はじまるもの IV (2)







「元帥はずるいです」
薄暗がりの中フィリーネはミュラーに言葉を投げかけた。
「元帥の前にいると私は貴方の前に全て投げ出したくなってしまう」
ミュラーを見つめる青い瞳が彼には闇に灯る尊い光のように思えた。
「フィリーネ・・・」
「今だってこんなに後悔したことはないです」
「後悔?私とこうしていることですか?」
今夜、ミュラーとフィリーネは初めて一夜を共にする。
それはどちらからの誘いであったか。
今となってはミュラーもフィリーネも定かではない。
一つだけはっきりしていることは、どちらか一方の思いだけで今を迎えては決していないということだけだ。
フィリーネはミュラーにも分かるようにかぶりを振った。
「違います。私には・・・」
身体に無数の傷がある。
戦傷もあれば、士官学校時代に作った傷もあった。
それらは決して大きなものではないが、それでも小さく、あるいは薄く跡となって彼女の身体に刻まれている。
当時も今までも彼女はそれを気にしてなかったし、後悔もしてなかった。
だがミュラーという存在を意識し始めた時、それは彼女の中で小さくはない気がかりの一つとなった。
シャワーを浴びるとき、服を着替えるとき、鏡に自分の肌を映したとき、その都度彼女はため息をついた。
(こんな私を見たときに元帥はどう思うだろうか)
と。
それでも傷に対して後悔することは出来なかったし、することもなかった。
だからこそ、彼女のため息は大きくなった。
(醜い・・・)
ミュラーとのおそらく避けられないだろう「そのとき」を考えれば考えるほど彼女はそう思った。
今、フィリーネは知らず自分の全身を抱え込むように両腕を固く抱える。
そんな彼女をミュラーは後ろから優しく抱きしめた。
「醜い?でもそれは貴女が精一杯生きてきた証だ。誇りでもある」
フィリーネの耳元で囁くように彼は言葉を掛ける。
「誇り?」
「そう。それに、それがあるからこそ私の愛する貴女が今ここにいる」
その言葉にはっとして顔だけをこちら側に向けた彼女にミュラーは静かに短く口づけた。
「愛しいと思いこそすれ、決して醜いなどとは私は思わない」
フィリーネは暗がりの中であっても、彼の砂色の瞳に浮かぶ真実な想いがはっきりと見て取れるように思えた。
彼女の内から熱いものが込み上げてきて迷うことなく頬を濡らす。
「それにずるいのは貴女のほうですよ、フィリーネ。貴女は私の全てを変えていってしまうのですから」
ミュラーの双眸が柔らかく細められる。
フィリーネはたまらず身体ごと向き直り、ミュラーの胸に全身を埋めた。
「それでも、元帥はずるいんです」
彼女を抱き留めたミュラーの腕に力がこもり、その金色の髪に彼は顔を埋没させた。
「もう元帥はやめてください」
「はい」
「ナイトハルトと」
「はい・・・ナイトハルト」
躊躇うように呟くように含んだフィリーネの口から出た自分の名にミュラーは、己の理性がはじけ飛ぶのを感じるのであった。

どこかでけたたましく何かが鳴っている。
それが起床する時間を示す時計のアラームであると気づいたフィリーネは、いつもそうであるように手を伸ばしそれを停止させた。
そしてゆっくりと全身を起こすと、まるで上質な眠りから覚めたような自分を自覚した。
こんなに心身共に満ち足りて起床するのはいつ以来のことか。
そんなことを思いながらも、覚醒していく脳裏に昨夜の出来事が蘇る。
瞬間、反射的に傍らに視線を移した。
しかしそこには誰もいなかった。
一瞬、昨夜のミュラーとの出来事は夢だったのではないかと思えた。
が、わずかに残るもう一つの枕の窪みがそれが現実であったことを告げている。
ふと反対側に視線を移すとサイドテーブルに置かれたメモ用紙に走り書きを見つけた。
そこにはミュラーの手に因ると思われる文字で、早朝から会議があるので先に出るという旨の文章が綴られ、
(いつでも貴女を愛しています)
というメッセージが書き込まれていた。
彼が今此処にいないという現実に一抹の寂しさを感じながらもフィリーネは、その短い文章に込められた想いに胸が暖かくなるのを感じ、知らず知らずに笑みがこぼれた。
ひとしきり笑むと、ふと時計が目に入った。
今日の仕事に向かわねばならぬ時間が迫っていた。
慌てて手近にあった衣服を羽織りバスルームに向かった。
シャワーのコックをひねろうとして、何気に鏡に映った自分の姿に目がいた。
そこにはいつもと同じ自分の姿が映っていた。
フィリーネは、だが一カ所だけいつもと違う部分を見つけ、昨夜の出来事が夢ではなかったことを改めて実感する。
それは自分の肌にキレイに咲いた赤い小さな花々。
ミュラーが彼女に残した赤い刻印。
静かに指でなぞってみれば、その印はまるで昔からそこにあったように何の痛みも感じなければ、消えもしなかった。
「ナイトハルト・・・」
昨夜初めて呼んだ彼の名を呟くように口に出してみると、脳裏に砂色の瞳に優しげな微笑みを浮かべるミュラーの顔がよぎった。
暖かい何かが沸き起こり、それはこれでもかというくらい急速に大きく彼女の内面を満たしていく。
フィリーネは自分自身恥じらった。
ここには誰もいないと理解しながらも、そんな自分を取り繕うように彼女は慌てて普段より熱めに設定したシャワーを全身に浴び始めた。

