策士、陥穽に落ちる
(今頃あの二人はどんな顔をしているだろうか・・・)
いささか人の悪い笑みが映るバスルームの鏡を見てビアンカは今度はくくく、と声を立てて笑った。
先日の『女子会』でルシエルの失念によって散々な目にあった、というフィリーネの話を聞き、さっそくクレンジングを手配しようとしたルシエルを押しとどめてビアンカは自分が渡すことを提案した。送り主がルシエルではもうそのブツの怪しさは推して知るべし、フィリーネはけして受け取らないだろう。そもそもハイネセンに送りつける料金だけでダース単位で買えてしまうというビアンカの意見にルシエルは素直に頷いた。
ミュラーに送るとしてもそれでは彼の『失敗』を彼女たちが認知していることをあからさまに伝えることになりいかな温厚なミュラーでも自尊心が危うかろう、のでこれも却下となった。
結果フィリーネがフェザーンにいる間に直接説明なしに手渡してしまえ、ということになった。渡した段階でばれて彼女が捨ててしまうのではないか?という危惧もないではなかったが、フィリーネはビアンカから渡された、という事実に何らの疑いも持つことなく嬉しそうに受け取った。
問題は『それ』を使うべき状態にミュラーが持ち込めるか?という一事にかかっている。チョコはなくなったらしいがルシエルの調べでキスリング経由でキャンディが渡っていること、前回のフィリーネの話からチョコのみしか使用してないことはわかっている。ともかくも自分はできうることをやった。後はミュラーの奮起に期待するしかないだろう。
そんな少し後ろ暗い満足感に浸りながら、ビアンカはバスタブに透明にラメの入ったバブルバスを放り込むと、湯を勢いよく注いだ。泡が立つのを待つほうがいいのはわかっていたが、どうせ最後は同じなのでさっさと服を脱いでバスタブに浸る・・・と泡ではない、何かぬるりとした感覚がまとわりつく。豊かに泡立つはずの水面はあれよあれよと言う間にゼリー状にとろりと固まってきた。
「いやぁぁぁぁ!!何、これはぁぁ。きゃぁぁぁ。」
「どうした?変な声あげて。」
頓狂な声に驚いて血相変えて飛んできたビッテンフェルトはビアンカの有様に瞬間あっけに取られたような表情を浮かべた。
半身浴なので湯量は少ないが胸から上は出ているが腰を下ろした下半身はトロトロのゼリーの中に浸かっている。何の成分が溶け込んでいるのか、とろとろとした塊は重力に負けて落下するのではなく、ビアンカの肌に吸い付いて煌めくような跡を残しながらまとわりつくように手首から二の腕へ伝い落ちていった。その何ともしまらない状況でビアンカは、それでもきっとばかりにビッテンフェルトをにらみ付けている。
「どうしたもこうしたもないでしょ。私のバブルバスに何小細工したのよ。」
噛み付くようなビアンカの不平にビッテンフェルトは棚に置かれた丸いバブルバスが入ったかわいらしい容器を手にとって眺めると、軽く肩を竦めた。
「ほぉぉ。これは俺のだな。小細工じゃない。お前が間違って持ち込んだんだよ。俺はシロだ。」
単なる勘違いで攻め立てられたビッテンフェルトは胸を張って断言した。もちろん目線は計らずも罠にかかった『獲物』をどう堪能するかということしか考えていないことが明らかだ。
「またルシエル?」
「いや。これは違うな。そのなんだ。いつも大佐に先を越されるのでな、たまには・・・と思って。」
どうやら以前贈られたカタログの中から自分で選んで取り寄せたらしい。勤務先に送るにせよ自宅に送られてきたにせよ、発送した業者は目を疑ったことだろう。
「変なとこ張り合わなくていいのよ。どうするの?これ?配管詰まらない?」
「その辺は大丈夫だ。この溶融剤入れたら瞬時に湯に戻る。」
不必要なほどかわいらしいハート型をした液体石鹸に見えるボトルを手にビッテンフェルトは得意げな表情を浮かべた。
「じゃ、それを貸して・・・くれるわけないか。愚問ですね。はい。」
自分を見下ろすビッテンフェルトの舌なめずりをせんばかりの表情にビアンカは観念したように肩を竦めると、一転魅惑的な笑みを浮かべる。
「じゃ、そうなったら・・・楽しませてもらうことにしましょ。ね?ほら、早くいらっしゃいな。」
ビッテンフェルトに否やはない。嬉々として服を脱ぎ捨てた男の有様を横目にビアンカは軽く息を吐き出した。
**********
「液体がゲル化するには均一な溶液であることが前提なんだけど、その後に放冷しないとうまくいかないのよね。これの場合、その点はクリアしてるわけだからなかなかに手の込んだものではあるわよね。案外フワフワしてて気持ちいい。うーん。ゲルとゾルの中間ってとこかなぁ。柔らか〜い。」
