祝 賀 (2)







ふうと心地よい溜息を一つ漏らし傍らに向き直るとトパーズの瞳と邂逅した。
「この後、少し付き合えよ」
その瞳の持ち主キスリングはそうとだけ言い置くと、ミュラーの返答を待たずに背を向けてしまった。
「おい」
手を伸ばして引き止めようとしたがそれも叶わず、その広い背中は有無を云わさず人いきれに紛れていった。

「お前な、俺にも都合ってもんがあるんだ」
キスリングに連れてこられたバーの一角でミュラーは誘い主に不平を漏らした。
「でも着いてきたじゃないか」
「断ったんだよ」
祝賀会の後は他の元帥達と「海鷲」にて飲み直すことになっていた。これは前々から決まっていたことだった。だが、断った。
この場合、断るべき誘いの相手はキスリングの方だったかもしれない。おそらく彼の方も先約を言えば無理にとは言わなかっただろう。だが、あえてミュラーはここまで何も言わずキスリングに従った。
「何故だか知らないが引っ掛かった」
「あ?」
「俺を誘った時のお前の様子が気になったんだよ。だから・・」
こちらを優先した。
しかし、それも先約が話せば分かる相手だったからだ。案の定、快くとまではいかないものの次の機会を絶対条件として先方は解放してくれた。
キスリングにしてもミュラーの今夜の予定は何となく想像がついていた。
だから、はなから彼を誘うつもりなどなかった。
だが、こうして誘ってしまった。
口にしてしまってから、改めてそれを思い出したのだが取り消そうとは思わなかった。今日でなければ機会を逸してしまいそうな気もしたからだ。
「ほう、察したのか」
「察するさ。で、用件は何なんだ」
しかし内容までは察せなかったかとキスリングは気取られないようにミュラーをチラリと見遣ると本題を切り出した。
「俺も回りくどい言い方は好きじゃない。だから単刀直入に言うが・・・」
そこで一度言葉を切り、今度は堂々と相手の砂色の瞳を正面から見据える。
「止めとけよ、彼女は」
キスリングが言い切った言葉。そして、自分を見たいつになく真剣な黄玉の表情。
ミュラーは一瞬、そこに込められた意味の全てが理解出来なかった。
「お前、何を・・・」
言ってるんだという言葉は、しかしミュラーの中に飲み込まれる。
今夜の祝賀会での出来事。
昨夏の出来事とそれに連なるミュラーへの処断。
そしてキスリングが自分を誘ってきたタイミング。
ミュラーは思わず吹き出した。
意味ありげに自分を誘い、豹にも猫にも例えられる瞳に強い光を宿しながら何を言うかと思えば、そんなことか。
「ないよ。それはないから安心しろ」
ミュラーは大仰に手を振りながら、彼固有の笑顔と共にそれを否定する。
キスリングにはその笑顔の涼やかさ加減が、自分の今の気持ちと薄暗いのバーの趣と比較され、ひどく異質なものに見えた。
正直、いささか腹が立った。
「お前、俺が何を言いたいか分かったのか?」
「わかった。わかった」
ミュラーの笑顔は継続され、声には笑いの成分が含まれている。
「真面目に言ってるんだぞ。俺は」
場所柄、抑えめにしてはいるが、キスリングの声音には険が混じっている。
「柄になく心配してくれてるのかもしれないが、それはない」
リーゼンフェルト大尉とのことだろうと前置きして、ミュラーは言い切った。
しかし、キスリングは引き下がらなかった。
「お前も知ってるように、俺は職務上知り得たことは口にしない。どんなに親しい者に対してもだ」
「知ってる」
ミュラーは深く頷いた。
「それが例え公に認知されていることであろうとだ」
「それも知ってる。だからそういう意味ではお前とは会話にならない」
言葉の後半は、彼の周囲が彼を「帝国のゴシップ屋」と冗談交じりに評することに対してのアンチテーゼを含んだ軽口のつもりだった。
だが、この時のキスリングにはそんなことは関係なかった。
むしろ余計に腹が立った。
「ちゃかすな」
押さえ込まれた声の代わりに、キスリングのグラスがいささか耳障りな音を立ててテーブルに置かれる。
グラスの中で波打つ茶色い液体を目にした時、ミュラーは、自分の想像以上にこの同い年の僚友が自分のことを気に掛けていることに気づき、その笑いを収めると彼らしい柔和な表情は崩さずに、まずは詫びた。
「ちゃかすつもりはなかったが、そう取ったのなら済まない」
素直にそう言い、キスリングの返答を待たずに言を繋いだ。
「だが、嘘ではない」
「・・・・・・」
ライトダウンされた砂色の瞳と黄玉の瞳が正面から交錯する。
数瞬の後、先に視線を外したのは砂色のほうだった。
「お前には昨年の一連の出来事と今夜のことを関連させて想像させてしまったのかもしれないが、それは違う」
