はじまるもの III







夜のフェザーン市街。
手元の時計は夜7時50分を指し示している。
この夜の一家団欒の時間を久しぶりの外食で過ごしたミッターマイヤー一家は家路に着こうとしていた。
ランドカーでも拾おうかとミッターマイヤーが通りを見渡す。
と、何気に向けた視線の先、行き交う人の波の中に彼の視点は停止した。
停止した先には仲良さげに歩くカップルの姿。
何事かを談笑しながら楽しげにこちらに向かい歩いてくる。
ミッターマイヤーには、カップルの男性のほうに見覚えがあった。
その男性は、彼が長年見慣れた黒地に銀のモールの軍服姿をしている。
しかしながら、男性がミッターマイヤーの知る人物であるならば、一点だけいつもと違う箇所があった。
それは、男性が彼の階級専用のケープをしていないことである。
それでも、その特徴ともいえる砂色の髪と少し下がり気味の左肩が誰であるかを如実に物語っていた。
それにしてもとミッターマイヤは思う。
(あいつもあんな顔が出来るのだな)
普段から柔和なイメージが強く、笑顔もよく見せる彼ではあるが、ああいった種類の笑顔は未だ見たことがない。
(幸せな笑顔というのはああいうものなのかも知れない)
胸中で独りごちるミッターマイヤーの隣でエヴァが意外そうな声を出した。
「あら、あの方」
どうやらエヴァもその存在に気づいたようだ。
しかしそれはミッターマイヤーの勘違いである。
何故なら、エヴァの視線はそのカップルの男性ではなく女性に注がれていたからだ。
「ウォルフ、あの方よ。迷子だったフェリックスを保護してくれた方」
「ミュラーといる女性か?」
軽い驚きを覚えながらミッターマイヤーが確認すると、
「本当だわ。ミュラー元帥」
エヴァも多少の驚きを覚えたようだった。
では、ミュラーの意中の相手だという同盟軍士官フィリーネ・フォン・リーゼンフェルトは期せずして自分の妻と出会っていたというのか。
「まさか、そんな偶然無いだろう」
そう言って笑う夫の言葉を受けたエヴァの頭の中で、昨日の女性士官とミュラーの連れの女性の照合が始まる。
先日の士官は黒い軍服に金髪を後ろでキッチリと一つにまとめていた。
でも今日の女性は長い金髪をそのままに下ろし、薄いグレーのワンピースに白いカーディガンを羽織った清楚ともいえる格好である。
同一人物だとは思うのだが、そう言われてしまうと絶対とは云えなかった。
「青い瞳が印象的だったのだけど・・・」
呟くようなエヴァの言葉を受け、ミッターマイヤーの脳裏に身上データにあったフィリーネの顔写真が蘇る。
(そういえば、青い瞳だったな)
そんなやり取りをしている間にも両者の距離は短縮されていく。
「おねーたん!」
ふいに息子フェリックスのエヴァと繋がれた手が離れ、小さい身体が覚束ない足で駆けだした。

どんと軽い衝撃がフィリーネの腰から下に走る。
こんな通りの真ん中で何が当たったのかと視線を下ろしてみると、黒いつむじが目に入った。
「どうかしましたか?」
隣に並ぶミュラーも彼女の異変に気づき、その視線の先を追う。
すると、黒いつむじが素早く後退し、変わって青い瞳がこちらを向いた。
「おねーたん」
フィリーネは驚いた。
「フェリックス君!?」
夜の繁華街だというのに、何故この子がここにいるのか。
また迷子だというのか。
急いで腰を落とし、幼児の目線に自分の目線を合わせた。
だが幼児はそんな彼女の心配する胸中などお構いなしに、いかにも嬉しそうな笑顔を見せた。
「ありがとね!ありがとね!」
興奮気味に全身を上下に跳ねさせながら、迷子の件だろう感謝の言葉を繰り返す。
「どうしたの!?」
というこの状況では当たり前と思える質問はミュラーの声にかき消された。
「フェリックス!?」
フィリーネは再度驚いた。
彼は知ってるというのか、この幼児を。
自分と同様驚きの表情を浮かべるミュラーにフィリーネが尋ねる。
「ご存じなのですか?」
「ご存じもなにも・・・」
言いながらミュラーが辺りをキョロキョロ見回し始めた。
釣られてフィリーネも周囲を見回す。
瞬間、彼らの前方の人混みがほんの少しだけ開ける。
その先には、先日のクリーム色の髪の女性と連れらしい蜂蜜色の髪の男性が立っていた。
おそらくこの幼児の父親だろう男性は、しかしながらフィリーネの知る人物ではなかったが記憶には有りすぎるほど有る人物だった。
「ミッターマイヤー元帥!!」
ミュラーにより蜂蜜色の男性の名前が驚きと共に口に出される。
まさしくそれはフィリーネが頭に描いた人物の名と同様のものだった。
「ではこの子は・・・」
この短時間に何度驚けばいいのか。
フィリーネは確認するようにミュラーを見上げた。
彼は黙って頷きながらも、
「フィリーネ、貴女こそ、何故フェリックスを知っているのですか」
と、こちらも驚きを隠せない様子で目を丸くするのであった。

