はじまるもの IV (1)







「それにしても驚きました」
「私もです」
そう言ってお互いを見つめたフィリーネとミュラーは、少しばかり遅い夕食を終えたところだ。
ほの明るいキャンドルだけで彩られたテーブルの上には食後のデザートとコーヒーが並んでいる。
「フラウ・ミッターマイヤーと貴女が顔見知りだったとは」
先ほどミッターマイヤー一家と遭遇することになった2人、特にミュラーは事の一部始終を聞いて驚きを隠せない様子だった。
自分がミッターマイヤー家に赴きフィリーネのことを告白した時にはもう既に、エヴァもフィリーネも顔を合わせていたとは。そしてフェリックスに至っては何の警戒もなしに彼女に懐いていた。
「でもまさか元帥夫人とそのご子息だなんて思いもしませんでした」
頷きながらもミュラーは先日のミッターマイヤーとの会話を思い出す。
(元帥は彼女を見てどう思っただろうか)
もし自分達がこの先の未来を目指すのであれば、この国の執政の頂点に位置する摂政皇太后ヒルデガルドの意見を求めねばなるまい。そして、それがどのような行程を経ようとも賛成を得ねば全てはそこで頓挫してしまう。
しかし、ミュラーははなから自分達の未来が容易に通るとは思ってはいない。
ならば誰かの後押しなり助言なりが必要になってくる。
先日のミッターマイヤー家での一件は全くの偶然の産物ではあったが、彼は助けを求めるならウォルフガング・ミッターマイヤーであると常々思っていた。
だから、今夜の思いがけない遭遇はミュラーにとって、ある意味運命の分かれ道であったのだ。
(つき合い始めてから日も浅いというのに・・・)
フィリーネと他愛のない会話を交わしながらも、そんなことに思いを巡らす自分に彼は胸中で苦笑した。そう、これは自分が勝手に思い描いている先の話であって、2人の共通した意思を持つ未来ではない。
しかし、彼女と2人で同じ時を過ごすようになってからの1年、ミュラーは時折そんなことを夢想してしまう自分を見つける時がある。それは正式に男女として交際するようになった今、更に強い意思を持って己に迫ってくる。
この思いは何処から来るのか。

ミュラーは考える。
彼もいい年をした大人であり、健康な男性である。
確かに今まで男と女として好意を発端に交際をしたことはあった。
酸いも甘いもある程度は知ったつもりだった。
だが今回は、このフィリーネ・フォン・リーゼンフェルトという存在は、彼に今までとは違う何かをもたらしてくれている。
それが何かは分からない。
だが彼は、彼女の中にひどく安らぐ自分を感じる。素直な自分を感じるのだ。
そして、それは彼女を愛おしいという感情と奇妙にリンクして、このまま自分のものにしてしまいたいという一見自分勝手な感情をさえ呼び起こす。
しかし、そんな感情はまた逆に、彼女をいとも容易く失ってしまうのではないかという
恐れにも繋がっている。
だから、彼は表面では微笑みながらも、心のどこかであと1歩を踏み出してしまえば全てが無くなってしまうのではないかという不安を抱え続けているのも事実だ。
思い起こせば、恋愛に対してミュラーは今まで「失った」ことを嘆くことはあっても、「失う」ことに恐れ嘆きそうになる自分を知ることはなかった。
(これは答えの出ない問題なのかもしれない)
そう自嘲しながらも彼は、唯一の真実を自覚する。
ナイトハルト・ミュラーはフィリーネ・フォン・リーゼンフェルトを誰よりも深く想っているということを。
愛しているのだということを。
それはともすれば陳腐になりがちな表現ではあるが、この場合の彼にとっては崇高で聡明な言葉であるという事実を前提にして。

