おわるものU(3)





勧められたソファにミュラーが着席し、テーブルにコーヒーが運ばれるとまず口を開いたのは皇太后ヒルダであった。
「不思議にお思いでしょうね。ミュラー元帥には」
「は、はい。恐れながら…」
先ほどの皇太后自らの言葉についてだろうことが察せられたミュラーは短く答える。
「先日…と申しましても既に昨年の話になりますが、侍女たちの噂話が耳に入ったのです。と言っても実際その話を耳に入れたのはマリーカなのですが…」
「ケスラー元帥夫人の?」
皇后時代のヒルダに仕え、皇后本人が友人と認めたマリーカは昨年の6月に晴れてケスラー元帥夫人となっていた。彼女は既婚者となった今でも皇太后ヒルダに仕えている。
ヒルダは頷いた。
「それを私に伝えてくれたのです。だからといってマリーカを責めないでください。彼女は彼女なりに事態を憂えたのですから」
そう前置きした上で皇太后はその内容を語った。

侍女の一人が夜の街で若い女性と肩を並べて歩くミュラーを目撃したのだという。かといって別段何の感慨も得なかった彼女であったのだが、数か月後再び偶然にも同じ女性と親しげに歩くミュラーを見かけた。するとその時連れ立っていた軍の女性事務官がその女性を知っているという。友人でもある連れは驚いていた。侍女はその段になって初めて女性の正体に興味が湧いてきた。尋ねる侍女に友人はあっさりと答えた。帝国軍元帥と親し気に会話する女性の正体は同盟軍士官であることを。事実を知った侍女は友人同様驚いた。だから翌日には職場でその出来事を話題にした。

「その侍女曰く『ただならぬ仲に見えた。きっとミュラー元帥の恋の相手に違いない』と。そう言っていたそうなのです」
ヒルダの話を聞きながらミュラーには心当たりがありすぎた。
確かに自分たちは無防備だったのだ。しかし決して悪事を働いているわけではなかった。
自分の欲求に素直になっていただけなのだ。
それでもこの段になってみると、果たして本当に自分の判断は正しかったのか。
自信を持つことが躊躇われてきた。
急激に襲ってきた居心地の悪さにミュラーは膝の上に乗せた拳に視線を落とした。

「それからどれほど過ぎた頃でしょうか。ミッターマイヤー元帥と夫人が私の下を訪れたのです」
突然耳朶を打った年長の僚友の名に弾かれたように目を上げると、いつの間にか傍らに皇帝アレクサンデルがちょこんと腰を下ろしていた。
今年5月に三歳の誕生日を迎える皇帝は今がかわいい盛りである。
青石色の瞳に無邪気な笑みを浮かべた幼児と目が合い、微笑み返してみせるが成功したかどうかは自信がなかった。
だがここで考え込んでいる猶予も余裕もミュラーにはない。
「ミッターマイヤー元帥が夫人を伴って?」
渇きを覚え始めた喉を持て余しながらも皇太后に応える。
「元帥は本来なら筋が違うのかもしれないと申しておりました」
それでも参内せねばと思ったのだろう。
ミッターマイヤーには自分たちのことを包み隠さず話していた経緯がある。
「どういったことを元帥が話されたかは察せますか。ミュラー元帥?」
「おそらくは…しかし違うのかもしれません」
多分元帥は事実を明らかにした上で二人の関係を認めてほしいと、それだけの為に夫人と共に謁見を願ったのではないか。

本来ならフィリーネとの婚姻を決めた時点で真っ先に知らせるべきはミッターマイヤーではなく自分が仰ぐ旗の頂点だった筈である。
だが自分にはそれが出来なかった。
決して彼女との婚姻に躊躇いがあったからではない。
公人として事態に赴いた時に突きつけられるだろう結果に二の足を踏んだのだ。
そもそも正式な恋人の座をフィリーネに与えた時点でその旨を皇帝に上申しても決して早すぎない事項であったとミュラーは今になって初めて己の詰めの甘さを呪う。
彼女と自分。お互いの公的な立場を鑑みれば、当然のことであった。
現在七人存在する元帥の誰かが今の己と同じ境遇になり自分の耳にその事実が入れば、ミュラーはきっとそう動くように強く勧めるだろう。
しかし今回彼はそれを怠った。
例え誰かにそれを非難されたとしても反論することなど出来はしない。
「自覚を持ってもらいたい!」
一昨年、職務を放棄した格好となったミュラーにメックリンガーが放った一言が脳裏に蘇る。
あの時、自分は寛大な意思にひれ伏した。
そして誓ったはずだった。
それに報いねばならない、と。
なのに結局のところまたしても己を律することが出来なかったのだ。

