夜明け前 T (2)
(宇宙暦797年・帝国暦488年1月〜イゼルローンにて〜)







イゼルローン要塞を包み込む流体金属の海を抜けて、フィリーネは要塞内部に入った。
自分をここまで送ってくれた艦を降りると、ドックではユリアン・ミンツが出迎えてくれた。
フィリーネが亜麻色の髪を持つこの15歳の少年と初めて会ったのは、彼女が士官学校を卒業する前年だった。彼の保護者でもあるイゼルローン要塞司令官ヤン・ウェンリーの友人で彼女のピアノ教師でもあったジェシカ・エドワーズが、ヤンを介して紹介してくれた。
「おつかれさま、フィル」
ユリアンはフィリーネに労いの言葉をかけると、彼女の荷物を進んで持ってくれた。
彼はいつの頃からか、フィリーネをフィルと呼ぶ。
最初はまるで男の子のようなその呼称が気に入らなかったが、何度訂正してもユリアンは彼女をそう呼んだ。そのうち、その保護者であるヤンまで彼女をそう呼び出した。そうなるとフィリーネは訂正するのが面倒くさくなった。だから諦めた。そして、いつの間にか、その呼称に慣れ親しんでいる自分がいた。
今、フィリーネは変わらないユリアンの言葉に安堵を感じていた。
「出迎えありがとう、ユリアン」
この対面は実に1年弱振りだ。しばらく双方共に多忙で顔を合わせていなかった。
久しぶりに見た彼は背も伸びて、同盟軍の軍服を着けているせいか少し大人びて見える。
「ヤン提督が待ってるよ。グリーンヒル大尉も君に会えるのを楽しみにしていた」
ユリアンが柔らかな笑顔でそう話してくれた。
(笑顔は変わらないのね)
そんなことを思いながらフィリーネも笑顔で頷いた。。
が、ユリアンはそれに違和感を覚えるのを禁じ得なかった。
彼の知る彼女の笑顔とどこか違うのである。
いつもと同じような笑顔を向けてくるのだが、どこかに何かが引っかかったような表情なのだ。もっというなら、ユリアンは彼女のこういう表情を知らない。
初めて会った時、ユリアンはどこか角のある他人を踏み込ませない少女だという印象を受けた。しかし、、実際には最初の印象は何だったのかと思うくらい親しみ易く、優しく穏和な性格な持ち主だった。

ユリアンはフィリーネの境遇を知っている。
ある日、ヤン提督のような軍人になりたいと語った彼女はユリアンにこう言った。
「私はね、ユリアン。自分がどうして軍人になるのか分からないんだ。ただ、私から全てを奪った戦争はイヤ。誰かを私の手で傷つけるのもイヤ。でも軍人になるの。変だよね・・・」
聞けば彼女は飛び級であるスキップ制度を利用して士官学校に入ったという。
しかし、そうやって士官学校に入るには相当の努力をしたはずである。まして、実際のそこでのカリキュラムなどは、普通はこなすのでさえ大変なことだろう。
だが、彼女はユリアンが初めて会ったときにはもう士官学校卒業を翌年に控えていた。
何がそんなにまで彼女を駆り立てたのか。
ユリアンはそれまでのフィリーネとの触れあいで、両親と兄が戦死した後、それを追うように祖父母も相次いで亡くなったことを聞いていた。そして、そんな祖父母は彼女が幼い頃から帝国公用語はもちろん、祖父母曰く「帝国貴族として恥ずかしくない教育」を施してきたということも聞いていた。
「何かね、亡命した後もリーゼンフェルト家には帝国貴族の血しか入ってないんだって」
おかしいでしょと彼女は笑った。
おそらく、亡命して以来のリーゼンフェルト家の人々は帝国への郷愁を抱いてきた。幼い頃に見た、あるいはまだ見たことのない祖国への思いを抱いてきた。そして、そんな思いを抱きながらも、同盟に生きる人としての国に対する愛情も抱いてきた。
そんな複雑な思いの集大成が今のフィリーネであり、それを起爆させるのに充分なきっかけとなったのが戦争を原因とする家族の死なのではないか。
ユリアンはそう考える。
だから、彼女は軍人を志す同盟の多くの若者がそうであるように打倒帝国と軍人になるのではなく、この戦争自体を打倒するために軍人になろうとしているのではないか。
ただ、それはとてつもなく巨大で困難な指標であるのは間違いない。
だから、彼女は無意識にそれを排除し、何故軍人になりたいのかという理由を分からなくしているのではないか。