「何が違うんだ。俺がお前とあの大尉がどうこうなってるとでも想像したというのか」
「お前はさっきそういう意味でやめろと言ったのではないのか?」
「違うね」
「じゃあ、どういう意味で・・・」
ミュラーが目をしばたたくと、キスリングは息を一つ大きく吐き出した。
「俺は昨夏の件を知っている。これは言わずもがなだ。そして、事の起こりも結末もお前が皆に報告した通りだと思っている。一部、想像の翼を広げた輩もいたらしいが、それは絶対ないと思っている」
それは昨年、ミュラーの処断を巡る場において、以前メックリンガーが彼に直接物申したように、女性と逢瀬をするために職務を投げ出したのではないかという意見があったことを意味している。
因みにこの時点でミュラーの報告を聞いていたメックリンガーは、それは想像の産物でしかなく、ミュラー元帥の言に偽りはないと断言している。
「それは・・・すまないな」
「いや、感謝されるほどのことはしてはいない」
ミュラーが苦笑を浮かべると、相手は口元を僅かに緩めた。
今夜この場で初めて見るキスリングの微笑みだ。
しかしそれも僅かなもので、彼は瞬く間にその表情を引き締めた。
「だがな、ミュラー」
キスリングは、よく聞けよと言わんばかりに一旦そこで言葉を切ると、
「お前、惹かれているだろう」
と、詰め寄るように言い放った。
思いも掛けないキスリングの言葉にミュラーがその双眸を見開くと、彼はまるでそれを予測していたかのように話を続けた。
「さっきも言ったとおり、俺はお前の言ったことは事実だと思っている。だが、それはあくまで事の顛末の外側の面でしかない。じゃあ、内側はどうだ。内面の真実は?」
「内面の・・・真実・・・」
「ああ」
キスリングが大きく頷き、うろたえる砂色の瞳を見つめる。
ミュラーの中でそれまでの様々なフィリーネとの出来事が過ぎり、同時にその時々の自分の感情が駆け抜けていく。
「キスリング。俺は・・・」
それに多少ではない困惑を感じたミュラーは二の句が継げなかった。
いや、口にしてしまえば、キスリングの放った言葉をオウム返しのように出さざる得ない自分を認めたくなかったのかも知れない。
そんな様子のミュラーを黙ってしばらく眺めた後、キスリングは
「まあ、いいさ。ゆっくり自分と向き合ってみるといい」
と呆れ気味に大きな溜息を吐くと、肩の力を抜いた。
しかしすぐに、はたと気づいたように付け加える。
「因みに・・・お前が彼女に惹かれているということを前提に言うと、俺は反対だからな」
「な・・・」
「問うつもりか俺に、お前が?何故だと」
その通りだった。
弾かれたように上げた顔の先には、硬質のトパーズが二つ存在していた。
「普通に考えれば分かるだろ。お前の立場、相手の立場。これには向こうの経歴も含む・・・だ」
「経歴」
「そうだ。彼女は革命軍のメンバーの一人だったんだぞ。よく肝に命じろよ」
そこまで言うとキスリングはおもむろに席を立ち、帰宅の準備を始めてしまった。
「待てよ」
ミュラーはコートに袖を通したキスリングを呼び止めた。
だが、何故彼を呼び止めてしまったのか。
それは呼び止めた本人もよく分からなかった。
しかし、代わりにキスリングがミュラーの身中を見透かしたように口を開いた。
「自覚がなかったようなので、今夜はあえて誘った」
「なら、そのままでも良かっただろう?」
「こういうやっかいなことは自覚しとかないと、後で足元をすくわれかねない。少なくとも俺はそう思う」
知らず深みに入り、のめり込み、本来の自分なら決して有り得ない行動も取りかねない。それはつまり、自身の築き上げた様々な物を無意識に自身で崩壊させる危険性も多分に含んでいる。
キスリングが言ってることはそういうことだろうと、ミュラーは瞬時に理解することが出来た。
「それで、お前は反対だと?」
「ああ」
そう頷くとキスリングは両の眼を細め、硬質な笑顔をこぼした。
「ミュラー、お前とは付き合いも長い。公私ともにな。だから、忠告してやった」
ミュラーはその笑みを拒絶するように視線を逸すと、口元を引き結んだ。
瞳に映ったグラスの中で透明の冷たい2つの塊が崩れ、軽やかな音を立てる。
そして彼の聴覚が、こちらに背を向けるキスリングの小さな足音を捉えた。
(あいつ・・・普段は物音はおろか、気配さえ感じさせないくせに・・・)
おそらくそれは、キスリングがミュラーに残してくれた猶予だろう。
しかし、再度呼び止める気力はなかった。
やがて、店内にこもった暖かい空気が僅かに動き、背後で古めかしい扉が閉じられる音がミュラーの耳朶を打つのだった。


<END>

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