Selfish Valentine 






渡された平たい箱は思いのほかずっしりと重たかった。
深いブルーの包装紙にシルバーのサテンリボンが特別な日を現している。
「ありがとう」
一言礼だけ言い置いて贈り主に背を向けると目的の場所を一直線に目指した。



「相変わらず忙しそうだな」
扉を二度ほどノックしたミュラーは先方の返答を待たずに執務室へと入り込んだ。
勝手知ったる…わけではないが、いつもの気安さで容易に全身を室内に滑り込ませる。
すると、デスクで書類に目を落としていたキスリングが目だけでゆっくりとこちらを見た。
いつもは丁寧に撫でつけられた赤銅色の髪が心なしか乱れ、黄玉色の瞳の下にはうっすらと灰色のクマが滲んでいる。
「悪戦苦闘って単語がぴったりじゃないか」
相変わらずの柔和な笑みを顔に浮かべながら、部屋の主の元へと歩を進めた。
「何の用だ?珍しいな」
「そうか?」
明日までに決裁を受けなければならない書類が山とあるのだ。それなのに時刻は夕方の6時を既にまわっている。今日は好むと好まざるに関わらず残業が確定したようなものだ。自ずと言葉には険が含まれ口調も鋭くなった。
だがしかし、相手はそれには全く動じる様子を見せずにニコニコと首を傾げている。
「ご機嫌伺い…といっても信じてもらえそうもないな」
「当たり前だ。仕事の話か。だったら後にしてくれ。今立て込んでいる」
「いや、そうではない」
「なら尚のことだ」
常日頃親衛隊長として沈着冷静を誇るこの男にはしては珍しく苛立ちを隠せないようだ。
そんな彼の様子を視界に入れながらミュラーは相好は崩さずに一言提案をする。
「少し休憩しないか」
「あ?」
「休憩しないかと言っている。さっきお前は俺に珍しいと言ったが、お前のほうこそ珍しいじゃないか」
「何が」
「軍服を脱げばいざ知らず、今の俺は帝国軍上級大将で、お前は帝国軍准将。そうだろ?」
「だからなんだ。用件なら手短に頼みますよ。上級大将閣下」
明らかに嫌みだった。早々にこの場から立ち去ってほしいらしい。
だがミュラーは平然と言葉を繋ぐ。
「あまりの忙しさに忘れてるようだが、軍ってのは階級社会だ」
「で?」
「上官の命令は絶対だろ」
「それはそうだ」
「つまり、俺は今お前に命令してる。ついでに付け加えるなら、いくら疲労の極致にあろうとも上官が入ってきたのにデスクに座りっぱなしで敬礼もなし。挙句の果てにはさっさと出て行けと云わんばかりのその態度だ。キスリング、お前親衛隊長だろ」
下の者に示しがつかないじゃないかと砂色の瞳が細められ、同い年の親衛隊長を見下ろす格好になる。
だが決してミュラーは怒っているわけではない。
長年の付き合いでそれだけは分かった。
おそらくこの男のことだ。内心で楽しんでいるに違いない。
その証拠に瞳の奥の奥で愉快そうに笑む彼を見たように思った。
それでも、此処は皇宮内に設えられた親衛隊長執務室という職場である。
キスリングは動きだけでも慌てた風を装い、どっかりと根を下ろしていた椅子から立ち上がり敬礼を施した。
重厚な執務椅子がガタリと小さな音を立てた。



