おわるもの T (1)







帝都フェザーン。帝国軍軍務省軍務尚書執務室。
フィリーネが我に返ったとき彼女はその部屋の主でもあり己の婚約者でもあるミュラーの腕の中にいた。
「!?」
黒地に銀糸の豪奢な軍服の中で青い双眸が見開かれる。
彼女には一瞬、自分に今起こっていることが何なのか理解することが出来なかった。

フィリーネは今年の夏にミュラーから求婚され、それを受諾した。
あれから2ヶ月の時が流れようとしていた。
その間、2人の間で現実として進展した事態はほとんど皆無に近い。
強いていえばミュラーはミッターマイヤーに、フィリーネはユリアンとカリンそしてフレデリカにその成り行きを報告したというとこだろうか。それと、来年か再来年あたりをメドに正式に結婚にこぎ着けようかというお互いの意思を確認したこと。
それは2人が一緒になるために片付けねばならない様々な問題を鑑みての考慮の結果だった。
だから2人の生活はこの2ヶ月で劇的に変化したということはない。これまでどおり職務の合間を縫っての男女の付き合いが「恋人」としてではなく「婚約者」として続いているというだけだった。
今回もフィリーネは3日ほど前に仕事上の理由で帝都フェザーンを訪れた。
ミュラーとは初日の夜に会い、決して長くはない2人きりの時間を楽しんだ。
故に今日は公人としてではあっても二日ぶりの再会ということになる。

フィリーネは軍務尚書との約束の時間より少し早めに軍務省に到着した。
先客が長引いているのか約束の時間を10分ほど過ぎた頃、彼女の元に軍務省付の帝国軍士官が現れた。
そのまだ年若い帝国軍士官は敬礼をすると時間の遅れを詫び、彼女を執務室に案内した。
執務室の扉が開かれると帝国軍軍務尚書であるナイトハルト・ミュラーが待っていた。
フィリーネが敬礼をするとミュラーも敬礼を返す。
そして、それが合図とばかりに彼の部下は執務室を辞すると、室内は2人きりになった。
「お元気そうですね」
「はい、おかげさまで。ミュラー元帥も」
「ええ。相変わらず仕事に忙殺されてますが」
「そのようですね」
穏やかに微笑みながらも違う旗を仰ぐ者同士の挨拶を交わし合う。
何も知らない他者が見れば、まさかこの2人が親密な関係であるなど思いもしないだろう。
軍服を着ている以上、私生活は持ち込まない。
これは2人が友人として親好を深め合うようになってから今まで変わることのない暗黙のルールとなっていた。
ミュラーがソファを勧めフィリーネがそれに倣う。
二言三言差し障りのない会話を交わしていると、まだ少年と云うには幾分幼いかと思われる従卒がコーヒーを運んできた。
高級感に満ちた香気が室内に漂った。
「どうぞ」
「はい、いただきます」
しばし入れ立ての深い味わいを堪能した後、ミュラーが書類の入った分厚い封筒をフィリーネの前に差し出した。
今回これを受け取ることが彼女の軍務省を訪れた目的であったので、フィリーネはそれを受け取ると礼を言い立ち上がった。
本当はもう少しゆっくりと軍務尚書としてのミュラーとの会話も楽しんでみたかったのだがそうも云ってはいられない。この後のスケジュールも詰まっている。
辞去するために敬礼をしようとした。
その時だった。
フィリーネがミュラーに引き寄せられるように抱き締められたのは。
決して豪奢とは云えないが清潔な床に音もなく黒いベレー帽が落ちる。
むき出しになった金色の頭部にミュラーの大きな右手が添えられ、まるで全身をくるむように彼女は抱き締められた。
今さっき受け取ったばかりの封筒がドサリと重たい音を発し床に尻餅をついた。
数瞬真っ白になった頭が色を持ち始めたとき彼女は、いつもの彼らしくない行動に激しく困惑した。
「ナ・・・」
思わず出かかった彼の名を呼ぶ声は彼の両腕に込められた力強さに出口を失った。
苦しい       。 
今までこんなに強く彼に抱きしめられたことがあっただろうか。
それより、今まで彼が職務と私生活を混同したことがあっただろうか。少なくともフィリーネ側が同盟軍の制服を着用している際にはそんなことはなかった、と記憶している。
公と私はお互いにハッキリと分けていたはずである。
これまでも仕事の都合で軍務省を訪れたことは何回かあった。軍務尚書であるミュラーにも何度も会っているし、もちろんこの執務室も訪れたことはある。しかしここでの2人のやり取りは会話も全て職務上必要なことのみだった。それは友人であった期間は当然のことながら、正式に恋人として付き合い始めた後も変わることがなかった。
それなのに・・・。
その時、わずかに触れ合う頬と頬から、ミュラーの静かだが激情にも似た感情が流れ込んでくるのがわかった。
何かがあった。
会わなかったわずかこの2日の間に何かがあったのだ。
目には見えない感情のうねりの中からフィリーネはそれを感じ取った。
そうだ。そうでなければ、彼はこのような行動に出ない。
確信めいた思いがフィリーネの脳裏をよぎった。
では、それは一体何だというのか。
「ナイト・・・ハルト・・・?」
搾り出すようにしてミュラーの名を呼ぶが彼は答えない。
ただひたすら何事かに耐えるようにフィリーネを掻き抱いている。
それにしても彼の腕の中の何と心地良いことか。
それは、流れ込んでくる理解不能の彼の感情と相まって見事なまでの充足感を彼女にもたらしてくれている。
甘美という表現はこのようなときに使うのではないか。
ふと、そんなことを頭の隅で思いながらフィリーネは許される限り永遠にこのまま身を委ねたい思いに駆られた。しかし、わずかに残っていた彼女の理性がそれを許すはずはない。
時と場所を考えなければならないとは誰の言葉だったか。
今は自分もミュラーも制服であり、ここは軍務省という帝国中枢の一機関である。
公と私は極力分けなければならない。特に恋愛毎に関しては。
少なくともフィリーネはそう考えていた。
だから彼女は自分を包む力強さに対抗するように、力の限りを両腕に込めミュラーを引きはがしにかかった。彼女自身後ろ髪を引かれるような思いと、多少ではない心の痛みが伴ったが構ってはいられなかった。
「ミュラー元帥、やめてください」
小さいが明確な意思を持った言葉がフィリーネの口から発せられ、その行動は成功することとなった。
彼女を離すまいとするかのように閉じられていた腕の力が緩むと、思いの外簡単に彼は彼女をその拘束から解放した。
ミュラーはフィリーネの公人としての言葉に我に返った。
はっとして彼女を見ると、いつもは真っ直ぐにこちらを見つめる青い瞳が、まるで痛みに耐えるかのように斜め下に存在する床の一点を見つめていた。
「やめてください・・・せめてここでは・・・」
その言葉がミュラーの耳に届いたとき、彼は己を恥じた。
感情の赴くまま彼女を我が身に包んだ自分を愚かに思った。
「フィ・・・いや、少佐。申し訳ありませんでした」
自身の感情をその口から出すまいとするかのように彼は右手で口元を覆いながらフィリーネに謝罪した。
「いえ・・・」
視線を外したままフィリーネはミュラーの謝罪を短く受け入れる。

