理由(わけ)もなく・・・敗北感





 その日の会議はなかなかに波乱含みだった。工部省の所属からいまや摂政退后ヒルダの側近になっているビアンカからの軍部への要求は辛らつで容赦なく、また軍部代表たるミュラーには耳の痛い点が多かった。
 確かに言わんとするところはわからないでもない。『外敵』などもはや存在しない現在において巨大な軍事力はむしろ新しい帝国の健全な発展の足かせとなりつつあることはミュラーにも理解できる。これがブラッケ民生尚書のように半ば決め付けるように言われれば軍部とて反論のしようもあるのだが、穏やかに理論的に詰められると言葉を飲み込むしかなくなる。

 ミュラーにしては珍しく注意力が散漫になっていたのだろう。目の前にはいつの間にか件の彼女がいる。少々あわてて道を譲ろうとして避けるが、なぜか相手も同じ方向に動く。2度3度と同じことを繰り返した後、どちらからともなく笑みが出た。
「これは、大変に失礼した。フラウ。」
「こちらこそ。どうにもミュラー閣下とは思考が似ているのでしょうか。」
先ほどとは別人のように人懐こい笑みを見ると、先の人物と同じとはとうてい思うことができない。会議で昼食もまだだったのでどちらからともなく、そういうことになった。

「先日はうちの相棒がまたご迷惑をおかけしたようで。」
カップの紅茶を一口飲んだ後でビアンカが微笑みながら言い、それを聞いたミュラーはまた少し苦い表情になった。先日、たまさかミュラーはビッテンフェルトと海鷲で飲んだ。その後ワーレンが見つけたとか言う店をさらにはしごしたのだ。
 隠れ家をイメージして作ってあるその店はあえて調度や設えをコンパクトに作ってあり、長身のビッテンフェルトは不慣れなその場で酩酊し、鴨居にしたたか額をぶつけた。酔った勢いでひと暴れしそうなビッテンフェルトをワーレンとなんとか引き出して介抱し、自宅まで送り届けた嵐のような記憶が蘇ってきた。
「ああ。まぁ。いつものことだからね。こちらも不本意ながら慣れてしまったというか。」
そう穏やかに笑ってみせたものの内心では今でも思い出すと我知らずに拳を握り締めたくなる。
(騒ぐのは勝手だ・・・。だけど毎回巻き込まれる方が厄介だってことをあの人はそろそろ学ぶべきだ!無理だろうけど。)
「ミュラー閣下、ここ。怖い皺がよってますよ。伸ばして、伸ばして。」
「え?」
思わず額に手をやって、われに返り相手を見ると蜂蜜色の瞳が笑みで揺れている。
「閣下・・・。本当にご迷惑をかけてすみません。」
口では謝罪しながらも、押さえきれない笑いに肩が震えているのを見て、ミュラーは脱力する。こちらには迷惑な醜態も彼女にかかれば愛嬌なのだ、と思えば気にするほうが馬鹿らしくもなる。
「あ・・・ははは。ぜひ内密に。ところで先日そのお礼ということでビッテンフェルト閣下に頂いたケークサレなんだけどとても旨かったよ。どうもありがとう。しかしフラウはこれだけ多忙なのにあんなことまでできるなんて。本当にあの人にはもったいないよ。・・・と、これも内密で。」
 迷惑の礼ということで翌日昼食にとケークサレを受け取った。甘みを控えたそれはミュラーの口にもよくあった。大きさも量も手ごろでお返しを特に気遣う心配もない。ちょうど書類仕事が立て込んでいてランチに出ることもできない状態だったので渡りに船だった。迷惑をかけなれている成果なのか、ビッテンフェルトはその手の行動に実にそつがない、ということを知ったのは戦いの日々が終わってからだ。冗談に任せて笑ってみたミュラーだった。だが、ビアンカはこれまた瞳に少々人の悪い笑みを浮かべている。
「あ。私が作ったことになってるんですね。」
「え?あれはどこかで買ったのかい?閣下には内緒のほうがいいかな?」
「いえ。手作りは手作りで間違いないんですが。作り手は私ではありません。」
「え?じゃ・・・誰が?・・・え?まさか??」
「はい。そのまさかです。内緒ですが。我が家では基本料理はあっちが作るんですよ。もっとも掃除とかは苦手みたいですけど、ってこれは見たまんまなんでしょうけどね。」
そう言うとビアンカはまた先ほどの会議の際とは別人のような柔らかい笑みを浮かべた。

 ひところの帝国では『男子、厨房に入らず。』という考えが大手を振っていた。料理をする男性=職業人、女性は家庭で。だが、フェザーンに移転し自治領との交流も増えてくるとそれはいかにも古臭く感じられるようになってきていた。昨今では若手の女性シェフの店だの、家庭料理を作る男性の流行だの、ミュラーには受け入れがたい世相が始まっていると感じていたのだった。そんな『流行』にとっくに、しかもガチガチの男性優位論者に見えるビッテンフェルトがしっかり載っていたとは!
(あの人がキッチンに?しかもチマチマと作業?・・・・・ダメだ。脳が思考を拒否する。用兵と違って他は案外柔軟なのか・・・。)
 そう考えてみればビアンカが今も要職を占め、家庭に入らずにいることもビッテンフェルトの意外な度量を示すようでそこはかとない衝撃を受けてミュラーは運ばれたサラダを前に考え込むのだった。

