おわるものU (2)





「リーゼンフェルト少佐」
記憶の何処かに存在する声が背後から自分を呼んだので振り返ってみると、そこには金褐色の髪に才気あふれる容貌を持つ美しい女性が立っていた。
「皇太后陛下!?」
フィリーネを呼び止めた人物。それは皇太后ヒルデガルドであった。
「宜しければお茶でもと思ったのですが、お時間はございますか?」
ブルーグリーンの瞳に穏やかな光を湛えながらの申し出だった。が、フィリーネはその突然の招待に驚きを禁じ得なかった。
ここで呼び止められお茶に招かれるということは、それが公私の問題を別と考えても個人的に招待されたのは間違いないだろう。しかし自分は皇太后と個人的な面識など皆無に近いと記憶していた。
(それでは何故)
疑問が脳裏をよぎり返答に窮する。
「アレクが、いえ、皇帝陛下が…」
「カイザーが?」
「はい。お疲れになられたようで眠ってしまわれたのです」
今しがたまでフィリーネは同盟側の代表に付き従い御前報告会に出席していた。
それは同盟側が月一回自国の内政事情などを帝国の代表つまりは皇帝に報告するという終戦以降定例となった公的な会である。フィリーネもフェザーン滞在中にこの日がやってくれば必然的な確率で出席を余儀なくされる。
だが、今回のように会議後に皇太后から声がかかるなどは初めてのことであった。
フィリーネの胸中をよそにヒルダは続ける。
「次の公務の予定まで時間もありますのでそれを理由に私も休息を取ろうかと思いまして」
「それで私を?」
「はい。お姿をお見かけしましたので。お時間があるようでしたらご一緒に如何かでしょうか?」
今や全宇宙の大半を手中に治める銀河帝国の摂政皇太后にそう言われてしまっては断ることなど出来ない。例えそれをヒルダが笑って許してもフィリーネ自身が自分を許すことなど出来そうもないし、それが上に伝われば何処からか何やかやと文句の一つも出そうなものだ。
幸い今日はこの後の予定はほぼ空白に近い。
フィリーネは是か非か考えるよりもまず黙って頷くしかなかった。

畏れ多くもヒルダに案内され通された部屋は先ほどの報告会で使用した小さめの議場の隣室に設えられた皇帝の私的空間であると思われた。
重厚な応接セットにはテーブルを取り囲むように二人掛け用と一人掛け用のソファが二つずつ備えられていた。
その二人掛けソファの一つにはブランケットで首から下の全身を包まれた皇帝アレクが安らかな寝息を立てている。
ヒルダはフィリーネにもう片方の二人掛けソファを勧めると、彼女が腰を下ろすのを確認し自分もアレクの隣に腰を落ち着ける。これで二人はテーブルを挟んで真正面に対座する格好となった。
皇太后ヒルデガルドは帝国貴族出身だという。
幼い頃からフィリーネの中にある貴族のお姫様とは、高価なドレスと宝石に身を包み、華のように笑みながら昼は悠々自適に過ごし、夜はダンスを楽しむ。そんなイメージだった。そしてそれはゴールデンバウム王朝時代においては決して間違いではなかった。
だが今目の前にいる皇太后は旧体制下で生まれ育ったはずであるのに、あの先帝ラインハルトが「金髪の孺子」と呼ばれていた時代に彼の秘書官に抜擢され、後に帝国軍幕僚総監を務め上げたという。ほぼ間違いなくフィリーネが長らく抱き続けた帝国貴族の令嬢とは正反対の人物であるに違いなかった。
フィリーネの視界の中でヒルダが安らかに眠り続ける幼帝アレクの頭を撫でてやると父親譲りの豪奢な金色の髪が滑らかな光の波を作り出す。その光景は古代の絵画に描かれ続けた聖母子像のように美しく眩しかった。
母子二人を神々しいものを見る様に目を細め見守っていたフィリーネはしかし茶器とテーブルが触れる音で我に返る。
侍女が紅茶とちょっとした茶菓子を用意してくれたようだ。
