おわるもの T (3) 







それは全くの偶然に過ぎなかった。
今年もあと1ヶ月で終わろうというこの日、フィリーネはたまたま所用でハイネセンポリスの軍用宙港を訪れた。
そこは大勢の人で溢れていた。
ここで初めて彼女は、今日が捕虜となっていた者達の帰還日だと気づいた。
毎回のことながら、こういう日は決して狭くはない宙港も出迎えの人やら報道関係者やらでごった返す。
正直、訪れるタイミングを間違えたと思った。
これでは行きも帰りも人と人の隙間を縫うようにして歩かねばなるまい。
しかし、幸いなことに帰還兵達は未だ姿は見せてないようである。
「早めに切り上げるとするか」
独りごちながら、なるべく人の少ないところを狙って1歩を踏み出した瞬間、歓声が沸き上がった。
帰還兵達がゲートから続々と出てきたのである。
しまったと思ったときは遅かった。
見る間に広いホールは更なる人で埋め尽くされ、彼女は瞬く間に人混みの一員となってしまった。
これ以上巻き込まれては堪らないと、何とか目的地へ辿り着くべく歩を進めようとした。
その刹那。
「フィリーネ!」
名を呼ばれた。
無意識に肩がビクリと動き、身体が硬直した。
記憶の片隅にある声と似ていたからだ。
まさかと思った。
そんなはずはない、あるわけがないと思った。
瞬間、日差しの中で笑う遠い日の青年が鮮明に蘇る。
フィリーネは僅かに天を仰ぎ、両目を閉じた。
この声の主は本当に彼なのだろうか。
彼女は、恐る恐る振り返る。
そこには彼がいた。
フィリーネの視線の先に7年の時を経て、スラリとした高い背にくすんだ金髪を持つ青年が立っていた。
7年という時間のなせる技か、それとも長期に渡る虜囚生活のせいなのか、顔からは余分な肉がそぎ落とされ頬からアゴにかけてのラインがシャープになった。
その容貌は、立派な男の顔といっても過言ではないだろう。
だがまぎれもない彼が立っていた。
「アル・・・フレート」
いったいどれくらい振りだろう青年の名がフィリーネの口をついて出た。
彼女の右手が無意識に己の喉元より若干下の部分を鷲づかみにした。
厚い軍服の上からではほとんど手応えを感じられないそれは、砂色の瞳を持つ帝国元帥から彼女に捧げられた唯一の贈り物だった。
今、青年の長い腕がフィリーネを捕らえる。
彼女はまるで木偶人形のように彼の思うままにその腕の中に吸い込まれた。
「・・・・・・」
それは記憶の中に確かに存在するぬくもりだった。
間違いない、これはアルフレートなのだ。
フィリーネの中でこの帰還兵の存在が現実のものになる。
と同時に、走馬灯のように遠い日の思い出達が脳裏を掠めた。
だが、その刹那、まるでそれを打ち消すようにある面影が割って入った。
彼女は心の中で声にならない叫びを上げた。

ナイトハルト───── 






「閣下、ご自宅に到着しました」
ミュラーは運転手の声で目を覚ました。
どうやら軍務省から官舎までの僅かばかりの時間に睡魔に襲われたようだ。
短いまどろみの中で何か夢を見たような気もするが、思い出せなかった。
車外に視線を移せば、昼過ぎからの本格的な降雪を受けて官舎も白一色になっていた。
外の寒さを想像し、多少げんなりしながらも運転手に礼を述べ、ランドカーを降り自宅官舎に入る。
まだ抜けきらない眠気を感じながら、電気を付け軍服をハンガーに掛けた。
すっかり冷え切っている部屋を暖めようとファンヒーターのスイッチを入れたとき、視線の先にカレンダーが飛び込んできた。そこで、今年も残すところ半月を切ったことに今更ながら気づいた。日々、そんなことは嫌が応にも確認出来てる筈なのに可笑しいことだと一人笑いが漏れた。
開けっ放しになっていたカーテンを閉めようと窓辺に近寄ったとき、窓外の雪景色が彼の瞳に飛び込んできた。
(ハイネセンも降っているのだろうか)
当然のようにミュラーの脳裏にフィリーネの顔が浮かんだ。
彼女とはこの半月ほど連絡を取っていない。
最後に連絡を取り合ったのはいつだったかと考え、それが奇しくも帰還兵のハイネセン到着予定日の前日だったことに思い当たった。
その時も、それ以前も、最後に会って以来の二人のやり取りはそれまで通りのものだった。この間、お互いを見ての会話はなかったが、高速通信を利用したメールの文面からも特に変わったことはないように思われた。
アルフレートとのことが気にならないわけではなかったが、あえて話題に乗せるのは避けたかったし、己自身との約束を反故にするようで嫌だった。
だから、その決心が鈍りそうな時は意識して仕事に忙殺されるようにしてきた。
それでカレンダーの日付が現実のものとして感じられたのが今日だというのだから、自分の心も案外弱いものなのかもしれない、とミュラーは苦笑を禁じ得ない。
と、いい加減にしなければとカーテンを閉め掛けた手が止まった。
官舎の前でランドカーらしきものが止まったからだ。
ここからはハッキリ確認出来ないが、ヘッドライトと覚しき光が銀世界を鮮やかに浮かび上がらせている。
時刻は既に夜の9時を廻っている。
こんな時間に自宅を訪問される約束はしていなかったはずだ。それともビッテンフェルト元帥辺りが、連絡なしに酒でも飲みに来たのだろうか。
だとしたら、インターホンを押される前に出た方がよいだろう。
いつだったか、酒に酔った彼が夜中に突然訪ねてきてインターホンを連打し、既に眠りについていたミュラーはひどい迷惑をこうむったことがある。
そんなことが脳裏をよぎり、小さく肩をすくめた。
ようやく暖まりつつある部屋を出るのには多少なりとも抵抗があったが、そんなことも言ってはいられないだろう。
彼は急いで玄関に向かうとドアを開けた。



