夜明け前  I (1)
(宇宙暦797年・帝国暦488年1月〜イゼルローンにて〜)










宇宙暦797年・帝国暦488年1月初旬。
フィリーネ・フォン・リーゼンフェルトは、今、イゼルローン要塞の住人になろうとしていた。
先年の「第7次イゼルローン攻略」において、同盟史上初めて帝国軍から奪取したイゼルローン要塞。近場で見るそれは、その外壁を銀色の流体金属に被われ、その表面に周囲の星々を写しつつ存在していた。
彼女は、その奇妙な美しさに、これが今まで敵味方問わず数多の血を吸い続けてきた要塞なのかと妙な感心を抱いた。
そして、これがわずか数ヶ月前に同盟軍に帝国侵攻を決意させ、恒星アムリッツァにおいて何千万人もの命を奪った会戦の一端を担った元凶なのかとも考えた。

同盟と帝国による戦争は150年も続いている。
これまでどれだけの命が失われたのか、どれだけ多くの人々の嘆きが宇宙に木霊したのか。
フィリーネには想像もつかない。その150年分の重みを考えただけで気が遠くなってしまう。しかし、唯1つ云えること。
それは、彼女もその中の1人であるということだ。
何故なら、彼女は9歳の時、「エルファシルの戦い」において両親と年の離れた兄2人を一度に失った。
当時、まだ存命だった祖父母にそれを聞かされた。
彼女はその時の光景を今でも忘れはしない。
それは、よく晴れた気持ちの良い午後の出来事だった。
フィリーネは、その日、学校から帰ってくるとすぐにピアノに向かった。夕方からレッスンがあったからだ。
「もうっ!」
思わず苛立ちの声が漏れた。前回からの課題にもなってるのだが、どうしても思い通りに指が動いてくれない箇所が1つだけあった。
しかし、今日は何度目かの練習の後、ある瞬間に突然指が廻りだした。何の違和感もなく指が曲を奏でた。
フィリーネの顔が大きな喜びを得て笑顔になる。
そんな時だった。
ピアノの部屋の廊下を挟んだ向かい側にあるリビングから、祖母の悲鳴に似た声が聞こえたのは。
フィリーネは驚き、喜びも忘れてリビングに急いだ。
彼女はその時まで祖母のそんな声を聞いたことがなかった。何かに驚き悲鳴を上げる祖母は見たことがある。でも、今のはそれとは違った種類の声のような気がした。
リビングに向かう僅かの間にもフィリーネはその全身が心臓になってしまったのではないかと思えるくらい己の鼓動を感じた。そしていい知れない不安も。
(なに?何か起こった!なにかが!)
フィリーネは心で叫んだ。暗雲が瞬く間に小さな心を満たしていくのが不気味だった。
果たして、リビングのドアを開けるとフィリーネの目にある光景が飛び込んできた。
ヴィジフォンの前で石像のように動かない祖父とその隣で泣き崩れる祖母の背中だった。
「おじいさま・・・?」
フィリーネはその生まれて初めて見る異様な光景に恐れながらも、恐る恐る祖父に近づき声をかけた。
すると、声をかけた相手である祖父ではなく、祖母が振り向き涙で濡れた顔で反応した。
「おばあさま・・・?」
という問いかけは発せられることがなかった。
祖母がまるで飛びかからんばかりの勢いでフィリーネをきつく抱きしめたからだ。そして、彼女の小さな頭をその長い金髪を梳くように何度も何度も強くなでた。
フィリーネはその2人の様子から、先ほどの自分の不安通りに何かとんでもないことが起こっているということを理解した。しかし、それが何であるかは全くもって想像出来なかった。
祖母はフィリーネをなかなか離さなかった。彼女を抱く力も髪をなでる強さも変わらなかった。そうするうちにフィリーネは意味もなく泣きたくなった。鼻の奥がつんと痛くなり、顔が熱くなり、瞳の奥から涙が込み上げてくるのを感じた。
それまでこちらに背を向け、決して動こうとしなかった祖父が振り向いた。
小さなフィリーネの青い瞳からは、すでに大粒の涙がこぼれている。理由も分からずに。
そして彼女は小さく驚くこととなる。
祖父が泣いているのである。

彼女の家は遙かな昔から優秀な軍人の家系であり、ルドルフ・フォン・ゴールデンバウムの時代にその功績によって帝国貴族に叙せられたという。そして、何を契機にしたのかは不明だが、彼女の曾祖父母の時代にハイネセンに亡命して来ている。
そんな家の直系である祖父もまた元軍人である。
フィリーネのまだまだ少ない記憶を辿っても祖父の涙などは見たことがなかった。
確かに、孫であり、リーゼンフェルト家の末娘である彼女に対しては目尻が下がりっぱなしの優しい祖父ではあったが、やはり軍人である父母と2人の兄に対しては厳しく接している印象が強かった。そして、それは涙や嘆きという言葉など祖父の辞書には存在しないのではないかと思わせるものだった。
しかし、彼女の父母も兄たちもそんな祖父に対してただ怖れるのではなく、事ある毎にその言葉に耳を傾け、頼りにするといったように畏敬の念を持って接していた。
彼女もそういうものだと思ってリーゼンフェルト家の一員として生活してきた。

だから、彼女にとって祖父の涙は衝撃だった。と同時に、それまで胸に抱いていた不安を飛躍的に増大させるのには充分だった。
フィリーネは、こちらを向いた祖父を祖母の肩越しに見上げた。
すると、祖父は膝を折りフィリーネの目の前に跪き、それまで数多の苦労や困難を乗り越え、幸福や喜びも甘受してきた大きな太い親指で、彼女の両目から零れる大粒のそれを優しくぬぐった。
「フィリーネ、心して聞きなさい。お前の父母と兄が戦死した」
「せん・・・し・・・」
いつになく静かに真剣味を帯びた声で祖父から出た言葉にフィリーネは一瞬に何を言われてるのか分からなかった。
決して「戦死」という言葉の意味が分からなかったわけではない。
それは、出生したときには既に戦時であり、育った環境は軍人家庭であった彼女にはある意味慣れ親しんだ言葉である。そして、それまでそれは彼女を取り巻く環境を崩壊させる言葉ではなかった。
しかし今は・・・。
「お父さん<ファーター>とお母さん<ムッター>が!?お兄ちゃん?」
信じられないといった様子で祖父に答えを求めるフィリーネの瞳から新たな涙があふれてくる。
祖父は黙って頷き、まるで何かを後悔するように固く目を瞑ると、絞り出すように声を出した。
「お前の兄、2人とも・・・」
フィリーネは信じられなかった。いや、信じたくなかった。
「嘘!だって、あんなに元気にお仕事行ったのに!!どうして、どうして!」
祖母の自分を抱く強さに更に力がこもった。
「どうして?おじいさま、嘘でしょ。どうして嘘付くの?おじいさまは私に嘘なんてついたことないのに!」
孫の行き場のない感情が祖父に向けられた。
そんな孫に祖父は黙って瞑目した。
フィリーネはその祖父の姿に、先ほど祖父の口から出た忌まわしい言葉が逃れようのない現実であるということを改めて悟った。
「ヤダー!!」
フィリーネは絶叫した。

もはやそこに存在しないであるかのような扱いのTVからニュースが流れている。
それは、その日新たな「英雄」が1人誕生したことを伝えていた。



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