薄明の果てに III (3)







マルガリータが去ったリビングに気まずい空気が流れた。
それは、ミュラーにはミュラーの、フィリーネにはフィリーネの、それぞれの事情に因るところが大きいのは間違いない。
まして、双方は私人としては全く、公人としてはほんの数回程度の面識しかなかった。それも数年前までは全く逆の陣営で相対していた者同士である。
(何故今ここで・・・)
今、この状況で両者が両者共に持ち得た心境である。
無言の時間が容赦なく流れる。
1秒が10分に1分が1時間に感じられるような錯覚を2人は覚えた。
マルガリータの戻る気配は未だない。
フィリーネはテーブルに置かれた自分の分のカップに視線を集中させ、ミュラーはリビングの入口に棒立ちになったまま動こうとしなかった。

「おじちゃん、座りなよ」
しかしその気まずい沈黙の時間<とき>はアルノーという小さな天使の声で破られた。
「あ、ああ」
ミュラーが夢から覚めたような声で頷くと、救いの天使の姉であるマリーが彼の手を取りソファに招いた。
マリーがミュラーの、アルノーがフィリーネの隣にそれぞれ陣取ると、それまでの重い空気が一変していくのが感じ取れた。
(助かった・・・)
それはどちらの心の声であったか。

一度空気が変わってしまうと、その流れに乗るかのようにどちらともなく自然と言葉が出てきた。
「どうも申し訳ありません。姉が色々と仕方のないことを言ったようで・・・」
ミュラーが心底申し訳なさそうに頭を下げた。
「いえ、お気になさらずに」
フィリーネもそれに素直に応える。
「た、いえ、フロイラインは何故ここに・・・」
とそこまで言ったところでミュラーは先ほど姉から簡単な事の経緯を聞かされていたことを思い出した。
「アルノーがね、お姉さんにぶつかったの」
マリーがまるで言い訳をするように事の発端を口にした。
「違うよ、マリーお姉ちゃんが僕を押したんだよ」
アルノーも言い訳口調で口を開く。
「でもぶつかったのはアルノーだわ」
「押したのはお姉ちゃんだもん」
テーブルを挟んで幼い姉弟同士の言い合いが幕開けようとしていた。
が、それは彼らの叔父である帝国軍元帥により寸前で押しとどめられた。
ミュラーは己の右手と左手を、今にもテーブルをリングに決戦を始めそうな勢いの2人の小さな頭にそれぞれ乗せ、引き離した。
「やめなさい。そんなことよりフロイラインには謝ったのか?」
ジロリと交互に姉弟を見た砂色の瞳には怒りが浮かんでいた。
「・・・・・・」
2人が同時にしゅんとなるのが見て取れた。
ミュラーの声が怒気を含み、低くなってきている。
「フロイラインにご迷惑を掛けたんじゃないのか?」
小さい姉弟が更に小さく見えた。
「お前達がいけないことをしたと思ってるなら謝らなければならない」
アルノーに至っては瞳に涙を滲ませ始めている。
このとき、子ども達に対して真剣に叱る姿勢を見せるミュラーがフィリーネには頼もしく思えた。
しかし、これが帝国軍元帥の迫力なのか。それともミュラーが程度を知らないのか。子どもを叱るにしては少し、いや、大分迫力満点なのではないかとも思った。自分がこの年頃の子どもだったら充分に恐ろしいことだろう。
それにしてもナイトハルト・ミュラーとはこういう人だったのか。
彼は旧ヤン艦隊のメンバーの中では敵であるにも関わらず評判が良かった。
フィリーネ自身も数回しか対面していないが、彼に対しては温厚な人物という印象を持っていた。
だが、今の彼を見ているとどうもそれだけの人物ではないらしい。やはり、そこは若くして帝国軍元帥に登り詰めただけの何かを持っているということなのだろうか。温厚なだけではない何かを。
しかし、ここは軍ではない。どころか相手にしているのは幼い子どもだ。
叱り方1つにだって、子ども相手のやり方というものがある。手さえ挙げないものの、そんな冬の雷のような怒り方をしたのでは子ども達も萎縮してしまうのではないのか。
フィリーネはたまらず口を出した。
「あの!子ども達にはさっきたくさん謝ってもらいました!」
ミュラーの意識が彼女に向けられた。
その時、フィリーネはその怒気が一瞬緩むのを感じた。彼女はその間を縫うようにアルノーを傍らに引き寄せると、その瞳に浮かんだ雫を優しくぬぐってやった。
そして、多少の迷いを感じながらも静かに、だが一気に言い放った。
「それに、私が言うことではないのかもしれないし、目上の方にこういうことを言うのは失礼かもしれないのですが。ここは戦場じゃないんです」
ミュラーの砂色の瞳とフィリーネの青い瞳がぶつかる。
「しかし・・・」
ミュラーは口ごもった。
脳裏に彼が敬愛して止まなかった先帝ラインハルトの蒼氷<アイスブルー>の瞳が浮かんで消えた。
似ているけど、似ていない瞳。
そして、その光の強さ。
「叱るにしても叱り方というのがあると思います」
フィリーネは押し殺した声で言い切った。

