われまか?」
それは以前フィリーネが懸念していたことだった。
それらの事情があったからこそ彼女は躊躇い、ミュラーはそれでもと彼女の手を引いた。
「それは正直図りかねます。しかし決して良い気持ちを持つものばかりではないとは分かります。我々を憎む者も出てくるかもしれません。ですが、それでも私は彼女を私の伴侶として迎えたいのです」
最後の言葉には揺るぎない決意が混在していた。
だがヒルダは続ける。
「そして彼女の出自についてです」
「帝国の亡命貴族の子弟だという件でありましょうか?」
「そうです。例え前王朝の下での亡命ではあっても、そこに何らかの理由なくして亡命などありえないのです」
「何か因縁めいたことがあったと陛下はおっしゃりたいのですか?」
「そうではありません。ありませんが、万が一彼女の血縁が旧門閥貴族に連なる家系であった場合、それを利用し暗躍する者も出てくるかもしれないということを懸念しているのです」
「それは私も考慮しました」
それは本当だった。
以前、ミッターマイヤーに忠告を受けた際にミュラーは密かに彼女の家系を紐解く試みをしていたのだ。しかしそれはある意味失敗に終わった。何故なら、リーゼンフェルトの名の痕跡は帝国の何処にも残っていなかったからだ。
それは何故か。そこから導き出される答えは二つだった。
一つは本来彼女の家柄は貴族ではない。
しかしこれはフィリーネを知る帝国側の人間なら誰もが抱く彼女の印象によって容易に否定することが出来る。
そして二つ目。
おそらくこちらが正解だろうとミュラーは踏んだ。
答えは、記録からの抹消。
つまり、国または王家に何事かの凶事をもたらした、またはもたらす者と判断され、忌むべき家系としてその悉くが根絶やしにされた挙句に記録からも消されてしまった。
「ミュラー元帥にはそれでもと言われるのですか?」
「はい。何よりもまず、私は彼女を信じております」
「それでは、先ほども申しましたが、我々の信頼はどうなります?」
「と、言われますと?」
「元帥はお相手の方を信じておられるとおっしゃった。それで我々については?帝国は?皇帝陛下は?」
「忠義のことを言われてるのですか?」
「そう取っていただいても結構です」
「どちらを取るのかと…」
「元帥は帝国になくてはならない方であられます。しかし、今回のことが実現した場合、皇帝陛下の意志に関係なく民心は割れるかもしれません。帝国は皇帝陛下が一切を統治しておられます。それでも前王朝と違うのは民心を決して無下にはしないという点です。これは最悪の場合を想定して頂かなくてはならないかもしれないということでもあります」
「それは私の地位を含めた全てが白紙に帰すことだと取ってよろしいのでしょうか」
「そう考えていただいて結構です」
ヒルダの解答は明解だった。
だがミュラーは言う。
「それでも、です。例えこの地位を退くことになっても、この皇宮を訪れることが出来なくなっても、私の帝国へ対しての、皇帝陛下に対しての忠義は変わりません。何故なら、私は地位や名誉や栄光といったものがあるから忠義を誓う者ではないからです。今の王朝の本質が変わらぬ限り、私はどんなに身をやつそうと何処にいようと忠義を誓い続けるでしょう。皇帝陛下の御為に身を粉にして働くでしょう」
先帝ラインハルトが存命の頃より抱き続けた思いをここぞとばかりに吐き出したミュラーはそこで一端言葉を切ると、皇太后と現皇帝に向かってやや声高に最後の一言を放つ。
「これは紛う事なき私の本心です」
砂色の瞳が紅に染まったように見て取ったヒルダはその迫力に僅かばかり気圧された。
「それほどまでに私は陛下を国家を、このローエングラム王朝を慕っております。しかし私個人の現実にはフィリーネ・フォン・リーゼンフェルトという女性が無くてはならない存在になってしまったのです。それだけはご理解いただきたい」
「だから地位も名誉もいらない、と」
「確かに皇帝陛下と皇太后陛下のお側でお仕え出来るのは私にとっては最高の栄誉です。しかし今の私は彼女無くしては成り立たないのも事実なのです」
「それほどまでに愛しておられるのですか?」
「愛…さあ、どうでしょう」
そこで初めてミュラーの顔が僅かにほころんだ。
「愛ではないと?」
「正直、私には分かりかねるのです」
「それはどういうことです?」
「これを言ってしまうのは私にとって限りなく羞恥に堪えないところなのですが…」
「?」
「アイシテルという言葉だけでは足りないのです」
「それは…」
「色々とそれらしい言葉を思い描いてもみるのですが、実際どんな言葉を使っても彼女へ対する自分の気持ちが表せないのです」
そこでミュラーは照れたように目線を逸らし、砂色の頭をぽりぽりと掻いた。
今日ここに来て初めて見せる素顔に、ヒルダの表情が自ずと柔らかいものになる。
「……羨ましい方ですね」
自分のことを云われたと取ったミュラーがはたと顔を上げた。
すると素早くその意を理解したヒルダが付け加える。
「お相手の方です。ミュラー元帥のような方にそんなにまで想われて幸せな方です」
と、ひとしきり笑んだ。
瞬間、ミュラーの耳からとてつもない熱さの熱が全身に向かって発せられ、彼は思わず皇太后から顔を背けた。
「ミュラー赤いよ!」
それまで一言も発しなかった幼帝の言葉に更なる体温の上昇が全身に伝わり如何したものかと焦りを始めた矢先、それ以上の介入を許さないというようにヒルダが声を発した。
「わかりました。最上の結果を出せるように考慮しましょう」
謁見は終わった。
だが問題は全て解決したわけではなかった。
それでも謁見を申し入れた相手に宣言されれば致し方ない。
ミュラーはソファから立ち上がると最敬礼を施し、皇帝親子に背を向けた。

「ミュラー元帥」
しかし扉に手を掛けドアノブを廻しかけたその時、背後から名を呼ばれた。
改めて皇帝親子に向き直る。
「私もこういった立場でなければ、あなた方の力になって差し上げたいのです。それだけは分かってください」
そう述べた皇太后ヒルダの姿は、先帝の幕僚総監をしていた時代のフロイラインを彷彿とさせるものだった。
ミュラーは再びの最敬礼を捧げると皇宮を後にした。





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