はじまるもの II 







その夜、ナイトハルト・ミュラーはミッターマイヤー家を訪れていた。
ミッターマイヤーが2人分のグラスにワインを注ぐ。
親友オスカー・フォン・ロイエンタールがヴァルハラに召され、終戦を迎えて以降、彼はしばしばこの年下の僚友と杯を傾けることが増えた。
以前とは違って、酒の肴は取り留めのない話であることも多くなった。
こんな時ミッターマイヤーは、数年前までは予想するだに難しかった穏やかな世界が広がりつつあることを実感する。
足下では今年3歳になったフェリックスが、まだ彼には読めないだろう絵本を小さな手で捲っている。
「ご子息は見る度に大きくなりますね」
言いながらミュラーは目を細めた。
「そうだな。あっという間だ」
ミッターマイヤーのフェリックスを見守る目も温かい。
「私にも甥と姪がいますが、子どもの成長というのは本当に早いものです。会う度に心身共に大きくなっている。先日など、姪に言い負かされてしまいました」
砂色の髪を掻きながらミュラーは屈託のない笑みを浮かべた。
そんな彼を見るともなし見ていたミッターマイヤーの脳裏にある事が思い出された。
「そういえば、卿には付き合っている女性がいるのか?」
「は?」
唐突の問いかけにミュラーの笑顔がそのままの格好で停止する。
フィリーネ・フォン・リーゼンフェルトの端正な横顔が浮かんで消えた。
「それは・・・」
何と言っていいのか。
ミュラーは口ごもった。
それは決してミッターマイヤーに知られたくなかったわけではなく、ただどう説明していいのか戸惑ったからだ。
本来は是か否かで済むだけのことなのに、あえて迷ったのは彼らが抱える背景に因るところが大だろう。
二の句が継げない彼にミッターマイヤーが突然の問いに対しての理由を述べた。
「ビッテンフェルトがな、卿が女性と共にいるところに出くわしたと言うのだ。本人は否定していたがあれは絶対付き合っているというのだ」
それはつい先月のことだとミュラーにはピンときた。
聞きたいなら後でいくらでも話すとその場しのぎに言い、余計なことを口走るビッテンフェルトを退散させたことが思い出された。
しかしその後、両者の多忙さも相まってそれは未だに実現されてはいない。
そのストレスなのか何なのかは不明だが、まさかこの首席元帥の耳にそれが入っているなど彼は思いもしなかった。
(何のことはない。酒の肴にただ話したかっただけかもしれない)
仁王立ちし不敵な笑みを浮かべるオレンジの髪の僚友の姿が脳裏をよぎる。
「そうだったのですか」
深いため息がミュラーの口から漏れた。
「それは先月のことでしょう。確かにビッテンフェルト元帥に出くわしました」
そうかとミッターマイヤーがうなづいた。
「しかし、元帥に会った時点では本当にそういう関係ではなかったんです」
言って仕舞ってからミュラーは、しまったと思った。
これではその女性が恋人だと言ってるものではないか。
いや、そもそも、事実を隠しておこうなどと思ってもいなかったのだから構わないのか。
彼の頭が混乱の様相を呈してきた。
自分でもどうしたいのか訳が分からない。
「では今は恋人同士なのか」
ミッターマイヤーの何の飾り付けもない率直な問い。
よく澄んだ曇りのない彼の声が耳を打った途端にクリアになる自分を感じながら、ミュラーは深く頷いた。
「それにしても、フィリーネ・フォン・リーゼンフェルトだったか。今は・・・」
「少佐です」
彼女の名前を正確に口に出すミッターマイヤーに内心驚きながらもミュラーは言葉を繋いだ。
繋がれたミッターマイヤーはヤレヤレというように言葉を続ける。
「俺は卿の恋愛事に口を出す気はないのだが、また面倒な相手を選んだものだな」
それはとうの昔にミュラー自身分かっていたことだった。
だから、フィリーネを「面倒な相手」呼ばわりする年長の元帥に対して何ら抗議する気にもなれなかった。
「惚れてしまえば関係ない、か」
独りごちたミッターマイヤーの声は決して高くはない天井に吸い込まれていった。