「はい、はい、はい、はい」
エンゲル夫人が止め止めというように手を叩いてリビングに登場した。
一瞬にしてその場の緊張が緩んだ。
「姉さん」
乾燥が終わったフィリーネの衣服を抱えたマルガリータをミュラーが見上げた。
「貴方の負けよ、ナイトハルト。そのお嬢さんが言うとおりよ」
そう言いながらマルガリータはフィリーネに乾いた衣服を手渡すと、バスルームで着替えてくるようにと案内した。
ミュラーはリビングを出ていく青い瞳の同盟軍士官を視線で追いながら、今やっと手元に置かれた飲むには少し熱すぎる紅茶に口をつけた。
熱い液体が喉元を通り過ぎ体内に流れ込むのが分かる。
その痛いくらいの熱を感じながらミュラーは、先ほどまでの一連の子ども達とのやり取りとフィリーネの言葉を自分の中で反芻した。
そして、その熱い液体が胃に落ち切ったときに彼は、一連の自分の言動に後悔し始めている自分を感じた。
半ば無意識に傍らに小さく座るマリーの頭上にその大きな左手を乗せた。
今や、そのぬくもりは先ほどまでの怒りを含んだそれではない。
ちらりと横目でマリーを見ると、彼女もまるでご機嫌伺いをするようにこちらを見ていた。
ミュラーの口からいつもの温和な響きが流れ出る。
「すまなかった」
彼は少々バツの悪そうな表情でマリーとアルノーを見つめた。

しっかりと乾かされたフィリーネの衣服は丁寧にアイロンでプレスされていた。
マルガリータがなかなかリビングに戻ってこなかったのはそういうことだったのかと、フィリーネは納得し、その心遣いに感謝した。
それにしてもと彼女は思う。
「あんなこと言ってよかったのかな」
見るに見かねてやってしまった行動であり言動であったが、それが果たして良かったことなのか悪かったことなのか判断が付かない。やってしまった以上、それはあの場にいた全員の現実になってしまったわけだが、フィリーネ自身はその瞬間から決して小さくはない後悔と不安に苛まれている。
そして、今、冷静に後々のことまで想像を巡らせてみれば、その思いは更に嵐の前の暗雲のように低く暗く彼女の心の中を浸食していく。
まさかミュラーのような人間が今日の出来事を公の場に持ち出すことはあるまいと容易に思ってはみるものの、それでも未来のことは分からない。
「それにしても・・・意外と熱くなりやすい人なのね」
これまで、ナイトハルト・ミュラーという人は帝国の重鎮であり、言葉を交わしはしても遠い存在であるとフィリーネは考えていた。
だが、今回のことで少し印象が変わった。
彼もまた、自分たち同様発展途上の未完成な人間なのだ。
そう思うと自然に親近感のようなものが沸いてきた。





皆さんのイメージにあるミュラーってどんななのでしょう?
私の中では普段は温和で寛容だけど一度激高すると熱いというイメージです。「大神オーディンも・・・」が強く印象に残ってるせいなのかな。アニメ版についても言葉遣いは丁寧なのに割と話し方がキツメだなと思ってたりします。
だからこんな感じになってしまったのかもしれません。怒らせると怖いおじさん。しかも、もっと人生勉強しようぜみたいな(笑)素直といえば素直なのかな。
ここまできてイメージ壊してしまっていたら、本当に申し訳ないのですが、うちではこうなってるようです。
しかし、これから変わっていくというか、その温和で寛容なイメージがイメージではなく彼の人格そのものになっていくミュラーも書いてみたいという思いもあるのです。

よろしければ是非これからもお付き合いくださいませ。




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