薄明の果てに III (4) 







水色のパステルカラーのギンガムチェックのワンピース。
エンゲル家のリビングに再度姿を表したフィリーネは水没する前の格好に戻っていた。
ソファではエンゲル家の姉弟とナイトハルト・ミュラーが談笑していた。
フィリーネは3人の笑顔を確認すると、ほっと胸をなで下ろした。
ふと時計を見ればお昼少し前である。
キッチンではマルガリータが忙しく動いているのが見えた。
さすがに迷惑がかかるだろうとフィリーネは辞する意をマルガリータに伝える。
「もう時間も時間だし、お昼を召し上がっていけば?」
だがフィリーネはその誘いを丁寧に断った。
発端はエンゲル家の子ども達だったとはいえ、そこまでお世話になるのは気が引けたからだ。
子ども達が駆け寄ってくる。
「おねえちゃん、帰っちゃうの?」
マリーとアルノーが口を揃えて残念がった。
「ごめんね」
フィリーネは心から2人に謝罪した。
本当にこれ以上は申し訳ない。彼女はそう思っていた。
しかし子ども達は彼女を離そうとしない。
数回そんなやり取りになり、フィリーネが少々困惑を感じ始めていた頃、それまでソファでそれを見ていたミュラーが立ち上り、
「自分もそろそろ行かないと」
と、彼の本来の目的である実家の両親への届け物をマルガリータに手渡した。
「本当に相変わらずね」
呆れたようにそう言いながらもマルガリータはキッチンに引き返すと、手慣れたように素早く2つの小さな紙袋を手に戻ってきた。
今日のお昼の為に作ったサンドウィッチだという。
差し出されたそれをミュラーとフィリーネが受け取ると、本当にお別れだと認識したエンゲル姉弟が心底残念そうな表情を浮かべていた。
「また会える?」
姉弟のその問いにフィリーネは何と答えて良いか分からなかった。
彼女のほうこそ、この愛らしい姉弟にまた会いたいと思ってはいたが、それは正直叶うかどうか分からない。
フィリーネは無言の笑顔で2人の頭を撫でた。
彼女は後ろ髪を引かれる思いでエンゲル家を後にした。