「で、何だよ。用事って」
キスリングから手渡されたソーサー付きのコーヒーカップにはどす黒いと云っても過言ではない液体が入っていた。そこから漂う濃厚なカカオの香りがミュラーの鼻腔を刺激すると彼は思わず顔をしかめ、
「お前、本当に疲れてるんだな。真っ黒だぞ。このコーヒー」
わざわざ足を運んだ上級大将に対するもてなしがこれかと素直に毒づいた。
口をつけてみれば、案の定これでもかという苦みが口内に広がる。
「人の仕事を阻んだ報いだ」
言いながらキスリングも液体をすすると、ほんの一瞬だけその顔が歪むのが目に飛び込み、ミュラーの優越感を満たしてくれた。
「な、ひどいだろ?」
「ふん。疲れてる時はこのくらいがいいんだよ」
「相変わらずの負けず嫌いだな」
「いつ俺が負けず嫌いになったんだよ」
という反論は、眼前にすっと差し出された平たい箱によって中途で遮られた。
なんだこれはと決して受け取ることはせずにまじまじと見つめる。
「俺からの贈り物」
思わぬ言葉に猫のようだと例えられるトパーズの瞳を大きく見開いて相手を見遣れば、贈り主はいつもの屈託のない笑みを浮かべている。
「は?お前何言ってんの」
十代の頃からこいつを知ってはいるが、今まで一度もこんなことはなかった。
キスリングは旧友の思わぬ行動に驚くしか術がなかった。
「あれ?ギュンター・キスリングともあろうものが今日が何の日か知らないとでも?」
破顔したミュラーが何処かからかうように言ってのけると、キスリングは動揺を悟られまいと必死になりながらも、頭の中で必死にカレンダーをめくり始める。
そもそも今日は何月の何日だったのか。
先ほどまで大量の日付入り書類とにらみ合いをしていたにも関わらず、とっさに日付が出てこなかった。脳内が真っさらになったといっても過言ではない。
自分は今どんな表情をしているのだろう。
同時にそんな思考も頭の中を駆け巡った。
目の前で新たにミュラーの瞳が細められた。今度は心底可笑しいというように。
「まあ、いいさ」
肩をすくめながら、一つ溜息を吐いたようだ。
「疲れたときには丁度良い贈り物だ」
そう言うと有無を言わさず、綺麗に包装された箱を押し付けられた。
その箱はキスリングが想像していたよりもずっと重くて、手渡された瞬間には思わず取り落としそうになり内心でひやりとした。
「なんだ、これ…」
条件反射的に耳の側で箱を振ってみると、重量はあるが物体としては柔らかそうな何かがぶつかり合う何とも形容のしがたいくぐもった音が聞こえた。
「多分、チョコだよ」
鉄壁があっさり解答を示すと、キスリングの脳裏の日めくりカレンダーが今日の日付を燦然と輝かせる。
「あ!もしかして今日って…」
「思い出したか?」
「いや、確かそうだと思った。てか、何でお前から…」
認めたくない現実にキスリングはうーんと唸ってしまった。
「いいだろ。別に。世の中には友チョコなんてのもあるらしいしな」
「友チョコって…」
絶句した。
商業都市であるフェザーンのイベント商戦はすさまじい。
それまではお国柄、そういったイベント毎にはあまり積極的でなかった帝国の人間も遷都後はどうもそういった商業的戦略に乗せられがちであるようだ。今回のバレンタインも然り、その時期が近付くと街の盛り上がりと比例するようにあちこちでその類の会話を耳にする。だがしかし、如何にして買わせようかという魂胆が見え見えな此処の商業形態にキスリングはどうも馴染めなかった。だから、これまでも街が赤と緑のクリスマスで彩られていようが、青色で父の日をアピールしてようが、花屋の店先にドカンと色とりどりのカーネーションが雁首を揃えていようが乗ってやる気にはならなかった。むしろ、俺は俺が贈りたい時に贈ってやるくらいの心意気でいた。
それなのに目の前の旧友はいともたやすく「友チョコ」などという明らかにフェザーンの菓子業界が画策したであろう策略に乗っている。
「俺はそういうのは好きじゃない」
手渡されたばかりの箱を押し返そうとした。
「あれ、それって俺のことが嫌いってことか?」
ミュラーのけろりとした声が耳朶を打つとキスリングの中の何かが悲鳴を上げた。
「そういうことじゃない。そもそも好きとか嫌いとか、そういう問題じゃない」
「だったら受け取れよ」
「嫌だね。てか、気持ち悪いっつうの」
「気持ち悪いってお前…俺の気持ちを…」
途端、頭を抱えたくなってきた。
こいつは何をねぼけたことを言っているのか。
「大体、バレンタインってのはご婦人から殿方へ愛とかいうものを伝える日なんだろ。それが何で友チョコなんだよ。わけわかんねぇ」
「だって仕方ないだろ。贈る相手がいないんだから」
「なら、するなよ。そんなイベント。第一、お前男だろ。基本は女から男へ、だ!」
「だから友チョコだって。どうせ仕事で忙しいんだろうし、本命もいないんだろうなと気を使ったんだぞ」
「お前に気を使われるほど飢えてねえよ」
勢いで言ったものの、そこでキスリングははたとある現実に直面することになった。
いくら本人がイベント嫌いだとはいえ、確かに自分には贈り物をしてくれる特別な関係の女性一人さえ存在しないということを。
意図しない間が生まれ、沈黙が二人の周囲を支配した。
「ほら、いないんだろ」
短い静寂を先に破った鉄壁が鼻で笑ったように思えたのは気のせいか。
「だったらどうだというんだ」
「別に…」
「そういうお前だって浮いた噂の一つもないだろうが」
「だからさっきから言ってるだろ。俺にもいないんだよ。そんな相手は」
例え勘違いだとしても妄想だとしても、自分をせせら笑った相手を陥れようと返した問いに敵は何事もなかったかのようにあっさりと諸手を上げてしまった。
キスリングは我知らず奥歯をぎりりと噛みしめた。



