薄明の果てに III (1)







その日、フィリーネは全身ずぶ濡れになってオーディン市街のある民家の一室にいた。
「本当にごめんなさいね」
そういってバスタオルと着替えを差し出すのは、年の頃40手前といった風情の夫人だ。
「ごめんなさい」
「ごめんなさい」
そして、ただひたすら申し訳なさそうに謝罪の言葉を繰り返すのはこの夫人の幼い子供達。姉弟だといっていた。
フィリーネはそんな2人に大丈夫よと柔らかい視線を向けると、夫人に案内されバスルームに入った。

そもそも事の起こりはこうだ。
先帝ラインハルトと遺骸の一部をオーディンに還すという帝室の意向に従い、招待客としてオーディンに着いたのは、それを二日後に控えた昨夕。
前日である今日は帝国側からの厚意でオーディン市街を観光してもいいということだった。
但し、それには1つ条件が付いた。
「私服であること」
長かった戦争が終結して1年。
この1年奔走しっぱなしのフィリーネなどは、もう1年経ったのかと時の流れの早さに感慨ひとしおな立場にいるが、そうではない立場にいる者もいる。
確かに先帝ラインハルトによって自由惑星同盟の名は公式のものとなり、広い宇宙の一角に存在することは許された。
しかし、100年以上の長きに渡って戦争を続けてきたのも現実である。
旧帝都とはいえ、そこには反乱軍と呼ばれた人々に負の感情を持つ者もまだまだいるということは安易に想像出来る。
だから、ハイネセン一行は帝国側から出されたその条件を快諾した。

そしてオーディン市街見物が許された当日、フィリーネはあえて他のハイネセン一行とは行動を別にした。
何故なら、自分が見て体感したいオーディンは彼らと別のところにあるだろうと思われたからだ。そのフィリーネの提案に他のメンバーは特に反対はしなかった。
だから、1人でオーディンの街に出た。
初めて訪れるオーディンの街を歩きながら、建国以来幾度かの補修を経てあるだろう石畳を靴底に感じながら、亡き人たちを思った。
彼らが望んで、遂には果たせなかった夢。
その夢のただ中に自分はいる。
そんなことを思いながらフィリーネは、ふと目に入った公園のベンチに腰を下ろした。
視線の先には夏の日を一身に浴びながら楽しそうに戯れる子供達。そして、そんな子供達のはしゃぎように必死に着いていこうとする親たち。
ハイネセンでもよく見かける光景だ。
「場所が替わっても、日常の風景は何も変わらないのね」
そんな独り言を言いながらフィリーネはベンチから立ち上がり、歩き出した。
(次はどこに行こうか)
などと思いながら、頭に昨夜ホテルで見たオーディンの市街地マップを描き出した正にその時、背後から軽い何かがしかし思い切りぶつかるのを感じた。
あっと思ったときには、先ほど目を細めて見守った子供達のほとんどが戯れている公園併設の小川に落ちていた。
たまたま落ちた場所に子供がいなかったということが不幸中の幸いか。
「・・・・・・」
驚きのあまり絶句した。
まさか公的行事で招かれた先でこんな目に合うとは。
フィリーネははっきり言って今の自分を想像したくなかった。
どんなに良い方向に考えようとしても、全身ずぶ濡れの自分以外想像出来なかったからだ。
大抵のそうなった人間が考えるように、まず彼女の脳裏に浮かんだのは
「どうしよう」
ということだった。
しかしまずはここから立ち上がらなければと見上げた先には、自分をずぶ濡れにした犯人と覚しき小さな男の子と女の子2人が、やはり唖然と立ちすくんでいた。
「あの・・・」
少し年かさの女の子のほうが何かを言おうと口を開きかけたその時、背後から母親らしき女性の悲鳴に似た声がフィリーネの耳を打った。
「何してるの、あなたたち!」
そこからのこの母親の行動は早かった。
2人の幼い子供をひとしきり叱り飛ばすと、公園で水遊びをするだろう子供たちの為に持ってきたと覚しきバスタオルをフィリーネに渡し、彼女がそれを使うか否か家は近所だからと半ば強引に彼女を引っ張って行ってしまった。
そして今、フィリーネはこの名も知らない民家でシャワーを浴びているのである。