わずかの時間、2人は重くその場に佇んだ。
双方の口からは何の言葉も発せられない。
出会ってこの方、こういう種類の静けさを2人は知らなかった。
何とも居心地が悪い空間であるということは彼らがお互いに感じるところである。
それでもフィリーネは聞かねばならないと思った。
「何か、あったのですか?」
沈黙を破るように思い切って口を開いた。
「・・・・・」
ミュラーは答えない。
「元帥」
詰め寄るような口調のフィリーネ。
ミュラーの視線の先の彼女は先ほどとは違い真っ直ぐにこちらを見上げている。
こんなとき彼は彼女の瞳に圧倒される自分を禁じ得ない。
その証拠に今この時、自身の本音を全てではないにしても言おうとしてしまっている自分がここに存在する。
彼は迷った。
今の自分の行動を彼女にどう説明するべきか。
何故なら彼はこの時、正確には前日に、ある決断をしていたからだ。
だから、全てを彼女の前に吐露してしまいそうになる自分を抑えなければならなかった。
彼は右の人差し指で頬を数回掻き、視線を上方に向けた。
それは自分が予測する「こういう状況の自分の行動」を演技したものだった。
「何かあったとすれば、自分の理性に負けてしまった・・・というところです」
「理性に負けた!?」
鋭いといってもいい瞳でミュラーを見据えていた青い瞳が驚きに丸くなった。
彼は内心で胸をなで下ろした。
とりあえず「演技」は成功したようだった。
「はい」
あっさりと己の言葉を肯定する彼をフィリーネは覗き込む。
「それは本当ですか?」
それでも彼女は何となく釈然としないものを感じている。
それはそれで嘘ではないのだろうけど、やはり何処かスッキリしない回答なのだ。
では、彼から感じた不可思議な感情のうねりは何なのか。
単にフィリーネへの想いに負け抱き締めたことで解決されるべきものなのだろうか。
彼が彼女を愛してくれていることに間違いはないだろう。それは彼女も充分過ぎるほど分かっている。そうした愛情表現というべき行為も今まで数え切れないほど2人の間では交わされている。
しかし今回の彼の行動の起因は、今までとは違う類の所から由来しているように彼女には思えて仕方がないのだ。
だから、彼女は確認した。
それに対してのミュラーの返答は、
「本当です」
紛う事なき肯定。その言葉には断固とした響きが交じっていた。
これ以上彼に釈明を求めても何も返っては来ないのではないか。
そんなことを予感させる彼の口調だった。
ミュラーはミュラーで、事の起因と己の本心をフィリーネに隠すのに必死だった。
しかし今回ばかりは全てを言葉に乗せるわけにはいかなかった。
それは何を置いてもそうするべきだと思案の末に自分自身が決断したことであるのだから。
そうしたにも関わらず、感情を先走らせ、それに身を委ねた自分の未熟さにはミュラー自身失笑を禁じ得ない。
確かにフィリーネの直感が予測したとおり、会えない2日間に彼女の知らないところで事態は静かにだが確実に大きく動いたのだ。いや、動くという兆候を見せたのだ。
それはナイトハルト・ミュラーという私人にとっては恐れを感じさせるのに充分なことだった。おそらく私人としてのフィリーネにも決して少なくはない衝撃を与えることになるだろう。

