酒の肴は突然に





「こんな風にだな」
差し向かいで飲み始めて数時間。
アルコールの心地良い抱擁に身を委ね始めた頃、ビッテンフェルトが何の前触れもなく切り出した。
差し向かいのミュラーの眼前でごつい大きな右手が野球ボールを掴むように形作られる。
「片手にすっぽりと収まる具合が」
上手い具合に酒が作用したその容貌は彼の持つ髪と近い色で上気している。
「羨ましい時があるのだ」
言うや否や鼻からはふんと思い切り息が吐き出された
ミュラーはその息吹が己を汚染するのではないかと内心で苦笑しながらも砂色の瞳を丸くする。
「どうされたのですか?」
ビッテンフェルトの突然の発言の意味を図りかねたからだ。
「どうしたもこうしたもない」
「と、いいますと?」
「卿の相手の女性だ。何と言ったか…」
おそらく名前が思い出せないのであろう。ポリポリと人差し指でこめかみを掻きながら考え込むビッテンフェルトを視野に入れながらミュラーは理由もなく嫌な予感がした。しかし愛しい彼女の名前を覚えてもらえないのも気分の良いものではない。
「…フィリーネ、ですか?」
仕方なく答えてやると、弾かれるように薄茶色の瞳が輝いた。
「そうだ、フィリーネだ!」
「フォン・リーゼンフェルトです。少佐です」
かといって親しい仲であるかのように呼ばれるのも何処か面白くなかったので更に姓と階級を付け加える。
「どっちでもよい」
(よくはない)
ビッテンフェルトの言葉に胸中でふてたのは、酒の入った猪提督を御せるという確実な自信がミュラーにはなかったからである。
「これでも俺は卿の相手を認知していたつもりだ。だがそれは堅苦しい出で立ちの時のみのこと」
「まあ、それは職務がそうですから仕方のないことです」
興味なさ気にワイングラスを口に運び、とりあえず頷いてみるものの話の着地点が見えない。
「だがな、ミュラー。俺は先日知った」
「先日?ああ、街で偶然お会いした時のことですか。確かにあの時は私服でしたね」
つい一週間ほど前、フィリーネと街を散策していたミュラーはこれからビアンカと待ち合わせだというビッテンフェルトと出くわしたのだ。あの時はオフということもあり確かに私服だった。
合点がいったミュラーは大きく頷くと一転破顔した。
この時、彼はこの後のビッテンフェルトの言葉が普段温厚で通る己の眉を釣り上げさせることになるとは夢にも思わなかった。
「それはいいのだ。問題は私服ではない」
「問題?」
ミュラーの眉根が寄せられ、怪訝な表情になる。
「ああ、そうだ」
ビッテンフェルトは大仰に腕組みをし、さもあらんと大きく首を縦に降った。
その真剣な様子に何事かとミュラーは怪訝の色を深くする。
「卿の想い人は存外貧相な体つきをしていたのだな」
砂色の瞳が見開かれた瞬間だった。
「なっ…」
絶句するミュラーを尻目にビッテンフェルトは瞑目し一人かぶりを振る。
「いや、貧相とは若いご婦人に失礼であるな。そうだな、何と言えばいいのだ。俺は上手い言葉を知る方ではないからな。こういうのは何と例えればいいのだろうな、ミュラー」
言いながら目を開けると憮然とする鉄壁がそこにいた。
「どうした。卿なら良い例えの一つや二つ知っているであろうが」
「それは……」
漸くの事で口を開いてみたものの、言葉を繋ぐことは出来なかった。
「貧弱……いや違うな。こう、そうだな。スタイルは良いのだ。スタイルは。何せそれまでは分からなかったのだからな。だが私服になってみるとこう…」
「それは彼女の胸のことをおっしゃっているのですか!?」
思わず出てしまった言葉を抑えようと手で口に蓋をしてみたが、発してしまった言葉が体の中に戻ることは現実には有り得ないことだ。しかし、ビッテンフェルトは食いついた。