「先ほどは申し訳ありませんでした」
エンゲル家の玄関の扉が閉まるか否やのタイミングでミュラーはフィリーネに頭を下げた。
「いえ・・・こちらこそ申し訳ありませんでした」
その真摯な態度にフィリーネは恐縮し、自分も言ってしまったことに対して謝罪した。
「私はどうにも押さえが効かないときがあるようで・・・」
ミュラーは照れたように頭を掻いた。
「私もそうです」
言いながらフィリーネはそんなミュラーを好ましそうに見た。
2人の視線が交錯し、どちらともなく笑顔が漏れる。
どうやら上手く和解出来たようである。しかし、別に彼らはお互いに喧嘩したわけではないのだから、「和解」という言葉が適当であるかどうかは微妙なところかもしれないのだが。
「これからどちらに行かれるのですか?」
何となく揃って歩き出した矢先にミュラーがそう聞いてきた。
「特に決めてません」
フィリーネは素直にそう答えた。
「今日はハイネセンの方々は外出されると聞いていたのですがご一緒ではなかったのですね」
「ええ、私は色々と見たいところがあったのですが、意見が一致しなかったので単独行動で許してもらいました」
「見たいところ?」
「はい。 ご存じのように私はいわゆる「帝国からの亡命者の子弟」ですから」
こともなげに笑顔でそう口にしたフィリーネの瞳に一瞬だけ浮かんだ悲哀の色をミュラーは見逃さなかった。
以前彼女はオーディンのことは知らないと言っていた。なのに行きたいところがあるという。
ミュラー自身は帝国生まれの帝国育ちである。身分は平民。ゴールデンバウム王朝時代は貴族との身分差による不当さを味わったこともある。知人で同盟へ亡命した者もいなかったわけではない。しかし、自分とそれに連なる親族は亡命者にはならなかった。
だから亡命子弟のその後の境遇や気持ちは想像の域を出ない。
そういえば彼女は帝国の言葉を幼いときから祖父母に習ってきたと言ってはいなかったか。
その境遇が彼女に帝国のそれも今や旧都となってしまったオーディンに興味を抱かせる原因になっているのか。
そして、先ほどちらりと見せた表情。
ミュラーの心の中に彼女をもっと知りたいという欲求が芽生え始めていた。
「小さい頃から帝都オーディンのことは聞かされていました」
「ご家族から?」
「ええ。あとは親しかった友人にも亡命者がいましたから色々と聞いてました」
「それでオーディンを見てみたいと?」
フィリーネは1つ頷くと、ミュラーを見上げた。
「そして最後に必ず言うんです。もう一度オーディンを見たいと」
ミュラーは想像する。
生まれ育ち慣れ親しんだ故郷を自分の意志とは無関係に離れなければならない気持ちを。それも一時的にではない。おそらく永遠にだ。
どのような思いで過去の亡命者達は、離れゆく故国の星を見たのか。そしてその記憶を刻んだのか。
ミュラーは己の想像力のなさに落胆する。
どうしてもその思いを推し量ることが出来なかったからだ。
しかし、彼はもしかしたら無意識にそれを拒絶しているのかもしれなかった。それほどまでに今の彼にとって、例え旧都とはいえオーディンは大切な故郷なのだ。
彼は小さくかぶりを振り、話題を続けることに専念しようとした。
が、直後、そうしようとしたことを後悔することとなる。
「ではご家族も友人の方達も大尉の今回のオーディン行きは喜ばれたのではないですか?」
ミュラーのその問いにフィリーネは一度大きく瞳を見開き、そして悲しげに俯いた。
「もう、誰もいないんです」
「え・・・」
「祖父母は病で、父も母も兄たち、友人も戦争で・・・。本当にもう誰も・・・」
「・・・・・・」
ミュラーは言葉を発することが出来なかった。
この、強い光をその瞳に宿す同盟軍の女性士官にそんな過去があるなど想像だにしなかった。いや、だからこそ、その青い双眸には強い光が宿るのか。
「本当はフロイデンというところに行ってみたかったんです。みんながみんな、キレイなところだと言っていたので。そしたら、明日、皇帝<カイザー>ラインハルトを還しにそこに行くというので、今日は私の知る人達が歩いたかもしれないオーディンの市街地を散策しようかなと思って」
しかし団体行動になってしまうと自由に動けないから1人別行動にしたとフィリーネは笑顔で結んだ。
そんな彼女がミュラーには健気に見えた。
だからとっさに頭に浮かんだ事柄を、特に深く考えもせずに口にしていた。
「これから行ってみますか?私が案内しましょう」
「え?」
ミュラーの突然の申し出にフィリーネが目を丸くした。
「でもお仕事が・・・」
確かにそうだ。仕事は立て込んでいる。帝国の軍務尚書として、軍の元帥として、やらなければならないことは山積みになっている。だから実家に顔を出すどころか、実姉の家を訪ねることさえも時間的に困難を極めていたのだから。
口に出してしまってから、それを指摘されたミュラーは少しだけ後悔した。が、不思議と迷いはなかった。
「何とかなるでしょう」
ミュラーは彼の事情を懸念するフィリーネに断言した。
「私の部下は優秀ですから」
そして決して嘘ではないであろう事実を冗談めかして付け加えると、フィリーネの青い瞳が細められ、その顔からは小さな笑みがこぼれた。

ミュラーはふと、エンゲル家を辞する直前に姉が耳打ちする形で自分に放った一言を思い出した。
「お似合いなんじゃないの?」
それは姉にすれば何気ない一言だったのだが、ミュラーを動揺させるには充分だった。
「な!」
彼は絶句し、姉を睨んだ。だが姉は動じなかった。どころか、まるで邪魔者扱いするかのように片手でミュラーを玄関先に押し出した。
「そんなことあるわけない」
と、どれだけ反論したかったことか。しかし、姉は彼らの事情は知らないし、もう2度とこんなことはないだろうとミュラーは踏んでいたので余計なことを言っても仕方ないような気がして止めた。
(そうだ、そんなことあるわけがない)
胸中で再度確認するかのように呟くと彼は、決まったばかりのフロイデン行きを実行するべく山積みの仕事を部下達に任せる手配をし始めた。
想像たくましく、部下達の不満に満ちた表情を頭に浮かべながら。





フロイデンってオーディン市街からどのくらいのところにあるんでしょうね。
私の持ってる資料ではオーディン近郊にある山地としか書かれてないんです。
だから今回は長くても2時間くらいだろうと設定してみました。




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