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 執務をすべて終えて外へ出てみると天気予報のとおり身を切るほどの寒さが襲ってきた。地上車で帰ることも考えたが長い会議ばかりの一日に体を動かしたく思ったミュラーは官舎までの長くもない道のりを歩くことにした。ふと視線をあげると昼間話たビアンカが街灯の下に立っている。ぱっと目を引く鮮やかな紅い色のコートを着てはいるが、この寒さは耐えがたいのか肩を竦めている。
(寒そうだな。こんなところで待ち合わせか?手袋くらいなら・・・余計なお世話か。)
そうミュラーが考えた瞬間背後で聞きなれた声がする。
「なんだ?ミュラー。卿も今帰りか?」
振り返ると走ってきたのか、軽く息を弾ませたビッテンフェルトの長身があった。
「これはビッテンフェルト閣下。待ち合わせですか?この寒いのにあれではお気の毒ですよ。」
「ああ。珍しく戻る時間が一緒になりそうだったんでな。飯でもと思ったんだが車の入らない道なんで歩こうとな。おーい。ビアンカ。すまんな。」
声をかけられた相手は柔らかい蜂蜜色の瞳に笑みを浮かべる。
「フリッツ。もう寒いよ。あら、ミュラー閣下もいらっしゃったんですね。」
「すまんな。最後に捕まっちまったんだよ。なんだ?お前、手袋とかは?」
「持ってない。しかもこのコート、ポケットとかないの。」
「ったく女物ってのは時々不便だな。」
そう言ってビッテンフェルトは左の手袋を脱ぐとビアンカの目の前にぶら下げる。
(左だけ渡して、どうすんだ?ポケットないって彼女言ってるのに。)
ミュラーが内心そう考え、ビアンカも不思議そうに渡された手袋を左手にはめるのを確認するとビッテンフェルトは表情ひとつ返ることなくビアンカの右手を自身のゴツい左手に握りこみ軍用コートのポケットに突っ込む。その一連の動きはためらいも何もなく、流れるように自然だ。
「予約の時間だから行くか。あ、ミュラーもなんだったら一緒にどうだ?今日は待ち人はおらんのだろう?」
ポケットにビアンカの手ごと自分の手を突っ込んだままでビッテンフェルトはミュラーに声をかけた。
「あ・・・。いえ。そのせっかく久しぶりのお二人一緒でしょうから部外者は消えますよ。」
「そうか。では・・・な。」
そう本気で誘ったわけでもなかったらしいビッテンフェルトはビアンカを促すと足早に小さな路地へと入って姿を消した。

(なんで?なんで、あんなことがさりげなくできてしまうんだぁぁ??)
 官舎への帰り道、ミュラーはつい先日フェザーンを訪れていたフィリーネとの出来事を思い出していた。同じように寒い日、同じように彼女は手袋を持っていなかった。そんな彼女にミュラーは己の持っていた手袋を両方とも差し出した。フィリーネは青い瞳で優しく微笑むと先ほどの二人と同じように片手のみを自分の手にはめ、片方はミュラーに返した。彼が受け取りそれを手にはめるとフィリーネはミュラーの手をとり指を絡めると彼のポケットに手を入れた。二人分の暖かさに包まれながら、その時ミュラーはなぜか満足感の中に微かな敗北感を感じた、そんな記憶がよみがえったのだ。
 なぜ、感じたのが満足感だけではなく敗北感だったのか。その時はそうはっきりと気がつかなかったのだが、今ビッテンフェルトの動きを見てミュラーは判然と悟った。
 そう、自分だって本当はそうしたかったのだ。だが、できなかった。なんとなく気恥ずかしかったのだ。まだ学生のような若者がするなら微笑ましいかもしれないが、30を越えた現在の自分がそれをすると彼女はどう思うだろうか、その一瞬の迷いを彼女はあっさり飛び越えてミュラーの手を取った。
(俺だって本当はやりたかった。でも一瞬の差だったんだよ。それでどうしてもできなくて彼女から。ガキって思ったんだよ。なのになんだってあの人はあっさりできちまうんだ?しかも、思ってたほどガキでもなかったし。やっぱり彼女も嬉しそうだったし。)

 なんだか案外気もきいて、家事だってあんな見かけのくせにそこそここなしてて。それが他の相手ならばまだしも酔って頭を鴨居にぶつけて悶絶してるような男に負けた?別にミュラーはビッテンフェルトを侮っているわけではない。僚友としては頼もしい存在であることも確かである。だけど、何となく思っていたのだ。『大人の男としては俺の方が上』と。だが、どうやら認識を改めなければいけないかもしれない。
ナイトハルト・ミュラーの懊悩は続く・・・・。

<END>

真帆片帆」ゆうやん様から頂きました。
ミュラーは変なところでプライドが高くて、しかもビッテンとかは仕事上では尊敬してるけどプライベートでは男として絶対上だ!とか思っている。なのにビッテンの思わぬ一面を見てしまい勝手にズドンと落ち込みそう(ヒドイw)というチャットでのやり取りを元にゆうやんさんが書いてくださいました。ありがとうございました!