「それだ!卿も思っていたのか!」
薄茶色の瞳が酒の効果も手伝ってかキラキラと輝いている。
「それは侮辱ととっても良いのでしょうか?」
ミュラーの全身が無意識にわなわなと小刻みに震え、心なしか声も振動している。怒りに寄るものであろう。その異様な光景と押し殺した声にビッテンフェルトは己の犯した事の重大さを悟ると、慌てて打ち消しにかかった。
「違うぞ、ミュラー。決して侮辱ではない」
「だったら何だというのですか」
依然、そうすべく努力して抑える声は低く振動している。
さすがのビッテンフェルトもそのミュラーの様子にアルコールが飛び去って行くのを実感せざる得ない。
「待て。そういきり立つな」
どうしたものかと抑えにかかり、慌てて思索を巡らすが、抜けない酒が邪魔して気の利いた言葉が見つからない。仕方がないのも手伝って本音をポロリと口にしてみた。
「俺はだな。少し羨ましくなったのだ」
対する先方の反応は思いのほか早く、ビッテンフェルトは功を制するのに成功した。
途端、ミュラーの表情が一転したのだ。
「う、うらやま…しい?」
それまでの憤怒に彩られた面差しは何処へやら口を半開きにし、怒りの息吹を吐き出していたそこからは脱力に似た吐息と共に当然であろう疑問が飛び出した。
「そうだ。悪いか。卿だって思う時があるだろう。愛する女の体がもっと豊満であったならと」
この男は突然何を言うのか。
「いや、思う時があるはずだ」
断定である。
「お前も知ってる通りビアンカは確かに素晴らしい身体をしている」
そんなことを言われても、はっきり云ってそれを意識していたらセクハラレベルなのではないか。ミュラーは内心で呆れた。しかしビッテンフェルトは続ける。歌うように。
「肌も滑らかで…絹のような手触りというのはこういうことを云うのだと俺は初めて知った。言わずもがなその乳房に至っては豊かで弾力もすさまじく…」
突如声が途切れ、オレンジの髪に埋もれたつむじをこちらに向ける。かと思うと即席の詩人は、くうっと何事かに堪える様に拳を握り締め、きつく目をつむってしまった。
その間、どれほどの時が流れたのか。体感するほど決して長い時間ではないだろう。だが、ミュラーにはそれがひどく長い時間に感ぜられた。
「あの……」
まるで悔しがってるかのような様子を解こうとしないビッテンフェルトが心配になりテーブルの半分まで首を伸ばしかけた時、突如詩人は猪へと変貌し決起した。
「俺にはもったいないほどなのだ!」
ミュラーは思わずのけぞった。
恐る恐る目の前の元詩人に視線を向ければ、薄茶色の瞳が充血している。
「分かるか?分かるだろう?」
同意を求めるように勇猛果敢で知られた顔がミュラーの眼前に迫ろうとしている。
それにしても何を分かれというのか。きっと分かったら分かったで自分は大変な目に遭うに違いない。
「いえ、小官には……」
分かりかねますと半ば引き気味に答えようとしたが、それは見事に阻まれた。
「卿はそれでも男か?」
「は?」
予想外の問いだった。何処に話題の中心点が移動したのか。図りかねる。
「俺はいつもいつも美味しい思いをしている。しかも際限がない。これは自分でも驚くところである。だがな、ミュラー。たまには違うものにも憧れたりするのだ。お前だってそういう時があるだろう」
言い聞かせるような声音の前でミュラーはとりあえず頷いた。事を早めに収束したいという欲求に捕らわれたこともあるが、よくよく自身を振り返れば恐ろしいことに思い当ることがなきにしもあらずだったからだ。
「そうであろう。そうであろう」
赤い顔をしたビッテンフェルトが視界で満足げに何度も大きく首を前後するのが見て取れた。
「ビアンカのような片手に余るほどの乳房を鷲掴みにしてみたい!ということがあるであろう」
