もう、バカなんだから







 杯を重ねていると、時間を忘れてしまいがちなのはいつもの事だ。
だがこれだけ清清しい気分で酒を飲み交わせたのは何時振りだろう。
家にある酒を全て飲み干すのではないかという勢いであったキスリングを見送りながら、自らも深酒による睡魔が襲わないうちに携帯端末を手に取った。
お前の時には力になってやる、と言った手前、彼の奥方には連絡を入れておくべきだろう。

「はい」
「夜分遅くに申し訳ない、フラウ・キスリング」
「ミュラー提督。どうかなさいまして?」
「いや、キスリングがさっきまでうちに居たんだ。こんな遅くまですまない。
タクシー使うって言ってたから、もう少しすればそちらの官舎に着くと思う」
「了解しました。わざわざご連絡ありがとうございます」

 自分の軍務尚書辞任の事実は彼女の耳にも入っているはずだ。
それが本来のものなのか、気遣いから来るのかミュラーには諮りかねたが、彼女は何一つ変わりないかのように接してくれる。
さっきまでここで散々に詰っていったキスリングの姿がまだ脳裏に眩しい。矢張りこの二人は釣り合いが取れていると思う。
だから、ミュラーは自然に口をついていた。

「ああ、そうだ。大佐にも報告しておくよ。俺、結婚するから」

 たった一言で、彼女はすべてを悟ったようだった。
ほんの一呼吸分間が空いて、嬉しそうな明るい声がした。

「おめでとうございます、ミュラー提督。心からお祝い致します。今度お祝いを何かお送りしますね」
「ありがとう。気遣いは要らないよ、大佐。祝辞はキスリングからもう十分に頂いたしね」

 十分に、という単語に微妙なアクセントがあったのをルシエルは見逃さない。
おそらく、夫はミュラーの予定も何も関係なく彼の家へ押しかけた。そして今の今まで酒を飲み交わしながら、祝辞と称した言葉の刃を彼に浴びせたのであろう。
それが不器用なキスリングなりの心配の仕方なのは、ルシエルが誰よりも理解している。
直接ではないにしても、上官と部下。そして昔からの知己である。元帥と少将。古くからの友人。ルシエルの脳内で二つの関係性が巡った。
電話を切ると、丁度タクシーが家の外に止まる音がした。

「遅くなってすまない」

 ふらりと玄関口に現れたキスリングの顔にはあからさまなほどに疲弊が表れていた。
いつもの香水の香りは深酒によるアルコールの匂いにかき消されている。
出迎えたルシエルの脇を通り抜けて、シャワーを浴びに行こうとしたところで、鈍器のような言葉が背中に振り下ろされた。

「ばっっっっかじゃないの!!!!!!」

 只でさえ痛んでいる頭に、きぃん、と鋭い痛みが走る。
普段の状態だったら間違いなく、すぐさまルシエルに何かしらの制裁を与えることが出来るが、心身ともに疲れきっている今では振り向いて睨みを利かせるくらいしか出来ない。

「貴方ねえ、ミュラー提督にお祝いしに行くならそれなりの礼節をもって然るべきじゃない!?
いくら友人とはいえ、ミュラー提督は上官なのよ!?」
「知っている。だが今回は流石に見過ごせないだろう」
「見過ごすとか見過ごせないとか…小さい男ねえ」
「何だと?」
「フィリーネは確かに相対する敵であったことは事実よ。でも、今は違うわね。
既婚者である以上貴方もご存知の通り、誰が配偶者であろうと苦労はそれなりに付きまとうわ。
個人としての幸せを優先できる。
そんな時代を切り拓くという選択をしたミュラー提督に私は賞賛を送りたいわね」

 冷静に、的確に刺される事実に耳まで痛んできた。
耳を塞ぎたいのは、己が反省を自覚しているからでもあるのだ。
だが、彼が担う未来の苦労を思うとどうしても一言言わざるを得ない。
黙りこくったキスリングに、ルシエルは組んでいた腕を解いて、話題の切り口を変えた。

「大事な友人が結婚するというのですもの、いの一番にお祝いしたい気持ちはわかるわ。
私だってフィリーネのもとへ今すぐ駆けつけたい気分よ。
お祝いの品のひとつやふたつを持って……だというのに!貴方は!手ぶらで…いえ、ミュラー提督の御宅でそんなに酔うほどに呑んで!」

 事実を指していたルシエルの言葉の刃は若干違う方向へと向かっているようだ。
冷静だった言葉尻は徐々に熱を帯びてくる。

「…ミュラー提督とは私も約束したのに…410年物や名品が手に入ったからキスリングとおいでって言ってくれたのに…」
「……ああ、そういえば……」

 トパーズの瞳が思わず空を漂う。
確かにルシエルが言っていた通りの名品であったと思った。しかしそれどころではない。

「そういえばってことは呑んだのね!?私の分も!!!信じられない!!何よ!!馬鹿!」
「何よも何もねえだろ……まあ、あれだ、明日…いや今夜呑みに行こう。な?」
「今夜は無理。明日早朝訓練だもの」
「じゃあ昼。ビアガーデンでどうだ」

 ルシエルの怒りの方向は、自分抜きでうまい酒を飲まれたということに向いてしまった。
これが一番性質が悪い。酔っているときより性質が悪い。
キスリングの背に冷や汗が落ちたところで、ルシエルの態度が融解し始めた。
結局酒には酒である。なんて単純なのだろうか。と、思ったが、これ以上ややこしいことにしたくはない。キスリングはじっとルシエルの赦しを待った。 

「…昼に起きられる?」
「起きるためにもう寝よう。な」
「…大人しく寝かせてくれるの?」
「ビアガーデンなら夕方もやってる」

 赦しを請うたかと思えばこれだ。ルシエルは彼の手を振りほどいて、バスルームを指差した。

「寝るのは先にシャワー浴びてから。私は先に寝てます」
「わかってるよ」
「絶対わかってないでしょ…」

 ベッドの上で眠気と戦いながら自分を待っていることくらい簡単に予想はつく。それは言ってはならないことだ。
彼女のすべてを手に取るように理解出来ること。彼女もまた同じだ。ミュラーもそうなれるといい、心からそう願う。
ルシエルの呆れきった呟きを背に受けながら、ようやく彼の休日は幕を開けるのだった。




<END>

お題提供元: toy

Heaven's Kitchen」のすぎやま由布子様より頂きました。
尋問(3)のその後、キスリングサイドのお話で拙宅でもおなじみになって参りましたルシエルさん登場です。さらっと結婚することを告げるミュラーとさらっと話題がお酒にシフトするルシエル姐さんがたまりませんw