「なんだ珍しいな。卿が時間ギリギリとは」
後ろから掛けられた声にミュラーの肩がビクリと動いた。
内心恐る恐る振り返るとそこにはビッテンフェルトが仁王立ちよろしく立っていた。
「ビッテンフェルト元帥。おはようございます」
いつものように笑みを浮かべて応対した彼は寝坊したと言い訳する。
「それもまた珍しいこともあるものだ」
「ええ、まあ・・・」
曖昧に頷いたものの、寝坊したのは本当のことだ。
昨夜ミュラーはフィリーネの滞在するホテルで彼女と一夜を共にした。
彼女の滞在するホテルは彼の官舎がある地区とは逆の方角だった。
だから、翌日出勤する際は早めに出なければと念頭に置いたつもりだった。
会議もあることだし、着た切り雀ではなるまいと一度官舎に戻ることも考慮に入れていた。
だが、彼もフィリーネ同様、昨夜は満ち足りた睡眠をむさぼってしまった。
朝目覚めてみれば予定していた起床時刻はとうに過ぎ去っていた。
慌ててベッドから跳ね起き、身支度を整える。
つい今まで傍らにあったフィリーネは未だスヤスヤと安らかな寝息を立てていた。
布団から少しだけ覗いた彼女の白い肩が、窓辺から薄く差し込む朝の光に浮かび上がり艶めかしかった。
ミュラーの脳裏で今の彼女と昨夜の彼女がオーバーラップする。
瞬く間によからぬ思いに駆られそうになる己を叱咤した。
そして、大きくかぶりを振りながら、目に付いたメモパッドに彼女へのメッセージを走り書きし部屋を後にしたのだった。
適当に捕まえたランドカーで官舎に戻ると、既に迎えの車は来ていた。
運転手に詫びを入れると、運転手は外から帰ってきたと覚しきミュラーに一瞬怪訝なな表情をしたがそんなことを構っている時間はなかった。
急いで自宅官舎のロックを開けると、新たに身支度を整え出勤した。
「さては卿、あの金髪美人と一緒だったのではないか!?」
ミュラーはビッテンフェルトの事実を突いた問いに我に返った。
ぎょっとしてオレンジ色の髪の僚友を見ると、逆に訳知り顔で覗き返された。
「それは・・・」
ミュラーは言い淀みながらも、内心で大きなため息をついた。
この猪のような元帥は、普段は鈍いくせに何故か自分達の事に関しては妙な感が働くらしい。
どうしたものかと困惑していると、幸いにもそこに首席元帥であるミッターマイヤーが現れた。
「何をしている。早く中に入れ。時間が迫ってるぞ」
ビッテンフェルトが早速ミッターマイヤーに自身の想像を披露する。
その話を聞くミッターマイヤーがちらりとミュラーに目線を送った。
彼らは昨夜偶然にも街で顔を合わせている。
こちらこそ訳知りなミッターマイヤーが小さく口の端を上げ笑んだのがミュラーには見て取れた。
(ここは元帥が何とかしてくれそうだ)
首席元帥の登場と無意識の援護にミュラーは感謝した。
彼は思わぬ援軍に目礼だけすると、さっさとその場を後にし議場に足を運ぶのだった。


<END>


ここの展開どうしようかと迷った挙げ句こうなりました。何を迷ったかって、どこまで書いていいのかです。結果は見ての通りですが、やはり自制心が働きました。表に出したければR-18はまずいだろうと(笑)しかもこの話、本来なら前半部分で区切ったほうが体裁がいいのに、その先にも進んでいます。前半だけでは短いかなと思った結果でした(汗)おかけでシリアスなのか何なのか分からない話になってますOrz

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