薄明の果てに IV (2)







「この件に関しては少佐、貴女が一切気に病む必要はないのです。あのとき私は、そのことも認識していながら、貴女に声を掛け行動したのですから」
事の一部始終を語り終えたミュラーはフィリーネにキッパリとそう言った。
そう言い切られてしまったフィリーネは返す言葉が見つからない。
見つからないまま、手の中の缶コーヒーに視線を落とした。
「少佐、いえ、フロイライン」
何も言えないフィリーネにミュラーが口を開いた。
彼女は彼の声に耳を傾け、続きを待った。
「私はきっとその時から貴女が気になっていたのです」
彼の、一件何の脈絡もないと思われる突然の言葉にフィリーネが、弾かれるように顔を上げた。
常夜灯の中、ミュラーの砂色の瞳が細められ眩しそうにフィリーネを見ている。
「本当はもっと早くフロイラインと・・・いえ、貴女の名前を呼びたかったのです」
彼女は彼の突然の告白に驚いた。
彼とプライベートで会うようになってから1年。
会った数は決して多くはないが、彼女自身は彼との時間を毎回楽しみにしていたし、実際楽しんでもいた。
だから、そういったことを考えたことがないと云えば嘘だ。
しかし、相手は遠く離れた星の違う旗を仰ぐ人であり、自分なんかが遠く及ばない重責を生業としている人物である。年も離れている。
彼女にしてみればそれは夢のような話であったし、また彼女には素直に気持ちをそちら側へ向けられない理由があった。
それに思い当たった時、フィリーネは沈黙した。
「アルフレート、ですか?」
青い瞳が見開かれる。
「どうして・・・」
それを知ってるのかという言葉は声にならなかった。
そんな彼女にミュラーはあくまで穏やかに言葉を繋ぐ。
「貴女が1年前に泣きながら呟いた名です」
フィリーネには記憶になかった。というより、あの時自分が抑えられなくなった彼女は何をして何を口走ってしまったのかという一部始終を覚えていなかった。
覚えているのは、ミュラーに無様な姿を見せてしまったと恥じ、後に激しい後悔の念に襲われたことだけだ。彼がそれについて今日まで一切触れないでいてくれたことが、どれだけありがたかったことか。
しかし、今思いも寄らない場面で彼はあの日のことを口に出した。
それもフィリーネが、ミュラーだけには知られたくないと無意識に望んでいたことを。
彼女は思わず、その視線を彼から逸らした。
「私は・・・」
持っていた缶コーヒーが両手で固く握りしめられ、震える。
彼の柔らかな声が鼓膜を打つ。
「まだ思い出には出来ませんか?」
彼女は無言で小さくかぶりを振った。
腹の底にとてつもない重量の重りを入れられたかのような感覚を彼女は覚えた。
「でも彼は・・・もういないのです」
ミュラーが容赦なく、しかしあくまで静かに言い放った。
(自分はそうまでして、彼女にこちらを振り向いて欲しいのか)
端正な横顔をこちらに向けるフィリーネの瞳が再度見開かれるのが捉えられた。
(私は今残酷なことをしている)
彼は自嘲を禁じ得なかった。
それでも彼は彼女を見つめ続ける。
すると、彼女の口がわずかに動いた。
「わかってます」
ミュラーの鼓膜にフィリーネの声が小さく響いた。
「わかってるんです」
彼女がゆっくりとこちらを向いた。
「そんなことはわかってるんです」
「では、貴女は」
それでも彼を想っているのかという言葉は彼女によって遮られた。
「そんなことはずっと前からわかってるんです」
言い切るか否か、彼女は再びうつむき、手の中のコーヒーに視線を落とした。
沈黙が流れた。
遠くから街の喧噪が響いてくる。
それはランドカーのクラクションであったり、酔ったと覚しき人々の勢いにまかせた騒ぎ声であったり。
街は夜の賑わいに身を任せているようだった。
しかし彼らのいるこの公園は、まるでそこだけ別世界であるかのような静まりをみせていた。
「どうして元帥はそうもたやすく私の内に入ってくるのですか」
絞り出すような小さな声でフィリーネが誰に言うともなく呟いた。
彼女の視線の先のコーヒー缶が小刻みに震えている。
「1年前のあの時だってそう。今日だって・・・本当は口に出すのも嫌なことなのに言ってしまいそうになる自分がいるんです」
「フロイライン・・・」
瞬間、フィリーネの両手で固く閉じ込められていた缶コーヒーが音を立てて地面に落下し、その中で閉じ込められていた液体が無造作な焦げ茶色の花を咲かせる。
煉瓦で構築された地面が金属特有の甲高い落下音を立てた。
と同時にフィリーネは何かを振り切るかのごとく大きくかぶりを振り、その心の奥底に閉じ込めた思いを一気に吐き出した。
「怖いんです」
「本当は怖いんです、私は」
「自分の大切な人がいなくなってしまうのが」
「だから・・・だからもう、大切な人は作りたくない」
言い終えるとフィリーネはきつく両目を閉じ、何かに耐えてるかのようにその身を固くした。
今度はミュラーが彼女に対して目を見開く番だった。
てっきりそれまで彼は、彼女が逝ってしまった愛しい人に未だ想いを残しているものと思っていた。いや、思い込んでいた。
だが彼女の本心は違った。
彼女はただ失いたくないという。
ミュラーは彼女が新たな人との繋がりを拒む真の理由を知ったような気がした。
「フロイライン・・・いや、フィリーネ!私は」
「やめてください!」
フィリーネは己の手で両耳を塞いだ。
彼女の瞳がどこか違う一点を凝視する。
「居なくならないなんて言わないで。みんなそう言う。でも、でもそんなこと本当は誰にも分からないのに・・・どうしてそんな無責任なことが言えるんですか」
今にも折れそうな声で一気に吐き出した。
フィリーネのここではない何処かを見る瞳から涙がこぼれ落ち、それは彼女の固く握られた両手の上に透明の水たまりを作った。
「フィリーネ・・・」
ミュラーの手が宙に浮き、その長い腕が伸ばされる。
1年前のあの日、彼女に触れることを躊躇った心と身体が、今度こそ迷うことなくフィリーネをその腕<かいな>に抱いた。
「それでも!それでも、私は貴女に側にいて欲しい」
ミュラーの両腕が彼女を守るかのように固く閉じられ、フィリーネはその広い胸に身体ごと埋没した。
ミュラーの全身を通して伝わる暖かさに彼女は不思議な安らぎを覚える。
安らぎに身を任せ目を閉じれば、それに酔いそうになる自分がいた。
「約束はしないでください」
生まれてこの方経験したことのない目まいを覚えながら、彼女はミュラーにしがみつく。
「では約束はしません。でも、フィリーネ、これだけは覚えておいてほしい」
フィリーネはミュラーの腕の中で彼の想いを静かに聞き続ける。
「私は、貴女がいるからこそ此処に執着し、貴女がいる限り此処に帰ってきたいと思い続けるでしょう」

二つの影が一つになる。
そしてそれはまるで、永遠に一つであるかのように溶け合い、世界の全てと混じり合っていった。




<END>



これにて「薄明の果てに」は完結です。思いの外長くなってしまいました。
読んでくださった方、ありがとうございましたm(_ _)m
しかし、しつこくこの先も考えてます(汗)
よろしければ、これからもお付き合いくださいませ。

←BACK/TOP/NEXT→