薄明の果てに III (6) 







夏のフロイデン山地には多くの人々が避暑を求めてやってくる。
だから例年のこの時期は、たとえ平日といえども多くの人で賑わっているのが通例だ。
だが、今年は明日に帝室の行事が控えていて厳戒態勢とまではいかないまでも、それ相応の警備体制が敷かれている。その最たる者は立入制限であろう。
普段なら一般解放されている区域が許可証なしには自由に出入り出来なくなっている。それでも皇帝一家の強い意向でそれは最低限におさえられてはいたが。

ミュラーはその立入制限区域からは離れた湖畔にある公園の駐車場にランドカーを止めた。この公園なら湖周辺を散策しながらフロイデンの山並みを堪能することが出来るし、湖の反対側からは旧都オーディンの町並みが一望できる。
傍らのフィリーネを見やると、彼女は未だ夢の世界の住人と化しているようだった。
その寝顔はあまりにも安らかで、ミュラーには起こすことを躊躇われたが、このままでは彼女の希望が叶えられる機会が永久に失われてしまうかもしれない。
「大尉、大尉」
意を決して、しかし静かに呼んでみた。
だが呼ばれた本人は少し身じろぎをしただけで起きる気配はなかった。
今度は躊躇いがちにフィリーネの肩に手を掛け、軽くゆすってみる。
すると、彼女の青い瞳がゆっくりとだが確実に開いていった。
「フロイデンです。着きましたよ」
「え・・・」
つい今し方まで遠い夢の世界の住人だったフィリーネは、一瞬誰に何を言われてるか理解出来なかった。が、彼女の脳が目前にいる人物がミュラーであると認識した途端、全てがクリアになる。
「あ、すみません。私、眠ってしまって・・・」
そこまで言ったところで、自分に掛けられてるケープの存在に気づいた。
(これは・・・)
「手近に掛けて差し上げるものがそれしかなかったもので・・・」
ミュラーが恐縮しながらも自分のケープだと言うことを説明してくれた。
元帥用のケープ。
フィリーネはぎょっとした。
それは思いの外柔らかい素材で出来ていて、一目で上等の布で作られた物だということが分かるものだった。
「こんな大切な物掛けていただいて、ホントに・・・」
彼女はもう何と言っていいか分からなかった。
「いえ、お気になさらずに。それより到着しましたよ」
このときの彼女にとっての唯一の救いは、ミュラーがそのことに関して何も気にしていないように振る舞ってくれたことであった。

フィリーネはランドカーを降りた。
そしてミュラーに案内されるままに湖畔に移動する。
するとフィリーネの眼前にフロイデンの山並みが広がった。
(これが・・・)
彼女が知るオーディンを故郷とする誰もが焦がれた風景。
フィリーネにとって幸運だったのはこの日が雲一つない晴天だったことだ。
夏の真っ青な空を背景にフロイデンの峰がくっきり浮かび上がり、日の光を浴びてキラキラと光り輝く湖はまるで鏡のようにフロイデンの景色をそのままに映している。
このフロイデン山地に居を構える物でさえ年に何回も見ることは出来ないであろう光景が、そこには広がっていた。
その風景はフィリーネにとってこの上なく美しいものに思われた。そしてそれは不思議な懐かしささえ感じさせるものだった。
彼女はその風景に見惚れた。
「いかがですか?」
ミュラーの声で彼女は我に返った。
「とてもキレイで・・・なんと言っていいか分かりません」
そう答えながらもフィリーネの視線は眼前に広がる美しい風景に釘付けだ。
ミュラーには彼女がこの地に完全に引き込まれているのが手に取るように分かった。
当分こちら側の世界には帰ってこないだろうということも。
彼は手近の空いているベンチに腰を下ろすと周囲を見渡した。
今日は夏休み期間中ということもあってか平日にも関わらず家族連れの姿が目立った。それと規制が敷かれているため、普段はもっとフロイデンの至る所に散っているはずの観光客のほとんど全てがここに集っているせいなのかもしれない。
ミュラーは視線をフィリーネに戻した。
そのとき爽やかな夏の風が彼の全身をなでた。
その風は湖畔に佇むフィリーネの長い金髪をもなびかせる。
彼は眩しいものを見るかのように目を細めた。
ただ、キレイだと思った。
フロイデンの景色に見惚れるフィリーネを見ながら、その景色ではなくフィリーネに見惚れる自分にミュラーは気づくのだった。
するとフィリーネが何の前触れもなしにこちらに向き直った。
ミュラーは今自分が思ったことが彼女に即座に伝わったような錯覚を覚え、その身を固くした。ビクリと肩が上下に揺れるのを嫌というほど感じた。
「あちらにオーディン市街地が一望できる場所があります。行ってみますか?」
まるで何かを取り繕うかのように彼はフィリーネの口が開くのも待たずに声を出し、まるで今の自分の一連の行動をなかったことにするかのように勢いよく立ち上がった。
彼女はただ無言で頷いた。