昨年、ミュラーに裁定を下す際、ウォルフガング・ミッターマイヤーはフィリーネの身上データを閲覧していた。
取り立てて有名人でも重要人物でもなかった彼女のそれは、平凡なパーソナルデータに軍人としての職歴が列挙されただけの彼女の人となりさえ想像する余地の無いシンプル極まる物だった。
唯一、そのデータから推し量れるとすれば、将来的に彼女は優秀な軍人になりえるだろうということのみだった。
しかし・・・
「名前から想像するに彼女は帝国貴族の亡命者ではないのか?」
「はい、そのようです。しかし、それは彼女が生まれる遙か以前のことのようで、彼女自身は生粋の同盟の人間だと本人が言っておりました」
ミュラーが言い終わるか否か、ミッターマイヤーは上目遣いに彼をじっと見た。。
「ミュラー、卿は知ってるかどうか分からないがな」
「はい」
「彼女に会った帝国の人間は一様に彼女の帝国語を褒め称える」
「はい」
それについては彼も初対面から思ったことであるから素直に首を縦に振った。
「そして、彼らはそれと同時に彼女の物腰も品性も褒めるのだ」
「はい・・・」
それにしても、元帥は何が言いたいのだろうかとミュラーは穿つ。
ただ、その口調が決して彼女を称える為の前置きではないということを暗示しているように思え、彼を不安にさせた。
「そして、貴族の称号」
「何が言いたいのですか?」
ミュラーは上目遣いにミッターマイヤーを見た。
それに応えるようにミッターマイヤーもまた彼に視線の焦点を合わせる。
そして、先ほどから重さを感じ始めていた口をゆっくりと開いた。
「これは俺の予想だがな、ミュラー」
あくまでその範囲を出ないと強調する。
「彼女の元々の家系というのは、帝国貴族でも上級の家柄なのではないのか」
「わかりません。が、以前彼女は言ってました。帝国様式の全ては祖父母から学んだと・・・しかし・・・」
まるでフィリーネをかばうかように発したミュラーの声はミッターマイヤーの次の言葉により遮られる。
「しかし、誰もリーゼンフェルトの名を知らない。それがどういうことか分かるか?ミュラー」
「・・・」
この時、ミュラーの脳裏に一つの可能性が浮かんだ。
己の想像の途方もなさに砂色の瞳が苦しげに反応する。
そして彼の口は固く結ばれた。
「そうだ。たぶん卿の想像したとおりだ」
ミッターマイヤーがミュラーの想像を代弁するかのように口を開いた。
「・・・」
「リーゼンフェルト家は何らかの問題を起こして帝国を去らざる得なかった。それも帝室を巻き込む何かだろう。だから家名も断絶させられ、その名は永久に葬られた」
代弁者は本人が考えた全くそのままを言葉に声に乗せた。
それが語られ終えたとき、ミュラーは腹の底に重い石が落とされたような錯覚を覚えた。
ミッターマイヤーに問われるまで、そのような可能性を考えたことなどなかった。
だが、確かに冷静に彼女に関する様々なことを照合してみれば、有り得ないことではなかった。
今更ながらミュラーは、フィリーネ・フォン・リーゼンフェルトという存在に舞い上がっている自分を自覚した。
例え彼女がその可能性に気づいてなくとも、それまでの冷静な自分には容易に想像出来たことだろう。
しかし、彼女と出会って以来の自分にはそれが出来なかった。
いや、しようとしなかったのかもしれない。
迂闊としか云いようがないように思えた。
自分たち2人の間には現在の問題だけではなく、遠い昔の歴史上の出来事さえ現実のものとして降りかかってくるかもしれないのか。
のし掛かる時間の波に飲み込まれてしまうかのような錯覚をミュラーは抱いた。
戦場では決して得られなかった類の震えが身体の奥底から沸き上がるのを感じながら、それでもフィリーネという存在を彼は想う。
「それでも、今はゴールデンバウム王朝時代ではありません」
やっとの思いで発した声は渇き切り、掠れていた。
呼応するかのようにミッターマイヤーもまた重々しく頷き、次いで首を横に振る。己の口が語った可能性の問題を忘れてくれと云うように。
「いずれにしてもこれは可能性でしかない。例え事実がそうであったとしても、卿等にはまだ早すぎる問題だろう」
しかし認識してしまった以上、ミュラーも意識せざる得ないのは現実だ。例えそれがあくまで可能性の問題だとしても。
「それでも、将来的には見つめなければならない話ではあるかもしれません」
「そうかもしれない」
ミッターマイヤーは目を伏せ、手の中のグラスに視線を落とした。
そして何事かを思索するように、グラスを左右に小さく揺すった。
ゆらゆらと揺れる赤い液体はまるで、常に何かに関わらなければ生きていけない人の人生のように思われた。
やがて、ゆっくりと頭を上げたミッターマイヤーは静かに口を開いた。
「俺はな、ミュラー。卿には幸せになって欲しいと思っている」
その瞳が穏やかに細められる。
「あの苦しい時代を乗り越えた者には皆、その権利があると思っている」
だから出来る限り力を貸してやりたいのは真実だと、ミュラーより2つばかり年長の元帥は杯の中のワインをあおった。
足下ではいつの間にかフェリックスが小さな寝息を立てていた。


<END>


ミッターマイヤーの飲み友・ミュラー元帥。
ワタシ的にミッターマイヤー一家は安寧の象徴でいてほしいのです。同様に同盟側のキャゼルヌ一家も。

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