隣の花は赤かった





どちらからともなく飲もうという話になった。
「さっきも言ったが今日は何も出ないぞ」
「構わないよ」
そんな会話をミュラーと交わしながら開けたリビングのテーブル上にはコーヒーカップが2つ。
「来客か?」
「さあ」
キスリングは首を傾げつつも、であるならばルシエルは帰宅しているはずだという結論に至る。
「さっきのあれは撤回かもしれん」
「は?」
「美味いものにありつけるかもしれんということだ」
美味いもの、それはすなわちルシエルの手料理。
キスリングはミュラーなどお構いなしにリビングを後にした。ルシエルは自室にいるだろうと踏んだからだ。

キスリングの手がノックも面倒くさいといった様子でドアノブに掛けられ、扉が開かれる。
「おい、ルシエル。帰ってるなら何か……」
作ってくれないかという要望を述べる筈だった口は志半ばにして、その動きを停止した。
そこには下着姿で両手にワンピースを掲げる女性がいた。しかし、それは部屋の主でもある銀髪に紅い瞳を持つ彼の唯一の女性ではない。
だったら一体何者なのか。
それを判別するが早いか否か、突然の来訪者に驚きを禁じ得ない女性の青い瞳とキスリングの黄玉が邂逅した。
一瞬とは名ばかりの長い数瞬が過ぎていく。
そして、それがフィリーネだとキスリングの脳が判断し終えた時には既に遅すぎた。
「キャーーーーー!!」
悲鳴と絶叫を足して二で割ったような甲高い声が官舎に木霊した。

それより少し前。
キスリングが去り、一人取り残されたリビングでミュラーはソファに腰かけた。
テーブルの上には2つのコーヒーカップ。
よく見れば、両方のカップにうっすらと口紅の跡があった。
それにしても、よく見知った同士とはいえ先客の残したものを片づけもせずリビングを飛び出していくとは…。
ふと腕の時計に目をやれば、夜の9時を廻っている。
キスリングとてルシエルとゆっくり過ごせる夜などそうないだろう。
「今日は帰るべきかな」
そんなことを思いながら独りごちた時、何処かで聞き覚えのある声がミュラーの耳朶を打った。
しかも悲鳴だ。聞き覚えあるなしに尋常ではあるまい。
反射的に席を立つと、声の方向に自然と体が動いていた。

「ちょ!ギュンター、何やってるのよ」
フィリーネの悲鳴に部屋の奥にいたらしいルシエルが慌てた様子でその姿を見せると、フィリーネがすかさずルシエルの背後に身を隠す。
「何って…」
漸く解放された喉から声を絞り出したキスリングだが衝撃に二の句が継げない。
そうこうしていると、女性の悲鳴に驚いて駆けつけたミュラーがキスリングの傍らから室内を覗き込み、こちらも絶句する。
それもそのはず、砂色の瞳にまず飛び込んだのは、紫のキャミソールにお揃いのショーツを身に着けただけのルシエルの赤裸々な姿だったからだ。
そして、次に視線が動いた先にはルシエルの背後に隠れるフィリーネ。しかも、こちらも下着姿のようだ。
「な…」
今や木偶人形に成り果てた男どもに代わってルシエルが声を張り上げた。
「とにかく、出てって!」

