薄明の果てに III (2)







エンゲル家のドアフォンが軽やかに鳴ったのはそれから15分ほどしてからのことだった。
エンゲル夫人であるマルガリータがパタパタと軽快な音を立てながら玄関に向かい、2人の子ども達もその後に続いた。
その後ろ姿を見送りながらリビングに取り残された形となったフィリーネは再び一抹の不安を覚える。
(言われるままに居座っちゃったけど、これで良かったのかしら)
赤の他人の、それも今日さっき出会ったばかりの人たちの家で、しかも更に赤の他人の夫人の弟を迎える。
1人になって冷静に考えてみれば、何ともずうずうしい話なのではないかと思えてきた。
(でも今更帰るなんてもいえないし・・・)
そんなことを延々と考えていると、リビングのドアの向こうから話し声が近づいてきた。どうやら、エンゲル夫人が弟に対して何事か文句を言ってるようである。
おそらく、先ほども話していた一連の事柄だろうということは予測がつく。

リビングのドアが開いた。
一番最初に飛び込むように入ってきたのはアルノーだった。
「おねえちゃん!おじちゃんがお土産くれた!」
見れば小さな身体に抱え込むようにしてキレイにラッピングされた箱を持っている。
その形状からいって中身はケーキだろう。
誇らしげにそれを抱えフィリーネに見せるアルノーの頭を彼女は笑顔で優しく撫でた。
「お客様?」
「ええ、そう。子ども達がね、公園の小川にお嬢さんを突き落としちゃったのよ」
そんな会話がドアの向こうから聞こえてきた。
「だから、今服を乾かしてる最中なの」
そう言いながらマルガリータがリビングに姿を現した。
後ろには彼女が仕事人間だと評した弟が続く。
が、その「弟」の姿を見たフィリーネは驚いた。
長身の、砂色の髪に砂色の瞳。
「ミュラー元帥・・・」

思わず出てしまった言葉に慌てて封をするかのように口を固くつぐんだ。
その瞬間、フィリーネの頭の中では様々なことが凄まじい勢いで廻り始めた。
確かにミュラーは彼の姉がいう「仕事人間」なのかもしれない。
何故なら、彼は帝国でも7人しか存在しない軍の頂点である元帥職に就いている。しかも、フィリーネが持ってる公式情報によれば、現在、軍務尚書という重責にもあるという。
想像など巡らさなくとも、彼に与えられた職務は多忙過ぎるだろうということは理解出来る。
まして、ここ何年も先帝ラインハルトの元に付いていたのだ。休みなど取りたくても取れないのは必至だったろうし、あの獅子帝に魅せられた1人なのだから自分の結など等ということは後回しになってしまうのは当然のことのように思えた。
「あら、お知り合い?」
何も知らないマルガリータがフィリーネとミュラーを見比べて、どちらにともなく尋ねる。
「あ、いえ・・・」
フィリーネは口ごもった。
国賓と呼んでも差し支えない立場で旧帝都を訪問しておきながら、帝国の一般家庭のお宅に世話になったばかりか、そこは何と帝国元帥兼軍務尚書の姉君の嫁ぎ先で、更に本人とも対面してしまうという。
彼女にとってそれは二重にも三重にもバツの悪いこと、この上なかった。

しかしながら最初ミュラーは、目の前のソファに座る、エンゲル家のお客様だというその年若い女性が誰であるかなど分からないようであった。
フィリーネとは別の意味で「いえ・・・」と口ごもると、己の記憶を引き出すようにじっと金髪に青い瞳を持つ女性を見つめた。
そうして、ミュラーの記憶と現実にそこに座る存在が重なったとき、彼は軽い驚嘆の声を上げた。
「た・・・いや、フロイライン!?」
とっさに、階級で呼んでしまうのは決して良くはないだろうと判断したミュラーはフィリーネをそう呼んだ。
「こ、こんにちは・・・」
突然の帝国軍務尚書殿の登場に多少ではない困惑を覚えたフィリーネは、自身のバツの悪さも手伝って上目遣いで、どうにもちぐはぐな挨拶の言葉をミュラーに向けた。
「あ、こ、こんにちは」
ミュラーも釣られて頭を下げる。
「知り合いだったのね」
マルガリータはそんな2人の様子などお構いなしに勝手に「知り合い」だと結論づけると、不承の弟が小脇に抱えるように持っていたマント付の軍服の上着をさっさと取り上げハンガーに掛けた。
ミュラーはどうやら従卒も連れずに単独で自分の足でここに来たようだった。元帥用の艶やかな軍服の上着を脱いでいたのは、おそらく町中で目立ってしまうという予測をした上での判断であろう。
「それにしても、着替えるヒマもなかったの?こんな重い物抱えて」
このマルガリータという姉に係れば、その誰もが尊敬と羨望の眼差しで見上げるであろう帝国軍元帥の制服など「こんな」扱いになってしまうらしい。もっとも、この軍服の持ち主が実弟ナイトハルト・ミュラーだということもあるだろうが。
「どうせまた、すぐに帰らないととか言い出すんでしょう」
当たりである。
帝国軍元帥であり軍務尚書という職責を持つミュラーにプライベートと呼べるような時間は少ない。特に今回は公務でのオーディン入りである。やらなければならないことは山積みだ。
彼はその間隙を縫ってせめて姉の家を訪ねたのだから、弟の職責を知らないわけではない姉には少しは労をねぎらって欲しいところだ。
「ほんとにねぇ」
マルガリータが心底呆れたようなため息をつき、
「毎回こんな感じなのよ。偉くなるのも考えものだわ」
とフィリーネに「こういうことよ」と首を横に振った。
「姉さん、彼女に何か言ったんですか!?」
その様子を見たミュラーが何かを感じ取ったのか気色ばんだ。
「別に何も。私のカワイイ弟は仕事人間で、ここ数年家族にも顔を見せない上に、挙げ句30過ぎてもお嫁さんの来手さえないってことだけよ」
「・・・・・・」
こともなげにさらりとそう言う姉に対して弟は、その胸中でこれ以上ないくらいに頭を抱え込んだ。
しかし今更頭を抱え込んだからといって、どうになるものではないとミュラーは気を取り直す。
「姉さん、そういうことを初対面の方に言うのは・・・」
どうかと思うと意見しようとしたが、それはマルガリータがミュラーの耳元で内緒話をするように小さく発した一言によって遮られた。
「それとも、このお嬢さんが実はそういう相手だったりして」
ぎょっとして姉を見れば、彼女は我が意を得たりと口の端を引き上げニヤリとした。
「な、な、何を!」
激しく動揺したミュラーは見事に声を上擦らせてしまった。
マルガリータの言葉が聞こえるはずもないフィリーネが、そんな彼の声に目を丸くする様子が視界の端に見て取れた。
ミュラーは再度気を取り直すとゴホンと1つ咳払いをする。
「姉さん、いい加減に・・・」
という彼の静かな怒りの声はまたしても邪魔される。
リビングの向こうから乾燥作業終了を知らせるブザー音が軽快に鳴ったのだ。
「あら、終わったみたいね」
ブザー音に素早く反応したマルガリータは、弟の存在など忘れてしまったかのように軽快な足取りでリビングの向こうに消えていった。
リビングには何ともバツの悪い様子のミュラーと、未だ目を丸くしたままのフィリーネ、そしてアルノー、マリーの姉弟が取り残された。





まずは無事にミュラー登場しました。
実は今回のミュラー姉弟のやり取りは直前まで予定になかったのです。自分でも、まさかここまでミュラーをあたふたさせてしまうことになるとは思いもしませんでした(汗)




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