番外編(2)  我、凱歌を望み・・・・     (蒼山史樹)







「おやすみなさい、ビアンカ」
ビアンカに拾ってもらったタクシーに一人乗り込んだフィリーネは別れの挨拶をした。

食事中からミュラーのその後が気になって仕方なかったので、同じくタクシーで帰るというビアンカに同乗してビッテンフェルト家へ引き返しても良かったのだが、なんとなく惨劇の現場に彼はいないような気がした。それはつまりビッテンフェルト家が従来の形を取り戻したことに繋がるのだが、あの現場がたった数時間で本当に原状回復を果たしたのかどうかは首を傾げざるを得ない。
フィリーネは膝の上に乗せた紙袋にちらりと視線を走らせた。
中身は、お腹を空かせているであろうミュラーの為に店員に頼んで包んでもらった本日のデザートとメインの肉料理である。当初はデザートだけを包んで貰う心づもりだったのだが、すぐにメインも追加し、ビアンカもそれに倣った。
お互い、良心が痛んだ結果であろう。
しかし、ビアンカのビッテンフェルトはともかく、ミュラーはあの時明らかに酒気を帯びていた。泥酔状態という単語がフィリーネの脳内を駆け巡ったものだが、それは決して杞憂ではない。

「あんなミュラー元帥は初めてよね〜」
女性二人で入ったレストランで、言いながらビアンカはメインの肉料理をつついた。
まるで食欲が無いといった様子である。
『あんな』というのがアルコールに汚染されたミュラーのことだとは言われずとも察しが付いた。だが、どんな反応をしていいのかわからない。しかし、あの姿を反芻すると、フィリーネはショックだった。あまりにも無様……そうとしか形容出来ないからだ。
「ね、許してあげなさいよ」
「どうして……?」
「男も女もそんなものよ。どんな人間にも表には出ない真実があるってことよ」
「じゃあ、ビアンカはあれがナイトハルトの真実だっていうの?」
「そうじゃなくて……!言い方が悪かったわ、謝る。誰でも普段から何某かのストレスをため込んでいるってことよ。だから、何かの拍子でタガが外れることもあるってこと。貴女だってああいう状態の人、見たことあるでしょ」
黙って頷くしかなかった。
確かに、軍部内での宴会などがあると必ず一人はああいった状態に陥ってしまうことは経験済みだ。今までは他人事だった。が、今回はそうではない。
「一国の元帥ともなると色々あるわよ」
「それは私にだってわかるわ。でも、ビアンカは私にそれを許す器量が無いって言いたいの?」
「だってベルだもん」
明確に言われなくとも言葉の意味を正確に捕えたフィリーネは無意識にぐっと背筋を伸ばし、一瞬言葉に詰まった。
「ど、努力はするわよ。どうせ私はお堅いわ」
ややムキになってぷいとそっぽを向けると、正面の幼馴染が意味不明の笑みを浮かべている姿が視界の端に飛び込み、フィリーネは慌てて矛先を変える。
「でも、どうしてああなっちゃったのかしら」
「さあ?」
躊躇いなく首を捻ったビアンカが印象的だった。