アレクの柔らかい髪を撫で続けながら皇太后がオーディン産の茶葉で淹れた紅茶だと説明してくれ、フィリーネは礼を述べる。
一口紅茶に口を付けると芳醇な香りが口内に広がり、蓄積した全心身の疲労と緊張をほぐすような錯覚を覚えた。
すると、解きほぐされた脳が新たな疑問をフィリーネに投げかける。
皇帝が寝入ってしまい休息を決めた上で自分を見かけたからといって、これだけ素早いタイミングでお茶を出せるものなのか。どんなに皇宮に仕える侍女たちが優秀だとはいってもだ。それほどに接客アイテムの登場は早かった。
フィリーネは内心で首を捻らざる得ない反面、同時に別な思考も彼女の脳内に芽生える。
(皇太后陛下は最初からこうするつもりだったのではないのか)
ふと目を上げるとヒルダのブルーグリーンの瞳と正面から対峙した。
「察していただけましたか?」
最上の存在のように息子の頭を愛でたそのままの瞳で皇太后は一言そう言った。

フィリーネは、この僅かな時間で自分が思い描いたことなどお見通しだと云わんばかりの皇太后の言葉に恐れ入る。
薄い磁器で作られた紅茶カップを無言でソーサーに戻すと思ったままを口にしてみた。
「では私に御用があると。お茶に誘われたのは、私を見かけたのは偶然ではないということでしょうか」
以前は対峙していた陣営の最高指導者ともいえる皇太后に、本来なら口にすることさえ恐ろしい投げかけではあったかもしれないが、ヒルダという人物には言ってしまっても良いような気がした。フィリーネは皇太后の生来持つ人となりというものを知りはしなかったが、第六感が彼女にそうさせた。
「その通りです。しかし見かけたのは偶然です。当初は今日の会議が終了した時点で誰かを使いにやって招待しようと思っていましたから」
案の定ヒルダはフィリーネの言い草など気にする風でもなく、そう断言した。
「それでは肝心の御用とは?」
これは同盟の内政もしくは軍部に関することだろうと予測された。それも自分を単独で呼ぶということは他言無用だという類のことであろう。しかし職務上とはいえこうして帝国と同盟を行き来してはいるが、自分は同盟内部で権力という面において決して力を持ち得ない。そんな自分に用があるということは水面下で動かねばならぬ事柄が発生した。もしくはこれから発動するということなのではないか。
フィリーネは表には出さず身構えた。
「少佐。いえ、フロイライン。そんなに身構えなくとも結構ですよ」
だがどうやらこの皇太后の前ではそれも無駄な努力のようだ。すっかり見抜かれている。
それにしても気になったのは皇太后が自分を『フロイライン』と言い換えたこと。
フィリーネは訝しげに眉を顰めるとヒルダを見つめなおした。
「そうです。今日は私人としての貴女と話してみたかったのです」
「私人としての私と…ですか?」
すると青い瞳に満足げに頷くヒルダの姿が写し出される。
「ええ。私人として話してみたいと」
フィリーネは以前から異色ともいえる育ちと経歴の皇太后に興味を抱いていた。出来る事なら身分とか職責といった壁を取り払って個人対個人で私人同士で会話してみたいという願望も持っていた。だから、今回のこの申し出は図らずも彼女の願いをヒルダの方から叶えてくれたと云っても過言ではない。だが…。
「それはどういったことで?」
二人の間には公の事柄以外での共通点は全く存在しないに等しい。
フィリーネは長年の軍隊生活で相手を疑うということを覚えてしまった自分に決して小さくはない嫌悪を感じながらも口に出すことを止めることは出来なかった。おそらく今の自分の顔を鏡で見れば猜疑という言葉が張り付いているに違いない。
「私人としてはきっと他愛ないこと。しかし公人としてはそれでは済まない話なのかもしれません」
そう述べたヒルダはすると困ったように眉根を小さく寄せて続けた。
