おわるもの T (2)







事の始まりを見たときミュラーは全身が焼き尽くされるような錯覚を覚えずにはいられなかった。

それは普段は特に注目することなどない書類。
軍務尚書である自分が裁可だけ下せばそれで通ってしまう紙の束。
そういった類のものだった。

「旧同盟軍帰還者リスト」
戦争が終結して今まで幾度となくミュラーの元に上がってきた同名の書類の何番目であろうか。読んで字のごとく、先の戦時中に帝国の捕虜となった同盟軍人のリストである。
戦時は「捕虜交換式」という名目の下、お互いの虜囚をトレードする形で行われていた捕虜の故郷への帰還だった。しかし終戦後はそんな名目も不要となり、徐々にではあるが確実に互いの合意の下に捕虜と呼ばれた人々の帰還は果たされている。

何故自分は見てしまったのだろうか。
ミュラーは後悔した。
いつもは書類の先頭に添付された彼の裁可を求める伺い書きにサインを施すのみなのに。
その日上げられたリストの、何とはなしにめくった中程にそれは存在していた。
「アルフレート・フォン・フェーリンガー」
知った人物ではなかったが、その名には聞き覚えがあった。
今ではミュラーの唯一の人となったフィリーネが1年前に慟哭の中で呼んだ名の持ち主。
彼女が彼の死の報を耳にして6年の時を経て尚、忘れうることが出来なかった人物。
彼女を手に入れるべく彼の名を己の言の葉に乗せたこともあった。
一瞬ミュラーは単なる人違いかと思った。いや、思いたかった。
同姓同名の全くの別人。
確かにその可能性が全くないわけではなかった。
これまで夥しい数の死者と行方不明者を生んできた戦いの中で同じ名を持つ人物がどれほどいたことか。それを計り知ることは極めて困難に近いことだろう。ましてアルフレートという名は決して珍しくはない。
だが、フォン・フェーリンガーという姓ではどうか。アルフレート・フォン・フェーリンガーという姓名ではどうか。多くの者が死を賜る戦場の中で捕虜となり辺境の収容所で終戦を迎えた者の列の中ではどうか。
そうではない確率もそうである確率も等しく決してゼロではない。
だがミュラーの直感は彼にそれがフィリーネのアルフレートであることを告げて止まなかった。
知らず分厚い書類の束の薄い一片を掴むミュラーの手が震えた。
ミュラーは己の視線を走らせる。
その人物を語るにはあまりにも少なすぎる僅か数行で記された略歴に。
そこには捕虜となった年と戦役とが簡潔に、だがハッキリと記されていた。
「旧帝国暦487年・アムリッツァ戦役」
と。
何という運命のいたずらか。
平和の世となり、己らの歩くべき道筋も定まり始めた今、舞い込んできた事実。
捕虜の帰還は今に始まったことではない。既に終戦した年の暮れには両陣営の第一陣が故郷の地を踏んでいる。
以降、それはこれまでも何度となく繰り返されてきた。
捕虜のほとんどは望郷の思いを抱え自分の番が巡ってくるのを心待ちにしているという。無論、中には自らの意志で敵対していた陣営に残る者も確かに存在するのだが、それでもほとんどの者にとって捕虜という辱めにも似た境遇から開放される喜びは計り知れないものだろう。
ミュラーの知る限り、晴れて故郷に帰還した者は辿り着いた地で悲喜こもごものドラマを繰り広げていた。それが例え歓迎されない物だったとしても亡国に帰り着いた彼らの表情は一様に母親の懐に戻った子供のそれを連想させるものであった。
では、このアルフレート・フォン・フェーリンガーという人物はどうなのだろう。
この書類を見る限り彼は帰国を望んでいる。
彼は虜囚となってからの7年、何を思い、誰を思って生き抜いてきたのだろうか。
家族のことだろうか。友人のことだろうか。
それとも、かつて恋した金の髪と青い瞳を持つ愛しい少女のことなのだろうか。