「それにしても偶然とはあるものなのだな」
帰りのランドカーの中、ミッターマイヤーは呟いた。
先ほど興奮しきりだったフェリックスも今はエヴァの腕の中で安らかな寝息を立てている。
「本当に。まさか、あのお嬢さん<フロイライン>がミュラー元帥の想う方だったなんて」
言いながらフェリックスの髪を撫でてやると、小さい身体がもぞりと動いた。
楽しい夢でも見ているのか、その表情には満足げな笑みが浮かんでいる。
「うむ」
そんな息子の寝顔を微笑ましげに見つめながらミッターマイヤーは腕を組む。
「ねえ、あなた。私、あの方好きですわ。ミュラー元帥とも上手くいって欲しいと思います。でも、そうなれば、やはり・・・難しいのでしょうか」
エヴァは先日のミュラーとミッターマイヤーの会話の内容を知っている。
夫であるミッターマイヤーが彼女に話して聞かせたからだ。
薄暗闇の中、曇る妻の表情が手に取るように分かった。
「分からない。分からないが、二人の出自を考えれば、俺とエヴァのように簡単に事は運ばないだろうことは明確だろう」
彼は愛する妻の顔に沸き上がった黒雲を消してやれない自分の発言が許せなかった。
しかし、それは事実なのだから仕方ない。
今、気休めのように希望的な言葉を紡ぐのは簡単だ。
簡単だが、彼ら2人の現実を無かったことにするのは決して出来はしない。
何故ならそれは、決して予測などではなく、過去の事実として存在している確かなものであるのだから。
「でも、ケスラー元帥は貴族出身の方と結婚されますわ」
それでも、何処かに希望を見出そうとするかのようにエヴァは今年結婚が決まっているケスラーの名前を持ち出した。
帝国元帥の1人であるウルリッヒ・ケスラーはこの6月に結婚式を挙げることになっていた。相手は皇太后ヒルデガルドの皇妃時代からの侍女であるマリーカ・フォン・フォイエルバッハという貴族の子女である。
これはいうなれば、平民と貴族が婚姻関係を結ぶということだ。
エヴァはその点を指摘しているとミッターマイヤーには理解出来た。
しかし彼は首を横に振る。
「ケスラーの場合はまた事情が違う。まずケスラー自身が帝国の人間だ。そして平民の出とはいえ、地位もあれば名誉もある。これは畏れ多い例えかもしれないがな、エヴァ。おそらく、相手が皇帝陛下の縁戚だとしても結婚は許されるだろうよ」
「では、ミュラー元帥とフィリーネさんには・・・」
そこまで言って俯いてしまったエヴァの肩に夫の暖かい腕が廻された。
「どちらにしても、まず決めるのは2人だ。全てはそれからだよ、エヴァ」
平穏を象徴するかのような寝顔のフェリックスのぬくもりを感じながらもエヴァンゼリンは、愛する夫のぬくもりをも求め、彼の腕に顔を埋めるのだった。
「私、確信出来ます。あの2人の味方でいられることを」
「そうだな。俺自身も彼女に実際会ってみるまで分からなかったが・・・正直、2人には上手くいって欲しいと思えたよ」
妻に同意するかのように込められたミッターマイヤーの腕の力が、エヴァには新たな力と希望を与えてくれるように思われた。



<END>


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