楽しもうなどと言ったビアンカの関心は情事よりもこの奇妙な物体の成り立ちのほうにこそ向けられて、せっかっくのバスルームで始まった突然の化学談義に不毛な時間が過ぎつつある。
逞しい体によりかかるようにしてビアンカが話す言葉にビッテンフェルトは気のない相槌を返した。
ビアンカの方は無邪気なもので手のひらから肘までゼリーをこぼしては楽しげに笑い声を立てる。少しはその気にさせようと、ゼリーをあちこちに塗りたくってみたものの、くすぐったいばかりであまり官能を呼び覚ましはしないのか、子供のような笑い声をあげるばかり。ビッテンフェルトは彼の『知恵袋』に相談もなく購入に踏み切ったことを早くも後悔し始めている。
そんな男の様子など気づかぬ気に、ねぇ、これってお肌にもいいって書いてあったわよね。肌が痛まないように保湿されるんだって、だから今回はあんまり食べないほうがいいのよね、などと問いかけるビアンカビッテンフェルトは何度目かの生返事を返した。
(結構なもの入りだったというのに・・・これではキャンディやチョコの方がなんぼも元が取れたっつうの。やはり大佐が目をつけなかったらしいことはあるよな。)
液体がどうゲル化しようが、放熱しようが蓄熱しようが関心などない。場面は強引に展開させるに限るだろう・・・。
「液体が固体化するときには普通は熱を発散する。冷えるにしたがって硬くなっていくのは俺にだってわかる。」
そう答えたビッテンフェルトの脳裏に何か、が閃く。と同時にその考えを確かめるべく傍らの洗面台に水を貯めたビッテンフェルトはかなりの量のゼリーをそこに放り込んだのだ。
「どしたの?冷やしてるの?」
質問には答えずにビッテンフェルトはその塊をいきなり抱き寄せたビアンカの首から背中へゆっくりと塗りつけた。
トロリとした粘度を増した物体が肌を辿っていく感触は本来あまり心地いいとは表現しがたい。
おまけに冷水で冷やされたそれがふいに無防備な肌を滑り落ちていくのだから思わず振り落とそうかと動きかけたビアンカを、だがビッテンフェルトは片手で簡単に抱き寄せて許さない。さらに唇を重ねて刺激を増やすことも忘れなかった。
丹念に口内を愛撫されて力が抜けたビアンカの背中はひんやりとしたゼリーがうごめく度に小刻みに震え、豊満な肢体が己の体に摺り寄せられる感触にわが意を得たりとばかりに男の中の本能を昂ぶらせる。
「や・・・。もぉ・・・。」
口では拒否するような言葉を囁きながらビアンカはビッテンフェルトにすがり付き、愛撫をねだるようにオレンジの髪の頭を愛しげにかき抱く。
手を伸ばして触れた部分に異なる湿りを感じて男が浮かべた笑みを目の端に認めたビアンカは、小憎らしい唇に軽く噛み付いた。
「痛ってぇな。噛み付くのはナシだろ?」
お仕置きだ、とばかりに埋め込んだ指先を動かすと、覆いかぶさるように唇が重ねられ舌が逆襲するように奔放に攻め立ててくる。
より直接的な刺激を要求して訴える己に、ビッテンフェルトはビアンカのくたりとした体を抱き寄せると楔のように打ち込んだ。
「すごいな・・・。大して何もしてないのに。・・・簡単に入っちまった。」
「・・・そんなこと・・・わざわざ言わないの。」
「品がない?」
「情緒が・・・ぁ・・・ないわ。」
口でそう言いつつもビアンカの体は性急にさらに強い快楽を求めて動き始める。
「どっちの方が・・・情緒がないんだか・・・」
突き上げてきた快感を深く味わい、さらに奥までつながる様に腕の中の白く輝く体をきつく抱き寄せる。
二人の熱に溶かされたのか、『水面』がゆっくりと波打った。
**********
ビアンカはまだけだるい体をベッドの上で軽く伸ばした。ビッテンフェルトはビアンカをバスルームから運んだ後、溶融剤とやらで『後始末』に励んでいるらしい。
(もう眠い・・・。先に寝ちゃお・・・)
欠伸をしつつ寝返りを打ってふと視線を変えるとベッドサイドに置かれた携帯が目に付く。ビッテンフェルトのことだから、近日中に『知恵袋』に何がしか『情報の伝達』を図るだろう。そう思いついたビアンカは端末を取り上げた。
「ゼラチン物質に注意喚起」
それだけ打ち込み送信ボタンを押すと携帯を放り投げる。
黄玉色の瞳の男にはそれだけで意図するところは伝わるはずだ、そう思うとまどろみから熟睡へとビアンカの意識は転がり落ちていくのだった。
<END>