静寂を取り戻した官舎内のリビングではキスリングとミュラーが向い合せにテーブルを挟み、何処か疲労困憊した様子でソファに腰かけていた。
会話はない。
あの後、操られるように扉を閉めた二人はドアを背にすると黙ったまま顔を見合わせ、扉越しにルシエルから簡単な事情説明を受け、すごすごとリビングに戻ってきた。
混乱する頭を抱えながらも聞いたところによると、どうやらルシエルとフィリーネは勤務後に待ち合わせて買い物を楽しんできたらしい。そして、せっかくの機会だからと二人で戦利品のお披露目会を兼ねたプチファッションショーなるものをルシエルの部屋で繰り広げていたというのだ。
「お前、何にも言わなかったよな」
キスリングがポツリと漏らし、疲れた顔を上げた。
「は?」
ミュラーも呼応するように顔を上げる。そこにも疲労の色が見て取れた。
「フィリーネのことだよ。今日ルシエルと約束してるなんて言ってなかったじゃないか」
「それはお前だって同じだろ。少なくとも俺は聞いてない」
「知らんよ。俺だって聞いてなかった」
「そうか…」
「そうだよ…」
再び会話が途切れ、静寂が流れた。
官舎内に設えられた空調のモーター音がやけに大きく響いているような錯覚を覚えたが、気のせいではあるまい。
何処かから犬の遠吠えが聞こえてくる。
それには得体のしれない哀愁と寂寥が感じられた。
「お前さ」
おもむろに、だが呟くように口を開いたのはミュラーだ。
「ん?」
「お前、見たのか?」
「は?何を」
「だから、彼女を」
本当はフィリーネの下着姿を見たのかと詰問したかったミュラーだが、さすがにそれをそのまま口に出すのは憚られた。
「そういうお前こそ、見たのかよ」
だが、こういう時の意思疎通は快適なようで、それ以上説明しなくともキスリングは分かってくれたようだ。その証拠にこうして反対に質問を返された。
「まずは俺の質問に答えろよ」
ミュラーの砂色の瞳が僅かに光る。
「嫌だね。お前が答えろよ」
呼応するように黄玉も輝いた。
「……」
「……」
数秒のにらみ合い。
二人の周囲の空気が硬質のピアノ線のようにピンと張りつめた。
どちらも先陣を許さない体だ。
双方とも先に真実を言ってしまえば負けるような気がした。
しかし何に敗北するのか。
それは、この輝かしい軍歴を誇る二人にさえ分からなかった。
それでも鉄壁はこの期に及んでも鉄壁なのか。
先に諸手を挙げたのはキスリングだった。
「…淡い…グリーン…だった」
鉄壁から視線を逸らすと呟くように漏らした。
「やっぱり見たんだな」
ミュラーが上目づかいに確認する。
「俺は『フィリーネが』とは言ってない」
敗北は認めたくない。だからキスリングは食い下がった。
「嘘を吐くな」
「どうして分かる?」
キスリングは挑戦的にふふんと鼻を鳴らすと、これもまた上目遣いに鉄壁に問う。
そんな鼻持ちならない彼の言い草に、瞬間、ミュラーの中で何かが切れた。
「サンダルフォン大佐は紫だったではないか!」
言ってしまってから鉄壁と謳われた元帥はひどく後悔した。したが、文字通り後の祭りでしかなかった。
「ミュラー、お前も見たんだな」
二つの黄玉が禍々しく輝いたのをミュラーは見逃さなかった。
だがそんなものに怯んでいる場合ではない。
「卑怯だぞ!それでは誘導尋問ではないか」
「誘導尋問?はっ、何がだ。ミュラー、お前が先に問うてきたのではないか。俺は答えてやった」
「答えてやっただと?キスリング、お前、何様のつもりだ。」
「何様も何もあるか。人の女の下着姿見といて!」
キスリングはその場で勢いよく立ち上がった。
先刻からそのままのコーヒーカップも釣られて一つカチャンと跳ね上がった。
「それはこっちのセリフだろう」
抑えてはいるが熱のこもった声と共にミュラーもすくと立ち上がる。
一直線に交わった二対の瞳は見えない光線を放ち、僅かの間火花を散らし合った。
しかし、やがてそれは音もなく消失し、二人は同時にドカリと其々のソファにもたれる様に身体を埋めてしまった。
(俺は何をやってるんだ)
二人同時に天を仰ぐ。お互い、自身に呆れを感じずにはいられなかった。
それでも、奇しくも全く同じことを胸中で思ってしまったことは誰も知らない事実である。
そもそも今回の一件は不可抗力であり、云ってしまえば事故である。
無防備にもプチファッションショーを決め込んでいたルシエルとフィリーネを責めるならまだしも、自分たちが争う謂われはない。
だが、当然のことながら、この二人に女性陣を責める勇気はない。
しかも、自分たちの争いの原因。
何故、己の恋人の下着姿を見られたことでこれほどまでムキになってしまったのか。
まったくもって…
「情けない…」
男二人、示し合わせたかのようにシンクロした言葉は高い天井に吸い込まれ霧散した。
(それにしても…新鮮だったかもしれない)
それぞれの脳裏に相手の恋人の赤裸々な姿が鮮明に蘇る。
図らずも胸中で同時に思ったことであったが、先方には口が裂けても言えまいとお互いを盗み見た。
先方が今何を思うか、どちらがどちらも計り知れなかった。
そして彼らは更なるシンクロを示す。
(隣の花は赤く見えるというのはこういうことか…)

リビングの外、ルシエルの部屋からは男たちの隠された胸中など知るべくもない女性二人の楽しげな声が漏れ聞こえてくる。
彼女らはいつ果てるとも知れない幸せな時間<とき>を過ごすのだった。

<END>

Heaven's Kitchenのすぎやま由布子様へ捧げます。
今回もすぎやまさん宅のルシエルさんと隊長をお借りして書かせて頂きました。どうも私、「胸」関係の話から離れられなくなっている模様です(笑)そして、今回何がしたかって、男二人に見た見ないで低次元の争いをして欲しかっただけなんです(汗)帝国を支える元帥と親衛隊長でありながら、裏ではこういうおバカなやり取りをしているんだよ、きっと…と妄想したりして。そんな妄想の犠牲となってしまったすぎやまさんちのお子さま方。本当に申し訳ないと思いつつ、押し付けさせていただきました。今回も快く受け取ってくださってありがとうございました!楽しかったので、また是非書かせてください!!(懲りてねーw)
そしてすぎやま由布子さんが書いてくださったボーナストラックはお話はこちらから。