果たして、フィリーネの乗ったタクシーの行先はミュラーの官舎である。
家主は帰っていないと踏んで予約していたホテルにそのまま帰るという手もあったが、やはり気になった。お土産もあるからと自分自身に理由付けたが、それは勿論口実でしかない。
やがて実際にミュラー宅が視界に見え隠れしてくると、案の定、部屋に明かりはない。
「やっぱりまだ帰ってないか……」
だが、警衛の兵士に土産の品を言づけてこのまま引き返すしかないと一抹の寂しさを覚えたその時、前方に人影が見えた。
月影に照らされたシルエットには確かに見覚えがあった。
気づいた時にはタクシーを帰していた。
「ナイトハルト!」
夜のしじまを憚って出来るだけ小さな大声で人影に向かって駆け出すと、街灯に差し掛かった砂色の頭がこちらを向いた。
「フィリーネ?」
先方も瞬時に見知っていると判断したのだろう、静かだがよく通る明確な言語が耳を打つとフィリーネは駆け出していた。
「こんな時間にどうしたんだ?もうホテルに帰ったのかと思ってた」
街灯の下で向き合う二人のうち、まず言葉を発したのはミュラーだった。
「気になったから、ビアンカと別れてこっちに来てみたの。まだビッテンフェルト元帥宅で片付けしてるかなとも思ったんだけど、何となくこっちかなって思ったから」
「ビッテンフェルト元帥のお宅はキレイに片付けてきたよ。思いがけない久々の重労働だった」
おかげで酔いも抜けてくれたと続けたミュラーの、文節毎に発される呼気には未だ熟成したアルコールの気配が潜んでいたが、ほぼ素面に近いといっても良いだろう。いつものミュラーである。フィリーネは人知れずほっと胸を撫で下ろした。
しかし、
「それにしても深夜に女性一人で訪ねて来るなんて、いくら警衛の兵士がいるとはいえ危ないだろう」
というお小言がミュラーの口から出ると、一転、先ほどの醜態は何であったのかという疑問が改めてフィリーネの胸に去来する。
「これ!」
それでもビアンカの戒めの言葉が同時に脳裏を過ったので、自分の思いをぐっとこらえて質問の代わりに持参した紙袋をミュラーの眼前にややぶっきらぼうに掲げた。
「お昼から何も食べてないんでしょ。ビアンカと食べたお店で包んでもらったの。お肉が柔らかくて美味しかったし、デザートも甘いのにさっぱりしてて最高だったわ」
本当は料理の味に関しての記憶はほとんどないに等しかったが、そうでもしないとミュラーに感じた幻滅が口をついて出てしまいそうだからである。
「それは美味しそうだ」
何も知らないミュラーの砂色の瞳が柔らかく細められた。
潤んでいるように見えるのは、決してフィリーネの行動に感激しているのではなく、すきっ腹にこれでもかと取り入れたアルコールのせいであろう。
「でも、こんな時間に食べたら身体によくないかもしれない。だから」
明日温め直して食べればいいという提案はあっさり却下されることとなる。
「たまにはいいさ」
ミュラーはそう言いながら、差し入れ主の手からさっと紙袋を奪い取ると中身も確認せずに自身の右手にぶら下げてしまった。そして、空いていた左手を当然のように自分とは別の左肩に廻すと、フィリーネもまた、それが自然であると云わんばかりに何の抵抗をすることもなく従った。
熱をはらんだミュラーの大きな手は温かいを通り越して熱いくらいだったが、フィリーネは小さな溜息を一つ漏らすだけで許してやることにした。

*****
翌朝。
雲一つない好天に恵まれた外界とは裏腹に、フィリーネの心は沈殿していた。
傍らで、未だヒュプノスに身を委ねる『麗しの君』を尻目に、全身を使って体中の酸素を吐き出すと、後には大きな脱力感だけが身体を支配した。カーテンから漏れる麗らかな日差しが妬ましい。

