薄明の果てに IV (1)







昨年8月、先帝ラインハルトは親友であるジークフリード・キルヒアイスの隣で永遠の時を得ることとなった。

あれから約1年。
この1年で変わったことといえば、フィリーネが少佐へ格上げされたことと、彼女とミュラーがお互いの職務の合い間を縫って共に過ごす時間を得たということかもしれない。しかし、そうはいっても、決して近くはない星と星とで生活する2人が共有できた時間はほんのわずかである。それもあくまで友人としてであった。

その日も、帝都フェザーンを公用で訪れたフィリーネに併せて2人は、最近出来たばかりだというイタリアンの店で夕食を共にした。
レストランを出るとすでに午後8時を廻っていた。
何処に行く当てもない2人は夜のフェザーン市街を肩を並べて歩く。
そうして、市街でも一番ではないかという交差点に差し掛かると彼らは歩みを止めた。
歩行者用の信号が「止まれ」の合図を示していたからです。
すると、ミュラーの背後から彼の名を呼ぶ聞き覚えのある声が聞こえてきた。
声の主に検討をつけて振り返ってみると、予想通りの人物が顔を緩めて立っていた。
「なんだ、卿も隅に置けないな」
その人物は開口一番にそう言うと、彼をこづいた。
ミュラーと並ぶフィリーネは、彼と知り合いらしい人物をそっと見た。
しっかりした体格にオレンジ色の髪。
(ああ、この人がフリッツ・ヨーゼフ・ビッテンフェルトか)
と得心した。
ビッテンフェルトの言葉に、ミュラーが慌ててそれを否定している。
「そんな関係ではありません。この方はハイネセンからのお客人で・・・」
しかし、このオレンジの僚友はそんな言い訳は聞いていない。
今や彼の好奇心はあからさまに砂色の髪の僚友と肩を並べて親しげに歩いていた女性にある。
その証拠に彼はフィリーネを、その人となりを確認するかのように覗き込むのだった。
「ビッテンフェルト元帥、失礼ですよ」
更に慌てるミュラーを蚊帳の外に、彼は良い閃きをしたというようにポンと右拳を左の手の平に叩きつける。
「ミュラー、あれか。この女性が卿の始末書の相手か」
その言葉を聞いた瞬間にミュラーの慌て方が、それまでとは違う厳しいものに変化する。
「ビッテンフェルト元帥!」
ビッテンフェルトの声を遮るように声をあげたミュラーの目が鋭く彼を睨んだ。
その鋭利な刃物のような視線を受けビッテンフェルトは、まずいことを言ってしまったかとその軽い口を慌てて閉じた。
「聞きたいなら明日にでもゆっくりお話ししますから、ここは引いてください」
ミュラーが有無を言わせぬ様子でそう耳打ちするとビッテンフェルトは、別れの言葉もそこそこに早々と退場していった。
だが、フィリーネはしっかり聞いてしまった。
戦時中「猪」とイゼルローンの面々から渾名された提督の言った言葉を。
「どういうことです。始末書って?」
ビッテンフェルトの後ろ姿を見送ったフィリーネはミュラーに詰め寄った。
「いや、それは・・・」
ミュラーが口ごもる。
「はっきり言ってください。私のせいで元帥は始末書を書いたのですか?」
彼を見上げる彼女の瞳が、事実を聞くまでは帰らないし、帰さないと言っている。
信号が変わった。
人の波が大きく動き出す。
ミュラーが向こう側に渡ろうと一歩を踏み出すが、フィリーネは動かない。
とりあえずは渡らなければと思った彼が彼女の背に手を当て共に歩き出そうとする。しかし、その手はフィリーネによってあっさり振り払われてしまった。
「元帥、話してください」
ここは譲らないと、彼女の鮮やな青い瞳が言っている。
その強い光を一身に浴びたミュラーは一つ大きくため息を吐き、降参の体を表した。
ふと見上げた視線の先に常夜灯で照らされる公園が飛び込んできた。

1年前、ミュラーがフィリーネと共にフロイデン行きを決行した翌日の朝。つまりは帝室の行事当日。
ミュラーはメックリンガーに声を掛けられた。
「卿は昨日何をやっていたのだ?」
「昨日ですか?」
ミュラーの心臓が一つ波打った。
「そうだ」
メックリンガーの瞳が何かを確かめるように細められ、続いて、いつもは芸術を口ずさむだろう形の良い口から深いため息が漏れ出た。
「私は卿の私生活に土足で踏み込むつもりはないし、文句を言うつもりもない。しかし、昨日のあれは決して尊敬に値する行いとはいえないと思うが」
メックリンガーはあえて事の詳細を口にはしなかった。
が、ミュラーには彼の言いたいことが手に取るように分かる。
ミュラーの鼓動が早くなる。
見られていたのだ。
ミュラーが職務を部下に任せ、フィリーネと連れ立っていたことを。
「それにしても卿らしくない。せねばならぬことなど山ほどあろうに。それを部下任せにして。今日という日がどんな日か分からない卿ではあるまいに。それとも、卿をそうさせるほどあの女性は魅力的なのか」
そう言ってメックリンガーは再び深いため息を漏らした。
「確かにフェザーンとオーディンでは会うこともままならないだろう。まして、卿は重責にあって激務に励んでいる。しかし、時と場合があるのではないか?」
早まる鼓動の中でミュラーは思った。
メックリンガーは知らないのだ。
昨日自分が一緒にいた人物が誰であるのか。
「メックリンガー元帥、それは」
何かを言おうとするミュラーをメックリンガーが手で制し、続けた。
「おそらく卿のことだから、この件については既に自覚済みだろう。しかしあえて言わせてもらう。卿はこのローエングラム王朝の核を成す人物の1人だ。それが部下に仕事を任せて、自分は女性と会うなど・・・。卿の直近にいる者はそれを許すかもしれない。だが、その下の者はどうだ。更に下の者は。このピラミッドの底辺で精勤する者達は」
そこまで言ってメックリンガーは言葉を切り、瞑目した。
そして、呼吸を整えるように小さく息を吸い込むと開いた両の目でミュラーを見据え、
「しっかりと自覚をもってもらいたい」
と言い放った。
ミュラーは全身が震えるような錯覚を覚え、昨日の自分の行いの軽率さを恥じた。しかしその反面、改めて昨日の決断を決して後悔していない自分がいることにも気づく。
彼はメックリンガーに対して敬礼し、事の経緯と相手が誰であったかを説明した。
静かにそれを聞き終えたメックリンガーは、今回の件は皇太后ヒルデガルドと他の5人の元帥達に報告せねばなるまいと締めくくった。
ミュラーはこの時点で裁断を待つ身となったのであった。
そして、後日、彼は断罪された。
「厳重注意とこの件に関する始末書提出のこと」
それが彼に下された罰だった。
明らかにそれは、彼を裁く者達の彼に対するとてつもなく寛大な厚意の現れであった。
謹んで受けるよう、摂政であり皇太后でもあるヒルデガルド直々に命が下された。
ナイトハルト・ミュラーは自らが仰ぐ旗に平伏し、改めて深い忠誠を誓った。




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