「至らないことをしました。許してください」
決して答えにはなってないだろうことをその身に実感しながらも、ミュラーはあえて事務口調で再度謝罪の言葉を述べた。
そこには断固とした思いが存在した。
正直、これ以上フィリーネに事の真実を追究されたくなかった。
彼女の瞳が青い光でもってミュラーの全てを照射するかのような錯覚を覚えた。
しかしこれだけは譲れなかった。
       
再びの沈黙が流れ、ミュラーが再度の演技の為に口を開きかけたその時、フィリーネが小さく息を吐いた。
「わかりました」
彼女はそう言うと落とした書類封筒を拾い上げ敬礼した。
「次のスケジュールが詰まってますので、本日はこれで失礼致します」
心に引っ掛かるものは多かったが、これ以上何か言っても砂色の瞳は何も語らないし、語ってもくれないだろう。
フィリーネはそう自分を納得させ、踵を返そうとした。
そして、ミュラーは答礼しながら、そんな彼女を黙って見送ろうとした。
が、やはりここでも彼は自分が考える「自身の未熟さ」を痛感せざる得なくなることになる。
「フィ・・・少佐!」
気づいたときには同盟軍少佐の半ば扉に向かって返しかけた腕を掴み、こちら側を振り向かせていたのだ。
砂色の瞳と青い瞳が見事に交錯する。
振り向かせたフィリーネはその瞳に軽い驚愕の色をたたえていた。
だがミュラーは構わなかった。
すかさず彼女の額に軽い接吻を落とす。
それでも、この青い瞳の少佐の形の良い唇に思わず口づけたく衝動は彼の本来持ち得る強靱な精神と努力によって何とか抑えた。もう一度抱き締めたい衝動にも激しく駆られたが、それもかろうじて押さえることが出来た。
彼はゆっくりと己が引き戻したフィリーネを開放してやった。
「ナイトハルト・・・」
彼女からミュラーの名が呼ばれたが、それはあえて無視した。
「また、こんな堅苦しい所ではない、自由な場所でお会いしましょう」
彼は笑んだ。
その笑みの何処から何処までが本物の笑みであるかなど今の彼には計りかねた。だが笑まなければ彼女を送り出してやれないような気がした。
「次の予定もあるでしょう。引き止めてしまってすまなかった」
そうとだけ言い静かに身体を反転させた。
「・・・・・・」
フィリーネに背を向けた彼はもう一言も発することはなかった。
彼女はその広い背を視界に収めながら、抱えた分厚い封筒を無意識に強く抱き締めた。
そして、後味の悪さのようなものを感じつつも執務室の扉に手を掛けるのだった。


思いの外長くなってしまった1本。
作品数を重ねる度に1回に入れる文章の量が長くなってるのは気のせいではありません(汗)

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