「ユリアン、背が伸びたのね」
フィリーネが先ほど同様にどこかスッキリしない表情でにこやかにユリアンに話しかけてくる。
「うん。もうすぐヤン提督も抜きそうだよ」
そう答えながら、彼女の瞳をそれとなく覗き込んでみるが、当然のごとくその表情の原因など分からない。
聞くべきか聞かざるべきか。聞くにしても聞いてしまって後悔することもあるし、もしかしたら聞いてはいけないことかもしれない。
ユリアンは迷った。

しばらく考え込むような仕草をするユリアンにフィリーネが問いかけた。
「どう・・・したの?何かあった?」
フィリーネが眉根を寄せ、心配げにユリアンを覗き込んだ。
「あ、いや・・・」
とは言ったものの、この心配の種はしばらく消えそうにないなとユリアンは思い切って聞いてみることにした。
「あのさ、何かあったのって聞きたいのは実は僕の方なんだ」
フィリーネに軽い驚きの表情が浮かんだ。
「変だよ。笑ってるのに笑ってないというか・・・いや、笑ってるんだけど、何かスッキリしない笑いというか・・・とにかく変だよ」
ユリアンは思ったままを口にした。
「なに、それ?変なユリアン」
といってフィリーネは笑ったが、ユリアンはその笑顔に応えなかった。
真剣な瞳でフィリーネを見つめる。
流れる沈黙。
2人が乗り込んだエレベーターの駆動音だけがやけに大きく聞こえた。
そして、エレベーターが目的のフロアに着いたことを知らせるポンという軽快な音を発する。
2人は並んでエレベーターを降りる。
とフィリーネがようやくその重い口を開いた。
「アムリッツァで・・・彼が亡くなったの・・・」
ユリアンは驚愕に目を見開いた。
「彼」とはフィリーネが任官して二月ほど後に付き合いだした恋人のことだ。
ユリアンはその彼に会ったことがあった。
フィリーネと同じ亡命貴族の子弟で、確か補給艦勤務だと言っていた。
数えるくらい、それも短時間しか会ったことはなかったが、くすんだ金髪に長身の、笑顔に少年っぽさが残る好青年という印象の士官だった。
「あの彼が・・・」
フィリーネは黙って頷いた。
「父と母と同じ・・・どこでどんな状況で死んだかも分からない・・・」
フィリーネの声は今にも消え入りそうな声だ。
ユリアンは彼女がこの場で泣き崩れてしまうのではないかと思った。
でもフィリーネは唇を噛みしめ、必死にそれを堪えているように見えた。
そんな彼女にユリアンは空いている方の手を差しだそうとした。
そのまま抱きしめて、思い切り泣かせてやりたい感情に囚われたからだ。
しかし、伸ばそうとした彼の手は空中で制止し、彼自身の意志で固く握られた。
触れてはいけない、触れてしまえば、それまで自分たちが築いてきた何かが壊れてしまう。そんな思いにふいに囚われたからだ。
「もう2ヶ月以上も前のことなのに・・・大事な人がいなくなるって、つらいね」
そう言ってフィリーネは顔を上げた。
こちらを見上げた彼女の顔にユリアンははっとなる。
その瞳に彼女特有の強い光を見たように思ったからだ。
(これでまた彼女は遠くなってしまう)
それはユリアンが常日頃思っていたこと。近いようで遠い関係。
手が届きそうで届かない相手、それがユリアンにとってのフィリーネだった。
フィリーネは決してユリアンの前で涙を見せない。それは、おそらく彼女を取り巻く誰に対してもそうなのだろう。
彼はいつも思っていた。
彼女と付き合っているという彼には涙を見せるのだろうか。
もし、そうであるなら、彼女にとって自分は本当の意味で自分をさらけ出すことが出来る相手ではないのか。
その一点において、ユリアンとフィリーネの関係は友人以上のものになりえる要素を持たなかった。
ユリアンはこうも考える。
彼女が涙を見せる相手。その相手こそが彼女を支える大きな力になる存在になると。



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