その下品な表現に思わず眉を顰めにかかったミュラーであったが、同時に己の右手が無意識に眼前を支配した。すると自然とその手が野球ボールを掴むように形作られる。
「片手にすっぽりと収まる具合が……」
先刻ビッテンフェルトが放った言葉が脳裏をよぎる。
(確かにすっぽりと収まっている…)
思わず胸中で呟いた事柄を打ち消しにかかるが、簡単には出来そうにはなかった。
「片手に余るほどの…」
更にはつい何秒か前のビッテンフェルトの言葉が頭を駆け抜ける。
(それはどんなものなのだろうか)
現在はもちろん、過去を紐解くが杳として思い当ることはなかった。それは読んで字のごとく未知の世界。
「一度体験してみるのも悪くはない…」
ポツリと漏らした一言をビッテンフェルトの耳が目ざとく捕えた。
「そうであろうとも!」
差し向かいから鍛錬された両腕が瞬く間に伸びるとミュラーの両肩をがっしりと掴んだ。
その衝撃にはたと我に返り、思わず心の声が表へ出てしまったことに気づくが引き返すことは出来ない。
「いや、私はそんなつもりでは」
「隠すなミュラー。どうせ酒の席だ。明日になれば全て夢の中の出来事よ」
「それは……」
甚だ怪しかった。自分は良いとしても、先方が上手いこと忘れてくれるのか。
「提督、このことは…」
「分かってる。分かってる。他言無用だ。特にご婦人方にはな」
ビッテンフェルトの片目がいかにも調子良さげに閉じられた。
「それは勿論ですが、しかし…」
「なんだ、意気地がないな。もういいだろ。意見も一致したことだし、今夜は口にするだに恐ろしい話題をサカナに飲もうではないか!」
「恐ろしいって…」
するとつい今しがた開閉されたばかりの目が、今度はもう片方と共に信じられないというように丸く見開いた。
「なんだ。お前は恐ろしくないのか?お前の愛しいリーゼンフェルト嬢にその邪な思いを知られることを考えてみろ」
「邪ですか。それは、そうですが…」
言いながらミュラーは少しばかり思案すると、すぐにそれを放棄することにした。そんな得体の知れないことに思いを馳せるのは最悪の事態を想定するようで決して気持ちの良いことではなかったからだ。
「ほらな。今お前も考えただろ」
「な、何をですか」
ビッテンフェルトに自分の心理を見事に突かれたかとミュラーはあからさまにうろたえる。
「それだよ」
「は?」
「この際だから言うが、俺も怖いのだ」
「は…あ」
「ビアンカが怖いのだよ。お前も今そう思ったのだろう。違うか?」
詰め寄るような言い草に、気づけばミュラーは素直に頷いていた。
「浮気はせん!しかし時々別の女性に目が行ってしまうのは事実だ」
「ビッテンフェルト提督も、でありますか?」
「ああ、もちろんだとも」
深海に首を突っ込むように深く頷いたビッテンフェルトの目は真剣だった。
そしてミュラーは心ならずも自分だけではないという安堵を覚えてしまう。
「それは…奇遇です」
馬鹿な言葉を吐いてしまったと自嘲の念を禁じ得なかったが、それは本心だった。
「おお!同志だとも!卿と俺は!!」
「同志」
反復すると妙に心が落ち着いた。
「ミュラー!今日は飲むぞ」
宣言したビッテンフェルトが追加の酒を頼み、ミュラーはそれに倣った。
その晩飲んだ酒の量は一体いかほどだったのか。
二人の記憶からは永遠に葬り去られることとなった。





<END>

真帆片帆」ゆうやん様へ捧げます。
以前「Heaven's Kitchen」のすぎやま由布子さんへ捧げた「隣の花は赤かった」の続きともいえる話です。ゆうやんさんとのやり取りで妄想がはらんでしまい我慢出来なくなった挙句にお願いして書かせて頂いた作品です。ゆうやんさん宅のお嬢様も話題に加わり鉄壁と猪がドタバタしてます(笑)