ミュラーは過去に一度だけ、アルフレートらしき人物の写真と出会う機会があった。
それは今年の夏の休暇の際に初めて訪れたフィリーネの官舎でのこと。
およそ女性の部屋とは思えない簡素な部屋の一角に設えられた本棚の、その隅にひっそりと鎮座していたアナログ式のアルバム。
これは何かというミュラーの問いに彼女は、昔の写真をまとめた物だと答えた。
データでも構わなかったのだが何となく書籍形式にしたとも、彼女は付け加えていた。
彼は素直に見たいという願望を伝え、彼女は多少恥ずかしがりながらもそれを受けた。
ミュラーが持ち主の許可を得て、その瞳を連想させる青色の表紙を開いてみると、まだまだ幼さが残るフィリーネがそこにはいた。
彼が知るべくもない彼女が笑っていた。
彼女は昔だと言ったが、それは本人が十代の時分の写真達であろうことは明白だった。
ある一枚には士官学校のものだと思われる制服を着たフィリーネと彼女より更に幼いユリアン・ミンツの姿。
また別の一枚には何に困っているのか、眉をへの字に曲げて頭を掻いている私服姿の在りし日のヤン・ウェンリー。
そして、士官学校内の庭で撮られたと思われるヤン夫人とフィリーネの2ショット等々。
その思い出の詰まったアルバムには、ミュラーの記憶にある人物もそうでない人物も、彩り豊かな表情をさせながら、何処か幸福の匂いを漂わせつつ所狭しと収まっているのだった。
自分の知らないフィリーネを少しでも近くに感じようと目を細めながら見入るミュラーはやがて気づく。
その中のいくつかに彼女と親しげに並んで収まる若い男性の存在に。
2人きりの所謂2ショットではないのだが、その青年の隣には必ずといっていいほど彼女がいた。
背の高いくすんだ金髪の青年。年の頃は十九、二十歳<ハタチ>といったところか。
云ってしまえば単なる平面の光沢紙でしかないそこからさえも伝わる彼と彼女の心情的距離は、近い。
この青年が彼女の恋した人物だと推察するのは至極容易なことだった。
この時、あえてミュラーは彼についてフィリーネに確認するような愚行は起こさなかった。
気にならないと云ったら嘘になるが、だからといって聞いたとしても今更どうしようもない過去のことのように思えたからだ。

「還ってくるのか・・・」
つい数ヶ月前の残暑漂う日の出来事を思い浮かべミュラーは独りごちた。
書類によれば、帰還者達は一月後には故郷であるハイネセンの地を踏むことになるはずである。
ミュラーは我知らず、己の砂色の双眸を閉じた。
瞼の裏にフィリーネの持つ二つの印象的な青い残像がちらつき、その脳裏では自分の前で微笑む彼女と昨年アルフレートを思って泣きじゃくった彼女とが交互に浮かんで消えていった。
果たして、この事実を知ったとき彼女はどうするのだろう。
そこまで思い描いたミュラーは、避けては通れないあることに気づいた。
当のフィリーネがこの翌日、同盟軍の使者として軍務省に尚書である自分を訪ねて来るのだ。
その目的は重要書類の受け渡し。
それというのが今ミュラーが手にしている「帰還者リスト」だ。
あろうことか彼は、直接彼女に件のリストを手渡さねばならなかったのだ。
正直なところ彼は、この約束<アポイント>がスケジュールに組み込まれた時、年甲斐もなく心が弾んだ。
公務とはいえ、想って止まない彼女と会うことが出来るのだから、それは当然といえば当然のことなのかも知れなかった。
だが、今はこの上なく気が重い。
この現実を知ってしまった以上、自分はどんな顔で彼女を迎えればいいのか。
勿論、この書類がフィリーネの手に因って開封されることは決してない。あってはならないことだ。
しかし、遠からず彼女は知ることになるだろう。
かつて恋人だった青年が生きていて、近い将来ハイネセンの地に降り立つことを。
ミュラーの中で急速に負の感情が膨れ上がる。
「くそっ!」
己の両手を渾身の力でもって執務机に叩きつけた。
深みのあるくぐもった高級木材特有の悲鳴が室内に重く鳴り響く。
それはやり場のない怒りにも似た感情だった。
彼はその矛先を向ける相手を見つけ出すことが出来なかった。
強いて向けるなら、このような運命の流れを己に与えたもうた神にであるべきなのか。
見開かれた砂色の視線は机上に鎮座するリストに注がれている。
果たして彼女は、フィリーネはこの現実をどう受け止めるのか。
アルフレートなる人物は彼女に関してどう動くのか。
どちらにしても、この件に関しては何の選択権も決定権も自分にはありはしないだろう。
黙って事の成り行きを見守るしかない。
むしろ自分は、事が終止符を打つまで何も出来はしないし、すべきではない。
自分は関係者ではあっても当事者ではないのだから。
はけ口のない怒りをその身に抱えながら、ミュラーの中の冷静な部分がそう告げていた。
彼は、この事実を3人の中で誰よりも早く知り得てしまった自分を呪うしかなかった。





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