「まさかこういう展開になるとは・・・」
シャワーを終えたフィリーネはコックをひねりお湯の放出を止めた。
そして脱衣所で身体を拭き、夫人に差し出された衣服を身に着ける。
あとは髪を乾かすだけだ。
そう思いドライヤーに手を掛けようすると、洗面所のドアがノックされた。
「はい」
短くそう答えると、小さくドアが開き夫人が顔を覗かせた。
彼女はフィリーネの濡れた服は今乾かしているという旨のことを言うと、
「乾くまで、ご一緒にお茶でもいかが?」
と人なつこい笑みを浮かべた。

髪を一通り乾かし、リビングに入ると子供達が駆け寄ってきた。
「本当にごめんなさい、お姉さん」
そういって半べそ顔の姉がちょこんと頭を下げると、こっちは既に泣きべそ顔になっている弟もそれに習ってちょこんと頭を下げた。
それに対してフィリーネは小さく微笑むと膝を折り子供目線になる。
そして、もういいわよと小さな2つの頭を交互になで、小さな瞳からこぼれ落ちる涙を優しくぬぐってやった。。
一生懸命謝罪する小さな2人が何故かとても愛おしく思えた。


「私はマルガリータ・エンゲル」
お茶の席で、フィリーネを偶然にも自宅に招き入れることとなった夫人は遅ればせながらの自己紹介を始めた。
「こっちが長女のマリー。そして長男のアルノーよ」
そしてフィリーネを図らずもびしょ濡れにしてしまった姉弟。
姉のマリーは9歳、弟のアルノーは5歳だといった。。
平日であるこの日、家の主人でもある父親は仕事に行っており、子供達は夏休み期間中であるということもマルガリータが語ってくれた。
「お姉ちゃんの名前は?」
アルノーが無邪気に聞いてきた。
しかし、この問いにフィリーネは正直困ってしまった。
別に後ろ暗いところがあるわけではないのだが、自分は帝国臣民ではない謂わばよそ者である。それも自由惑星同盟の人間。
帝国側からは私服での外出許可はされたが、こういうときの対応については何も通達されていなかった。しかし、まさかこんな予測もしない事態になるとは誰も思ってないはずである。それもひどく一般日常的なこんな事態に。
「フィリーネ・リーゼンフェルトよ」
フィリーネは名前くらいは名乗っても別段問題ないだろうと思考を切り替え、答えた。しかし、一般臣民と貴族の関係が政治レベルではなく庶民レベルで現在どうなっているか理解していなかったフィリーネは、あえて貴族の称号でもある「フォン」を省いた。
名前だけ名乗るなら同盟側の人間であるということは分かることはないだろうが、「フォン」を名乗ってしまえば帝国貴族の称号を有する者だというのは一目瞭然だ。
おそらくお互いの人生の中で通りすがりに等しい関係であるはずの人々との、ほんのわずかな縁をフィリーネにとってどうでもいい称号の問題で壊してしまうかもしれないというのは惜しいような気もしたからだ。
「フィリーネ・・・フィル!?」
アルノーが閃いたというようにフィリーネを愛称で呼んだ。
「アル、失礼でしょ。そんな男の子みたいな呼び方」
マルガリータがアルノーをたしなめた。
フィリーネは昔ユリアンが彼女ををそう呼ぶのを嫌った理由が正にそれだ。やはり他人が聞いても「フィル」という呼び名はそう聞こえるらしい。
今更ながらフィリーネは自分の感覚の正しさを確認した。
しかし、今はもう、そうは思わない。むしろ長年親しんだ愛すべき呼び名である。
「構いませんよ。そういう風に呼ぶ友人もいますから」
「あら、そうなの」
と、マルガリータは少々驚きながらもあっさり納得してくれた。
そんな会話をしているとふいにTV電話が鳴った。
今はこの家の主人であるマルガリータがそれを受ける。
聞くともなしに聞いていた内容によると、どうやらこれから来客があるようだ。
これ以上やっかいになっていても迷惑なのではないかと思ったフィリーネが立ち上がろうとした。