昨夜のミュラーは、レンジでお手軽に温め直したお土産を嬉々満面と平らげるや否やベッドに入るのももどかしいといった様子で眠りに落ちてしまった。あとに取り残される格好になったフィリーネは、夜遅いということもあり、勝手知ったるなんとやらで軽くシャワーを済ませると、自分の指定席であるミュラーの隣で早々に眠りについた。
果たして、異変が起こったのは明け方である。
奇妙な物音に睡眠を中断せざるを得なかったフィリーネが、手元にあった時計に目を遣ると、時刻は午前4時。気のせいかカーテン越しの空も白み始めているようだった。
何事かと物音のほうに視線を走らせると、そこには眠りの世界に没頭するミュラーの姿があるだけである。
だが、フィリーネは我が目を疑った。
あろうことか、異音の発声点はミュラーその人であったからだ。
所謂イビキ。
物音、怪音を通り越して騒音といっても過言ではない。
瞬時に昨夜ビッテンフェルト家で繰り広げられた醜態が脳裏を過った矢先、ミュラーが発する騒音の原因をフィリーネは関知した。
過去において、在籍する同盟軍内でもパーティと云う名の飲み会において、酔いつぶれて醜態を曝した挙句にその場で寝入って程無く盛大なイビキを掻き始める兵たちを何人も目撃してきた。だがしかし、最近ではそんなパーティにお目にかかる機会も激減していた。正直なところ、フィリーネには願ったり叶ったりであった。何故なら、仕事のストレスのいくばくかはこういった限界を知らないパーティに寄るものだと考えていたからである。
そうであるのに、デジャビュよろしく再び遭遇する羽目になろうとは!それもごく限られた貴重な私生活において!!
「……」
この気持ちの形容の仕方をフィリーネは知らない。
気づいた時にはミュラーの鼻を摘まんでいた。
浅い呼吸の中、無酸素状態に耐え切れなくなったイビキ主が咳込みながら薄らと覚醒すると、眼前には不機嫌なフィリーネの顔が飛び込んでくる。
しかし、意識の半分以上は未だ夢の中である。
ミュラーは無意識にフィリーネを組み敷いた。
いつものごとくであるとお互いに暗黙の了解で、その先の展開は決まっている……筈であったが、今朝ばかりは勝手が違っていた。
ミュラーの顔面に形容しがたい痛みが走った。
思わず緩んだ表情を引き締めざるを得ない程には痛かった。
「ありえない!」
フィリーネが両手でミュラーの両頬をつねったのだ。
思いがけない激痛と言葉の前ではいかなミュラーとはいえ、覚醒するしかなかった。
「昨日と今日とで初めて思い知ったわ」
「○×▲※☆■◎#……」
ミュラーの口から発せられる抗議の声は、いびつな形に歪んだ顔面同様に聞き取り困難だ。
「幻滅という言葉の本当の意味をね」
フィリーネの言に驚き慌てて思い切りかぶりを振れば、両頬に何とも云えない痛みが走る。
「幻滅って……フィリーネ……!」
「だって、どうやったらあんな状態になるのよ。さっきだって……」
その先は憚られた。『イビキ』という単語を使いたくなかったからだ。
「昨夜のことは悪いと思ってる」
「だったらどうしてああなったのか説明してくれる?」
「それは……」
ミュラーは口ごもった。
何故ビッテンフェルト家のキッチンをメチャクチャにしてしまったかの経緯は説明できるが、自身が泥酔状態に陥った本当の理由だけは絶対に語りたくはなかった。
「じゃあ、お土産の味は覚えてる?」
「それは覚えているに決まってる。君が言った通り、美味しかった。それ以前に君が持ってきてくれたことが嬉しかった」
「ふうん」
不満げに頷きながらも実は内心まんざらでもないフィリーネである。
「だから……」
この頃のミュラーは油断も隙もない。
気づけば、仲直りとばかりに顔を近づけてきた。
だがフィリーネは全力でそっぽを向いてやる。
視界の端に、拾われてきた犬のように眉を下げる砂色が写り込んだが、構わなかった。温情をかける代わりに、
「だったらまずはバスルームに行くことをお薦めするわ」
ビアンカには許してやれと云われたけど、頭では理解しいても感情がついていかない。その上、こういう時の彼女は素直である。思いと言葉が直結するのだ。
負け犬のようになったミュラーがすごすごとベットから降り始めるのに要した時間は僅かに数秒。
フィリーネの本気が本物であると悟ったのもあるが、何より、泥酔に至った本当の理由を口にするのがミュラーのプライド許さなかった。家庭人としてのビッテンフェルトの優秀さに嫉妬した自分を彼女に知られるのが嫌だったのだ。
(思いがけなく気を許してしまった俺の負け)
フィリーネとビアンカの関係が思わぬ繋がりのおかげで修復され、多少有頂天になったのかもしれない。ビッテンフェルトに飲んでろと云われて、後先考えずに空腹に酒を流し込んでしまった。
ベッドから寝室の扉までの短い距離の中で、海より深い後悔の念が襲ってきたが後の祭りである。

(やってしまった……)
寝室へと続く扉を閉めたミュラーは頭を抱える。
もはや何に対しての慙愧の念か容易に解明できなかった。
とにかく自分は『やってしまった』のだ。
戦時は良将として敵方にも認められたほどの彼であったが、今や堅牢な牙城と化したフィリーネをどうのように攻略すべきか図りかねた。
しかし、ミュラーの思案は間違った方向に進んでないのは事実でもある。
この先も彼女との良好な関係を望むのであれば、まずはそこから懐柔せねばなるまい。
廻らない頭を廻すべく、バスルームへの道を前進するミュラー提督であった。

その後、暖かい水流と共に諸悪の根源をきれいさっぱり洗い流したミュラーが、己の奮起により態度を軟化させたフィリーネの手に掛かった『朝食』と云う名の罰ゲームに挑戦することになるのだが、それはまた別の話である。


<END>



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