フロイデン側から見るオーディン市街地はフィリーネを再びの感動の嵐に包み込んだ。
雲一つない晴天の日の景色は、オーディンの街のそのまた先にある風景までを明瞭にさせている。
果たして何が何の建物か等という細かいところまではさすがに判別できないものの、それらの輪郭がくっきりと見える。
「あれが新無憂宮<ノイエサンスーシ>です」
ミュラーが指さした先には遠景でもそれと分かる広大な敷地が広がっていた。そしてそこにはこれが世界の中心だというように大小いくつもの宮殿が点在しているのが見えた。
「すごい」
今は博物館として機能しているというその存在を、フィリーネは幼い頃より祖父母から聞かされていた。
だが当然現在に至るまで本物を見たことはなかった。
そして今、初めて遠景とはいえ実物を目にしている。
肉眼で見るそれは彼女の予想を遙かに上回るスケールを持っていた。
ゴールデンバウム王朝時代、新無憂宮<ノイエサンスーシ>では様々なドラマが繰り広げられたという。それは陰謀渦巻くものだったり、華麗な恋愛絵巻だったり、日毎夜毎まるで休むことを知らぬ舞台のように繰り広げられたと聞いている。
フィリーネの家系は曾祖父の前の代にハイネセンに亡命を果たしている。
だが、どういった経緯で亡命したのか彼女は知らない。
帝国貴族であった自分の先祖もあの場所で何かの陰謀にでも巻き込まれたのだろうか。
そんなことに思いを馳せながら彼女は旧時代の巨大な遺物を見つめるのだった。


オーディン市街地の風景を堪能すると、ミュラーとフィリーネは空いてるベンチに座り遅すぎるランチに取りかかった。時計はすでに「おやつの時間」とってもいいような時刻を告げていた。
メニューはエンゲル夫人マルガリータが帰りがけに持たせてくれたサンドウィッチだ。
飲み物はミュラーが調達してきてくれた。
「おいしい!」
一口それを頬張ったフィリーネが感嘆の声を上げる。
そのサンドウィッチには卵とレタス、そして手作りであろうローストビーフが挟んであった。
それは彼女にとって最高の組み合わせに感じられた。3種類の食材の味が上手く組み合わさって絶妙にマッチしているのである。
「大尉は料理はされるんですか?」
そんな彼女を微笑ましく見ていたミュラーは、質問してばかりだなと思いながらも今日何度目かの質問の言葉を投げかけた。
フィリーネはその問いに少しだけ目を丸くすると、恥ずかしげにうつむき、
「ほとんど出来ません」
と答えた。
「学生のときは寄宿舎暮らしで、その後はこの通りずっと軍隊暮らしですから。掃除洗濯は何とか人並みにこなせるとは思いますが、料理は全くで・・・」
なるほどとミュラーはうなづいた。
彼は彼女の経歴を知っていた。2年前のヤン・ウェンリー弔問の後、軍の端末を使ってそのデータを開いたのだ。
旧帝国暦に換算したそれには、470年に生を受け、486年には士官学校を卒業し軍に正式入隊したことが記されていた。そして487年1月1日付でイゼルローン要塞に中尉として赴任したことも。
「帝国では珍しいのではないですか?料理が出来ない女性は」
その問いにミュラーは素直にそうかもしれないと思った。
確かに帝国に暮らす一般女性で料理が出来ないという話は聞いたことがない。帝国ではどちらかというと女性が家庭を守るという概念がある。だから貴族の女性ならともかく、一般女性にとって家事全般は必須の教養の一つになっている。
が、彼は、
「いえ・・・どうでしょう」
と答えておいた。