「全てが私人としては成り立たないというのが私の現実ですが」
摂政皇太后という立場ではそれも致し方あるまいとフィリーネは無言の内に頷いた。
その上で気を取り直し口を開く。
「正直にお話させていただくと、私個人は以前から皇太后陛下とお話させて頂きたいと思っておりました」
ヒルダの瞳が意外だというように僅かに見開かれるのが見て取れた。
「低俗で庶民的なレベルの理由で、それも不敬罪にあたるのかもしれませんが、私は向こう側の人間です。ですからハッキリ言わせて頂きますと、興味があったからです」
「興味?構いませんから教えて頂けますか。その理由を」
フィリーネは素直に訳を語った。するとヒルダは笑って頷いてくれた。
「そうして笑っていただけると私も正直なところ安心します」
「それは帝国では誰もが思うところでしょう。それに私は幼い頃より周囲から変わり者という目で見られてきたという実績がありますから」
「それは…」
「帝国貴族のほとんどの女性というのは貴女のイメージ通りに違いありません。特に貴族でも上流になればなるほどそういったものでしたから」
「しかし今は違うようにも思います」
「ええ。前王朝が倒れ、戦争が終わってからは目立ってそうなりつつあります。女性の心身共の独立といえるかもしれません。それは帝国にとっては良いことなのかもしれませんが、男性にとってはどうなのかは図りかねますけど」
そう締めくくったヒルダがふふっと無邪気な笑いをもらした。
その様子に二十代という自分と同世代の女性の姿を見たようでフィリーネの心は浮上した。
しかし破顔したままさらりと述べられたヒルダの次の言葉にフィリーネの心は宙に浮いたまま凍り付き停止せざる負えなくなる。
「もしかしたらミュラー元帥もそんな男性の枠に入ってしまうかもしれませんよ?」
「そ…れ…は…」
氷結した心は瞬く間に発声器官を犯し、凍気が脳にまで達するのに要した時間は僅か数秒に満たない。思考までも凍らせたフィリーネはそれだけ声に出すのがやっとだった。
彼女はこれまでミュラーとの関係を隠したいと思ったことは一切なかった。別に疾しいことをしているわけでもないのだからそれは当然のことである。それでも将来を約した現在でさえ依然消えない気掛かりとして、お互いがつい数年前まで敵対関係にあり、あまつさえ自分は当時瓦解したばかりの同盟を捨てて革命軍に加わったという過去がある。
それにしても、皇太后は知っているというのか。自分とミュラーとの関係を。
一体何処から知れたのか。
それがまずフィリーネの脳裏を駆け巡った。
だが彼女もそうだが相手のミュラーもおそらくお互いの関係を隠したいとは微塵も思ってないはずである。今まであえて聞いたこともなかったが、何故ならそれは普段の彼の言動からも暗黙の了解として伺えていたからだ。例えば彼は二人連れ立って外出するのを厭わない。自分との予定が先約しているときは何をおいてもそちらを優先してくれる。職務上全てがそうとは言えないがそれでも彼のその努力は称賛に価しても良いだろう。
だからフィリーネはこれまであえて誰かがミュラーとの関係を指摘するという事態を意識下に置いたことはなかった。その点では無防備だった。むしろ知れても構わないと思っていたのかもしれない。それによくよく考えてみれば、今までその事実を知り得るごく少数の人間以外の誰の口の端にも上らないというのも変な話ではないか。
ある意味これは予測された事態であるともいえる。
だが、相手が帝国の頂点とも云える皇太后では話が違ってくるだろうことは容易だ。
避けたくとも避けられない現実の壁が漸く目の前にその姿を現すのをフィリーネは実感せずにはいられなかった。



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