「ねぇミュラー。どうしたの?」
後悔と悔恨のただ中に佇んだミュラーは幼い声で我に返った。
対面した無垢な瞳はそれだけで彼を苛み、その心を更なる深淵へと誘い込む。
「怖いよ。ねぇ、母様。母様もそうはお思いになりませんか」
何も知らない幼児にヒルダは母親として曖昧な笑みを返し、ミュラーには皇太后として向き直った。
「ミュラー元帥。多分ミッターマイヤー元帥が何故私を訪ねたのか。それは今貴方が想像された通りだと思います。そして貴方が今考えられただろうことも元帥は懸念されていました」
はたとして見返したヒルダの瞳には強いが穏やかな光が宿っていた。
ミュラーは皇太后の人の思考を見抜く洞察力に舌を巻いた。
「…私には、いえ、私は忠義を尽くすという言葉にそぐわない人間なのかもしれません」
所詮それだけの人間なのかもしれない。戦時という状況下においては確かに忠節を貫いた。しかし戦争という本来の自分の職務が無くなってしまった今、自分は帝国の重鎮と云われながらもその大役を果たせる器ではないのかもしれない。
それはこの時のミュラーの本心だった。
「それでも我々は貴方を必要とするのです」
「しかし…」
「本来、人は公人であるよりまず私人でありたいと願うものなのではないでしょうか。確かに忠義という言葉は聞こえはいいかもしれません。しかし忠義に徹するというのであれば、ともすれば人は人で無くなってしまいます」
それでも決してそうではなかった赤い髪の人物を彼らは知っていた。しかしそれは既に過去のこと。今は今を生きる者として彼らは会話する。
「かといって私人としての自分を最優先すれば公人としての己がおろそかになる。そこにジレンマが生まれ、人は悔やむ。そうであるならば成長すれば良いのではないでしょうか」
「しかし!」
「ミュラー元帥。私にだって私人としての部分はあるのですよ。でも現実においては公人としての割合がそのほとんどを占めねばならない…」
ヒルダの視線が幼い皇帝に向けられるとブルーグリーンの双眸が一介の母親としての光を生み出した。
「私もその狭間で戦い敗れてその都度悔やむのです。そして省みてまた次の日を迎えるのです。おそらくこれからもそんなことの繰り返しなのですよ。それでも進むしかないのです」
言い切ったヒルダの瞳が細められる。
「それに、帝国に皇帝陛下を筆頭とした帝室に忠義…いえ、正直忠義の幅など誰に計れるものではないと思いますが…ミュラー元帥。例え貴方がそれに反したと悔やんでいるのであろうとも、我々は貴方を信じているのです。それだけの信頼が貴方にはあるのです」
「皇太后陛下…!」
ヒルダのその言にミュラーは身体の奥から熱いものがこみ上げてくるのを感じずにはいられなかった。堰を切ったように一気に噴き出さんとするそれにミュラーは必死に耐えた。
我知らず目頭を押さえ、苦悶に堪える様に俯くと涙があふれた。

「みゅぅらあ。どうしたの?」
温かい小さな手が膝に乗せられる。
「ないてるの?」
アレクはミュラーの膝上によいしょと小さな全身を使い馬乗りになったかと思うと、その腕の中に身体全体で潜り込み真下から覗き込んだ。
「いえ…少し…嬉しすぎて…」
「泣いちゃだめなんだよ」
一人前のような口ぶりで声を掛けるアレクの右手がミュラーの垂れた頭<こうべ>をよしよしと撫で始める。
「おとこのこはないちゃいけないって」
そして母親であるヒルダを振り返ると、
「ね、かあさま!」
振り向いた青石色の視線の先で母親である皇太后が頷いた。
「ね?だからミュラーだめだよ」
言い聞かせるように皇帝アレクはむせぶ己の臣下を再び覗き込みながら砂色の頭を撫で続けた。
「はい…御意のままに…」
そう応じたミュラーだったが、皇帝の命に従うことは当分出来そうにもなかった。



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