彼らが公園を後にしたのは夏の日も傾きかけた時間帯だった。
明日も晴れなのか真っ赤な夕焼けがフロイデンを包み込んでいる。
帰りがけ、ちょっとした事故渋滞があった。
それは何の変哲もないただの衝突事故だったらしいのだが、そのおかげでただでさえ規制が掛かっているフロイデンからオーディンへと連なる道は大渋滞を引き起こした。
その間、他のメンバーが心配するといけないというミュラーに薦められフィリーネは宿泊先のホテルにメッセージを入れた。
すると、続いてミュラーもどこかに連絡を入れているようだった。
ドレウェンツという人名らしい単語を聞きながらフィリーネは、窓外の今やすっかり暮れてしまった景色に目を向けた。
山道に所々配された街灯と前を行くランドカーのテールランプだけが頼りの暗い山の風景。目に入るのは木々の陰影のみだ。
今日体験した景色の数々が走馬灯のように駆け抜けていき、逝ってしまった父や母、兄、祖父母の面影が脳裏をよぎる。
そして、次の面影が脳裏を掠めたとき、彼女はたまらなくなる。
「アルフレート・・・」
それは、後年「アムリッツァ前哨戦」と呼ばれる戦闘において戦死した彼女の愛しい人の名だった。
堪えきれず、呟くように口に出すとその笑顔が蘇る。どこかあどけなさを残す人なつこい春の日差しのような笑み。フィリーネは自分の名を呼ぶ彼の少し高めの声が大好きだった。

諸々の仕事の連絡を終え携帯ビジフォンを閉じたミュラーは傍らのフィリーネの異変に気づいた。
こちら側に背を向けているためその表情までは分からないが、細い肩が明らかに震えている。
「大尉?」
どこか体調でも悪いのかと心配になり、声を掛けてみるが彼女は振り返らなかった。
続いて数回、再度声を掛けてみる。
それでも彼女は振り返ろうとしなかった。
しかし、その間にもその肩は震え続け、閉じられたランドカーの窓の枠に必至にしがみついているように見えた。
「大尉・・・?」
恐る恐るフィリーネの肩に手を掛け、静かにこちらを向かせようとした。
だがそれを彼女の肩は拒絶した。
ミュラーは軽く振り払われる格好となった。
彼は一瞬唖然となったが、意を決して彼女の両肩に手を掛け思い切りこちら側を振り向かせた。
しかし、それが成功した途端にフィリーネはイヤイヤをするようにもがいた。その表情は見えなかった。
ミュラーは思わず彼女の両手首を掴み、片方は上に掲げ、もう片方は下に押さえつけた。
さすがに身動きが取れなくなったフィリーネが反射的に顔を上げる。
その瞬間、車内の時が止まった。
少なくともミュラーはそう感じた。
わずかな明かりの中、こちらを向いたフィリーネの端正な顔と金色の髪には深くなめらかな陰影を落ちていた。
そして、その抜けるように鮮やかな青い両の瞳には、透明な光る液体があふれ出ていた。
ミュラーは自分の鼓動が大きく一つドクンと脈打つのを感じた。
「フロイ・・・ライ・・・ン?」
やっとの思いで言葉にしたものの、何故か動くことが出来なかった。
フィリーネがその表情を見せまいとしてうつむくと、淡いチェックのワンピースのスカート部分にぼろぼろと大きい光の粒が落ちていった。
それは止まるところを知らないかのごとくに後から後から落ちていき新たな陰影を作り出していった。
やがて彼女はうつむいたまま、静かに口を開いた。
「アレフレートが・・・どうして・・・死ななきゃいけなかったんですか・・・」
その声音は、これがあの強い瞳を持つ女性士官かと思えるほど弱く痛々しかった。
ミュラーは半ば無意識に彼女の両手首を解放した。
解放された手首がまるでスローモーションのように彼女の傍らのあるべき場所に落ち、その細い肩からは操る術を失った人形のように力が抜けていった。
彼には彼女が今にも壊れてしまいそうに見えた。
「出来ることなら・・・いつか・・・オーディンにって・・・君も一緒にって・・・フロイデンは・・・キレイな・・・ところだよって・・・だから・・・」
ミュラーの両の手がフィリーネの肩に伸ばされる。
が、それは寸前のところで固く握りしめられ、降ろされた。
彼は泣きじゃくる彼女から顔を背け、きつく唇を噛みした。
おそらく彼女が口にしたのはこの世には既にいない愛する人の名前だろうとミュラーには予測がついた。
そして彼女は彼を心の底から想っていた。
フィリーネの全身から満ちあふれる悲しみが、嫌というほどそれをミュラーに知らしめた。
彼は泣き崩れる彼女を決して邪な意味からではなく、ただ抱きしめてやりたいと思った。しかし、彼の中の何かがそれを許さなかった。

車外ではまだ解消しそうにない渋滞に人々が不満の声を上げ始めている。
ある者はクラクションを鳴らし、またある者は怒号を響かせて。
そんな中で彼らのいる空間だけが現実から切り離された別の世界のようだった。





今回は思ったより長めになってしまいました。
この展開にするためにどうしようかと悩んだ挙げ句の事故渋滞です。これ夏の話なんだけど、やっぱりオーディンも夏は日没が遅いのかなとか考えたりして(笑)

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