「最初から素直に受け取ればいいものを…」
キスリングとミュラーは執務室の中央に置かれた小さな応接セットに向かい合って座っていた。
テーブルには新たに淹れなおしたコーヒーが二つと、真ん中に包装紙から出されたチョコレートが鎮座している。チョコレートはフェザーンでも指折りの高級店の品だ。
手を伸ばし一粒目を口に入れた瞬間、正方形の上品な濃紺の箱に入れられたそれの一粒辺りの単価を想像するのは恐ろしいことのようにキスリングには思われた。おそらくこの機会を逃せば食すことなど生涯ないだろう。それほどまでに美味だった。
「お前、よくこんなの買ってきたな。それも友チョコとかいうもののために」
二粒目を手に取ったキスリングがその形状と材質を調査するようにまじまじと目の高さまで件のチョコを掲げた。
「自分で買ったものじゃない」
美しい球体の向こうのミュラーが砂色の瞳をきょとんとさせる。
「は?」
慌てたようにチョコを下ろすと、あることに思い至った。
「そういえばお前、さっき『多分』って言ってたよな」
多分と云うことはこの男は中身を知らなかったということか。
であるなら、その実ミュラーには誰かチョコをくれる特別な相手でもいるとうことなのだろうか。だがしかしそれは先ほど彼自身が自ら否定したばかりだ。ならば…。
「貰ったんだよ」
「は…あ?」
どうも今日は驚かされてばかりだ。
キスリングらしくない素っ頓狂な声が大きく開かれた口から飛び出る。
「さっきさ、お前のところに来る途中で貰ったんだ」
おそらく皇宮に仕える侍女ではないかとミュラーは言い、個人的にかという問いにも彼はあっさり首を縦に振った。
「馬鹿か、お前」
そのご婦人はミュラーに気があったということではないか。好意を抱いているからミュラー個人にチョコを贈ったということではないのか。何よりこの高級チョコがそれを物語っている。どうでもいい相手にこんなものを贈りはしない。だのに彼はキスリングに友チョコだと押し付け、恥知らずにも今この場でお茶請け代わりに食しているのだ。
「仕方ないだろ」
「何がだよ。俺が納得するように説明してみろ」
「そもそも俺がそこを通り掛かったのはキスリング、お前のところを訪れるためだ。そしたら偶然そのご婦人と鉢合わせた。そして包みを渡された。それだけのことだ」
「そうとも限らんだろが。その女性は偶然お前と会わなければ、直接お前のところまで赴いて手渡したかもしれないんだぞ」
キスリングが披露した予測にミュラーが思案気に腕を組む。
意図的なのかそうでないのか。おそらくこの男の場合は後者であろう。
チョコの甘さだけではない要因がキスリングに頭痛を覚えさせる。
「それをお前は。少しは向こうの気持ちも考えろよ」
「しかし疲れにはチョコが良いと聞くし…そもそも俺はお前に手土産を持ってきてなかったから…」
野暮天もここまで来ると罪である。今初めて知った教訓だった。
「呆れてものも言えないね」
「言ってるじゃないか」
「物の例えだ!」
それにしても、こいつは以前からこういうやつだったのだろうか。違うような気もするが、そうだったような気もする。どちらにしてもこの場では答えが出ないことは目に見えている。
「またどうせ、笑ってありがとうとか言ったんだろ」
心底呆れたように言い放つと、
「よくわかってるじゃないか」
多少苦笑しつつもキスリングの正解を喜ぶように応える砂色のエリート。
「お前、そのうち刺されるぞ」
「実技には自信があるから心配ない」
あっけらかんとそう言って二粒目を頬張り幸せそうに顔を緩ませるミュラーを横目にキスリングもまた手にしていたそれを口に放り込む。
僅かの時間とはいえ体温で暖められた高級チョコは、本来の硬さを失い何とも云えない食感の悪さを口内に残したまま淡雪のように消滅していった。



<END>