おわるものU (1)





ナイトハルト・ミュラーが皇帝アレクサンデルと皇太后ヒルデガルドに私的謁見を申し出、参内が叶ったのは年が明けてすぐのことだった。
その日は朝から快晴であったが、前夜から朝方まで降り続いた雪の影響で地上は一面の銀世界と化していた。

地上車<ランドカー>から降りたミュラーは陽の光を受けて乱反射する世界に眩しそうに目を細めた。
狭まった視界の先にこれから自らが訪れる皇宮の巨大な建物がそびえ立つ。
帝国元帥を誇る彼にとってみれば、皇宮を訪れることなど本来なら何ということではない。しかし今日は違った。
故ヤン・ウェンリーをして良将と言わしめたこの帝国元帥は、まるで初めて戦場に出る新兵のように恐怖と希望に心を震わせ、ともすれば身体の外に出てしまいそうになる感情を抑えるのに躍起になっていた。
皇宮の玄関にくぐると皇太后付きであろう女官が謁見場まで先に立って案内してくれるという。
それに付き従い宮殿内に足を踏み入れると、その心身になじんだ筈の内部の風景は何故か知らない場所のように感じられた。足に伝わる床の硬い感触も、そこかしこにそびえ立つ宮殿を支える柱も、窓も、まるで初めて訪れる場所のように新鮮だった。もっといえば、あまりにも新鮮すぎて、自分が全くの部外者のような錯覚さえ覚えた。
途中、親衛隊長であるギュンター・キスリングとすれ違い敬礼をされた。キスリングはしかしこの職務に忠実な男にしては珍しく意味ありげな視線を送ってきたが、ミュラーには答礼で応えるのがやっとだった。
キスリングは自分とフィリーネの関係をおそらく感づいている。1年以上前になるが、そもそもそういった話題を最初に振ってきたのは先方だった。その時はミュラー自身もフィリーネを特別な女性として意識しているつもりはなかった。だからあえて話題の拡大は避けたように記憶している。その後も双方の間でこの件に関する直接的な話題は出てはいない。だがミュラーは本能的に確信する。
キスリングは知っている。
更には今日こうして参内した目的も薄々は感づいているのだろう。すれ違った黄玉の瞳がそう語っていた。
果たして彼が次に自分と私的に顔を合わせた時に今日のことを何と切り出してくるのか。それともあえて切り出さないのか。
それにしてもそんなことを考えてしまうあたり、極度の緊張を実感しているにも関わらずまだ心に余裕があるということだろうか。
遠ざかる赤銅色を肩越しに盗み見ながら、ミュラーは胸中で苦笑した。

謁見の場にセッティングされた応接室への扉が開かれると、そこには親子仲睦まじく戯れる皇帝と皇太后の姿があった。
親子の背景には銀世界で彩られた窓外が広がり、親子の暖かさと窓外の寒気に寄る冷たさが見事なコントラストを描き出し、ミュラーはその天然の美しさに感動を覚えた。
「あ、ミュラー!」
皇帝アレクがまだまだ覚束ないよちよち歩きでミュラーの眼前にやって来ると無言で抱っこをせがむ仕草をした。
これは何もミュラーに限ったことではなく、皇帝アレクは他の将帥たちにも同じ要求を毎回のようにねだる。
父親である先帝ラインハルトから受け継いだDNAの成せる技なのか。それは今は誰に知り得ることでもなかったが、父親譲りの美しく愛らしい天使のような容貌を持つアレクにそうとねだられれば答えは一つしかないであろうことはどの将帥にとっても同じことである。
ミュラーはアレクの要求にいとも簡単に応えてやった。
(いつか自分も我が子をこうして抱くことが出来るのだろうか)
幼い皇帝の身体を抱き上げながらミュラーは何とはなしに思った。
今のミュラーにとって我が子の母親であってほしいと望む存在は一人しかない。そしてその唯一人の相手と結ばれるべく今日は私的に謁見を求めた上で皇宮を訪れた。
「ミュラー?」
そんなミュラーの胸中を無意識に察したのか、胸の位置まで抱え上げたアレクが覗き込むようにちょこんと傾げる。
「は…どうかされましたか?いっ…」
両頬に突如痛みが走る。だがミュラーは反射的に飛び出そうになった言葉を己の意志で飲み込んだ。不敬罪にあたるかもしれなかったからである。
皇帝アレクの小さな手がおもむろにミュラーの両頬を掴んだからだ。
「アレク!なんてことを…」
思いもよらぬ息子の行動に母親である皇太后ヒルデガルドが駆け寄ってきた。声には驚きと僅かばかりの怒気が含まれていた。
だが皇帝は両手を離しはしない。
「おやめなさい」
慌てた皇太后がミュラーの腕の中から息子を引き離しにかかるが、アレクの両手の力は止まることを知らない。
「だってぇ」
ミュラーの両頬に手を掛けたまま皇帝がごねた。同時に掴まれた両頬の皮膚が伸びる。
「へいか…」
さすがに痛みの限界を感じたミュラーが声を上げると、皇帝は静かに手を離した。
「恐れ入ります」
痛みで顔をしかめながらも胸の中の皇帝に礼を取ると幼帝はぷうと膨れた。
「ミュラー…こわい…」
「は?」
「今日はこわい。いつも優しいのに…こわい」
「陛下…」
ミュラーは言葉を飲み込んだ。絶句したといってもいいのかもしれない。
それが本当だとしたら何故なのかは分かっている。おそらく先刻から自分自身でも自覚する緊張に寄るものだ。しかしいくら相手が皇帝であるからとはいえ正直に理由を述べてしまうのは何とはなしに憚られた。そもそも幼い皇帝にその理由を説明しても理解してもらえるのかどうか。
どうしたものかと言葉がないまま胸の中のアレクと正面切って向かい合っていたところに助け舟が出た。
「それはミュラー元帥が大切なお話をしに来られたからですよ、陛下」
皇太后ヒルデガルドだ。
言いながらミュラーの腕の中のアレクに手を差し伸べると、皇帝は当然であるというようにヒルダの腕の中へと移動していった。
「皇太后陛下…」
幼児一人分の面積が空白になってしまった両腕と胸に冷たい物寂しさを感じながらもミュラーは砂色の瞳を丸くする。
「そうでありましょう?ミュラー元帥」
ヒルダのブルーグリーンの瞳が細められた。
どうやら皇太后陛下は自分が私的謁見を申し出た理由を察しておられるのではなかろうか。
柔らかなブルーグリーンが放つ光は、ミュラーにそんな想像をさせるに充分たる輝きを湛えていた。


長らくお待たせいたしました。約半年ぶりの長編更新です。
しかしながら、あー!と思いながらの(1)終了です。予定ではもっと長くなるはずがどうにもこれ以上続けようにも続きませんでした(汗)
この後のエピソードは次回か次々回、つまり(2)か(3)になります。

←BACK/TOP/NEXT→