「ミュラー元帥?」
ミュラーは自分の名を呼ぶフィリーネの声に我に返った。
「ああ、すみません」
思わず背筋が伸びる。
「お疲れ、ですか?」
キャンドルの明かりの下、青い瞳が心配げに細められた。
「いえ、とんでもない」
慌てて笑顔を作り否定してはみたが、彼女から憂いの表情は消えることはなかった。
気を落ち着けようとテーブルに置かれたコーヒーに手を伸ばせば、それは既に暖かさをなくしていた。
そんなに自分は正体がなかったのかと後悔し、はたとあることを思い出した。
「そうだ、貴女にこれを」
ミュラーの手により長方形の箱がテーブルの上に置かれた。
紺色に近い青の包装紙にシルバーのリボンが掛けられているそれは一見して贈り物だと分かる。
「私に、ですか?」
「はい、気に入っていただけるといいのですが」
自らのペースを取り戻したミュラーが目を細めた。
「でも今日は誕生日でもなければ何かの記念日でもありません」
もらってしまっていいものか逡巡したフィリーネは必死にそう訴える。
しかし彼は一言、
「私が貴女に贈りたかっただけです。いけませんか?」
フィリーネは瞬間目を見張るとかぶりを振った。
「いいえ、いいえ。嬉しいです!」
それは彼女の正直な答えだった。
贈りたかっただけ。
その一言がどうしようもなく嬉しかった。
何故にこれほど嬉しいのか自分でも理解出来ないまま彼女はその場でその贈り物を開けたい衝動にかられる。
「開けてもいいですか?」
目を輝かせそう尋ねるフィリーネの申し出をミュラーが断れるはずもなかった。
「どうぞ。お気に召すといいのですが」
笑顔で頷きながら彼は、彼女の反応を見ただけで満足している自分を強く感じた。
そして、ミュラーから贈り物が贈り主本人の目の前で開けられる。
フィリーネの瞳の輝きが加速度を増し、その顔には満面の笑みが広がった。
「ありがとうございます!」
それはプラチナのハートの中心に真っ青なアメジストがはめ込まれたネックレス。
そうそれは数日前にフィリーネがフェザーンのショッピングモールで魅入っていたそのものだったのだ。
まさかの偶然に彼女の喜びは果てしなく広がる。
「嬉しい・・・」
心の底から歓喜の感情が沸き上がり絞り出すように発せられた言葉に贈ったミュラー自身も果てしない喜びを感じた。
同時に全身の熱が顔面に一気に集中し熱を帯びる。
ミュラーは照れた。
照れながら、取り繕うように頭を軽く掻く。
「まさかそんなに喜んでもらえるなんて、正直予想外でビックリしてます。でも貴女の笑顔が見れたのは嬉しい」
最後の一言は視線を合わせることが出来なかった。
「実は数日前に仕事で市街のモールに行きまして」
彼は自身の照れを隠すように事の経緯を説明し出す。
「そこに入っている店の店頭にそれが飾られていたんです。見た瞬間に貴女のことが頭に浮かんで」
ネックレスとフィリーネがオーバーラップして頭から離れなくなってしまい、その日の勤務を定時で終え、その足でモールに引き返したという。
「職務中だというのにどうしようもない人間ですね、私は」
そう言って再び頭を掻くミュラーにフィリーネは実はと切り出した。
「私も何日か前に・・・あ、ミッターマイヤー元帥のお子さんを保護したときなんですが、このネックレスを見てたんです。たぶんミュラー元帥と同じお店で。いいなって。でもその時はそれだけで」
だが、後からどうしても気になって店舗に連絡を取ったという。
しかし時既に遅し。
そのネックレスは売れてしまっていた。
取り寄せは出来ないのかと聞くフィリーネに店側は出来ないという答えだった。
聞けばそのネックレスは、今期の目玉の一つとして企画された品だったのだが何らかのミスで当初の予定より大幅に在庫数が少なくなってしまったという。
おそらくもう手に入れることは出来ないだろうということだった。
フィリーネはその場で購入しなかった自分を恨んだ。が、それは後の祭りというものだ。縁がなかったと諦めるしかなかった。
「だから私嬉しいんです。いえ、ネックレスのことだけじゃなくて・・・」
そこでフィリーネはうつむいて言い淀んだ。
しかしすぐに決意したかのように顔を上げる。
「欲しかったネックレスが頂けたということも、それが他の誰でもなくミュラー元帥からだったことも。それに・・・、それにミュラー元帥が私と同じ物を見ていたことが。私に似合うと思って買ってきてくださったことが」
今度はフィリーネが照れる番だった。
言い切ったと同時に彼女の体中の熱が顔一点に集中していくのは端から見ても明らかだった。
顔を真っ赤にして、はにかんでうつむくフィリーネをミュラーはとても可愛らしいと思った。
そんな彼女をこの場で抱きしめてしまいたい衝動に駆られる。
しかしここは謂わば公共の場である。
そんなことをしてしまえば、当然のごとく注目の的になってしまうことは確定的だ。
彼はとてつもない速度で成長を遂げつつある衝動を必死で抑え、ほんの少しばかり残っている理性を何とか保たせた。



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