落日より





「……かくて、ヴェルデーゼは聖なる墓となった」  エルネスト・メックリンガー

デュアル文庫版「銀河英雄伝説(落日篇・下)」より






いつしか雨足は遠のいたようだ。
大粒の雨が窓に激しく叩きつけていたのは記憶に新しい。
チラリと視線を遣れば、透明な反転のように水滴を一面にくっ付けた窓ガラスに夜の帳を背景にした己の姿が写り込んでいた。
やり場のない悲哀は時として人を魂の無い物体と成さしめるのか。
かろうじて現世と云うこの世に細い糸で繋がれた操り人形のような姿。今のナイトハルト・ミュラーが正にそうであった。
「まるで幽鬼のようだな」
遥か後日の、もしくは以前のミュラーが、その時窓辺に写った己を目にすれば、そのように形容したかもしれない。だが、今はただ、ひとかけらの感慨すらも浮かびはしなかった。
「閣下……」
後ろに付き従う部下の声が耳朶を打つ。
ミュラーは何事もなかったかのように前に向き直ると、歩を進めた。
限りなく深い慟哭の中であっても、彼は皇帝の名代として職務を全うしようとしている。やはりミュラーは皇帝の忠実な臣下であることに違いはなかった。
やがて、今や聖なる墓となった仮皇宮に設えられた目的の客室が眼前に迫ると、ミュラーは成長の過程で身体が覚え込んだ動作で扉を叩いた。
すると、見知った顔が彼を出迎える。何事かを察して―――と云っても用件は一つしかないが――――沈痛な面持ちで彼を出迎えたユリアン・ミンツが意識のどこかで認識されると、ミュラーはまずそこを訪れた目的を述べ、それから今後の帝国の意志を伝えた。
一つ二つの遣り取りの後に答礼すれば、ふと、ユリアンが背景にする窓外の闇に眼がいった。
本来ならば透化の役目を果たさねばならぬ窓ガラスに点々と足跡を残した雨粒が、漆黒の風景にモザイクを掛けてミュラーは知らず砂色の瞳を瞬いた。そして、やがて合った焦点の先には星空が覗いていて、先ほどまでの荒天と見事にすげ変わった快晴の夜空が容易に予測された。
満天の星空とはいかなるものか。
それを想像できる余裕は、今のミュラーには、無い。
これまでとなんら変わらない夜の後には、朝が来て日が昇り、再び闇の時間が訪れる。
そんなことに漠然とした思いが馳せられ、これまでもこれからも幾度も経験せねばならない一日という日常にうんざりする自分がいた。
しかし、皇帝が薨去した夜にそのような思惑を抱いた自分を嘲笑してやることも出来はしない。事の発端は何であれ、笑うという行為は結局のところ、不敬に値すると廻らない頭で判断したからだ。
果たして、今の状況の中で、例えミュラーが不可解な笑みを漏らしたとしても誰が彼を弾劾するだろう。自然は無意識のことであり、誰もが彼の人となりを把握しているのだ。
ともかく、全身を前後不覚の絶望と悲哀が満たして、全ての思考が停止寸前の危うい状況なのは確かなことだ。
そんな中で、ふと、ミュラーの脳裏に先ほど繰り広げられた不思議な光景が鮮やかに蘇った。
つい先刻、ローエングラム王朝第二代皇帝となったアレクサンデル・ジークフリードとミッターマイヤー元帥の長男フェリックスとの間に繰り広げられた約束の儀式である。
小さな手が、更に幼い手を取り、友情の誓いをしたのだ。
きっかけは本人達の意志には全く関することなく、親という大人によって与えられたものでしかなかったが、それから先はまるで幼い意思同士が通じ合っているかのように見えた。
「血は受け継がれ、歴史は続いていくのか……」
ミュラーは内心で居住まいを正すと、改めて目の前のユリアンに意識を移し、毅然として後日執り行われる国葬への出席を依頼し、踵を返した。
深遠なる宇宙よりも更に深い、悲哀と慟哭の中に、極僅か一点の希望を錯覚したような感慨に捕らわれる。
(全てはこれから始まるのだ)
そんな予感が己の心の最奥に発芽する瞬間を目の当たりにした。


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