が、それは2人の姉弟によって遮られ、受話器を置いたマルガリータによって却下された。
「いいのよ。来るのは身内の者だし。それにまだ服も乾いてないわ。真夏とはいえ、生乾きの服なんか着て風邪なんか引いたら大変」
「でも・・・」
正直、フィリーネは早いところここを辞したかった。
これ以上ここにいて自分の身分が知れたらどうなるか予測がつかなかったからだ。
しかし反面、彼女の中にはまだ辞したくないという気持ちもあった。
とんでもないことから始まった今回のこの出会いが、この家族との会話によって楽しい出来事になりつつあったからだ。
マルガリータはフィリーネの気遣いを少しでも和らげるかのように言葉を繋ぐ。
「弟なのよ。実家に届け物があるらしいのよ。でも行けそうもないから、代わりに届けて欲しいって。まったく久しぶりに帰ってきたと思ったらこれだから困るわよね」
「お忙しい方なんですね」
「忙しいも何も、単純に云えば仕事人間ね。もう何年実家の両親に顔見せてないと思ってるのかしら」
「そんなに帰ってないんですか?」
「そうよ。仕事だ仕事だって言ってね。あんな弟でも必要としてくれる場所があるのはいいことですけどね。誰がそこまで育ててくれたと思ってるのかしらね」
「でも、仕事お出来になるんですね」
そのフィリーネの素朴な感想に、マルガリータは彼女を一瞥し深いため息を吐いた。
「まあ、世間では出来るっていうんでしょうね。でもねぇ・・・」
「でも?」
「30過ぎて独身なのよね。だいたいそういう浮いた話1つ聞かないんじゃないかしらね。まったく、出世するのはいいけど、もう少し人並みな人生歩んで欲しいものだわ。男は自分の家庭を持ってこそだと思うんだけど」
「私の知り合いにもいますよ、そういう男性。仕事が出来て独身。でも、不自由は感じてないみたいだし、普通に人生送ってると思います」
とフィリーネは旧ヤン艦隊提督のダスティ・アッテンボローのそばかす顔を思い浮かべ、
(でもちょっとずれてるのかな?)
と彼の数々の名言と行動を思い出し、心の中で苦笑した。
するとマルガリータがテーブルの向こうからずいと身を乗り出し、人差し指を掲げ、まるでフィリーネに言い聞かせるように話し出した。
「あのね、愛する者、守る者があるのとないのとでは全然違うのよ。それが家族だったり恋人だったり。そう思わない?」
それに対してフィリーネはなるほどと思った。
確かに自分も恋人がいた時分は公人としても私人としても充実していたように思う。
それまで何に対しても手を抜いていたとは決して思っていないが、それ以上に自然と力が沸き上がってくるのを感じていた。何より他人に対して寛容になれたように思う。そのせいもあってか対人関係も比較的良好だった。
と、そこまで振り返ったところでフィリーネは少しだけ悲しくなった。
もうこの世にはいない恋人の笑顔が脳裏を駆け巡ったからだ。
「おねえちゃん、どうしたの?」
そんな彼女の様子の変化を敏感に察したのかアルノーがフィリーネの顔を覗き込んだ。
「あぁ、何でもない、何でもない」
フィリーネは慌てて両手を顔の前で振り、アルノーの心配を否定した。
そして、彼の母親に話の先を促した。
マルガリータは続ける。
「まして、自分の血を分けた子供がいてみなさい。一個の人間をほぼゼロから育てるのよ。人としてだって全然違ってくるわ」
「成長するってことですか?」
「そういうこと。まあ、子どもは無条件にかわいいけどね」
マルガリータはそう言うと我が子2人の小さな頭を愛しいげに撫でた。
そして、この後に登場するだろう仕事人間の弟の為に新しいティーカップを用意し始めた。




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