外気のあまりの冷たさにミュラーは顔をしかめる。
せめて何か上着を羽織ってくれば良かったと、シャツ一枚の自分に後悔した。
ランドカーからは丁度人が降りてくるところだった。
降りしきる雪の中、ミュラーは目を細めてそれが誰であるか確認しようとした。
どうやらビッテンフェルトでないのは確実なようだ。
それよりももっと小柄な人物だというのは認識出来るが、ランドカーの光は既に無く、今や光源はミュラーのいる玄関を中心に照らしている小さな外灯のみ。
判別することは容易ではなかった。
しかし、その人物が特定出来たとき彼は決して小さくはない驚愕の声をその名と共に口に出すことになった。
ミュラーの砂色の瞳が見開かれる。
「フィリーネ!?」
フィリーネと呼ばれた人物は彼の声が耳に届くと同時にピタと立ち止まった。
二人の間に沈黙の神が舞い降りる。
空から降下続ける白い結晶の真ん中に身をさらす彼女の姿は、ミュラーの眼にはひどく美しくもあり、痛々しくも映った。
彼は魅せられたかのようにゆっくりと歩き出した。
決して遠くはない玄関から門扉までを彼は確実に彼女の下へと進んだ。
そして、あと少しで彼女に手が届くと両腕を伸ばしかけたその時、フィリーネが彼の胸に飛び込んできた。
先を越され行き場を失ったミュラーの両腕は空中で静止した。
両腕を宙に浮かせたままフィリーネを見下ろしたが、その表情は見えない。
だが、ミュラーは今までの彼女との抱擁の中で、こんな彼女を経験したことがなかった。
まるで彼の体内にその全身を埋め込むかのような力強さで胸に顔を埋めている。
一体、何が起こっているのか。
おそらくそれはアルフレートも関係しているのだろうとは容易に予測がつく。
ならば、それは自分にとって何をもたらそうとしているのか。
肯定か、否定か。
しかし、どちらにしても、この天候の中いつまでもここに立っているわけにもいくまい。
この状況でそんなことを冷静に考えてしまう自分に内心苦笑しながらもミュラーは静かに彼女の名を呼んだ。
「フィリーネ?」
「・・・・・・」
だが彼女はそれには答えず、表情さえ見せない。
「フィリーネ?」
「・・・・・・」
もう一度呼んでみるがそれでも彼女から返答を聞かれることはなかった。
「こんな所に立ってたら風邪を引いてしまう」
そう言ってはみるが、案の定彼女は離れないし、一言も発しない。
ただ強く抱きつき続けているだけだ。
降り止まない雪は弱くなるどころか、その一つ一つの塊を大きくしつつある。
そんな彼女の様子にどうしたものかとミュラーが思案し出した頃、彼の胸の辺りが熱を持った。
それは最初ジワリとシャツを通して彼の肌に伝わり、次から次へと熱い新たな点をいくつも生み出し広げていった。
「!?」
それがフィリーネの涙であると気づいた時ミュラーは、それまで空中で放置され白い花びらの受け皿となっていた両手で彼女の背と頭部を包んだ。
「とにかく中に入らないと。このままでは二人とも雪だるまになってしまう」
これは下手な冗談だろうかと思いつつもミュラーは優しく諭す。
しかし、それでもフィリーネは彼にしがみついたまま何の反応も返さない。
「フィリーネ」
「・・・・・・」
そんな問答が更に数回繰り返された。
ミュラーは一向に変化がない状況にどうしたものかと逡巡する。
体温は冬の寒さと雪の冷たさによって確実に奪われ続けている。
本当にこのままでは雪だるまどころか氷の彫像にもなりかねない。
「フィリーネ、このままでは二人とも風邪で寝込んで周囲にどれだけ迷惑をかけることになるか・・・。だからせめて中に入ろう」
もっと気の利いた言葉もあるだろうに、職務に重きを置いたこんな言い方しか出来ない自分にミュラーは多少の落胆を禁じ得なかった。
だが、これは意外な効果をもたらしたようで、結果このどうしようもない状況を好転させるきっかけとなった。
漸くフィリーネが今日初めての言葉を発したのだ。
「やだ・・・」
彼の胸の中、涙声で小さく答える彼女はまるで言うことを聞かない子供のように思えた。
ミュラーは内心でほとほと困り果てながらも小さく溜息をつくと、やれやれと言わんばかりに少しだけ腰を折り曲げた。そして、そのまま右手をフィリーネの膝裏辺りに持っていくと、よいしょと抱え上げる。
ひょっとしたら抵抗されるのではないかという不安がなきにしもあらずだったが、彼女は存外あっさりとミュラーに従い、彼の背できつく結ばれた両腕もそれが自然であるかのごとく彼の首に移動せられた。
彼女が落ち着きを取り戻せば、きっと、何事かが語られるだろう。
ひょっとしたら、それは自分に絶望をもたらすものなのかもしれない。
そんな懸念がミュラーの脳裏を掠めもしたが、今はとにかく自然の驚異から自分達の身を守ることに専念することにした。
純白の雪によって洗い清められた二人のこの冷たい身体がそのままお互いの心の距離になってしまうような、そんな錯覚に浸食されつつある己にかぶりを振りつつミュラーは玄関のドアを固く閉じた。


自分でも驚きの前編(汗)
当初考えていた話の順序を入れ替えたら、こうなってしまいました。

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