春まだ遠けき頃に





「あ、あれ…」
肩を並べて歩くフェザーンの大通り、フィリーネが小さく指差した先にはミュラー自身あまり顔を合わせたくない人物の姿があった。
我知らず苦虫を噛み潰したような顔になる。
「キスリング…」
自分たちとは反対側の歩道をやはり女連れで歩いている。
新年以来お互い話題に乗せたことはなかったが、あの時のことはミュラーの心に未だ鋭いトゲを刺したままだ。
「どうされました?」
フィリーネの声に我に返ると、自分を気遣う青い瞳がこちらを見上げている。
「ああ、いえ。なんでもないです」
「でも…」
喧嘩でもしたのかという問いにミュラーはそんなことないと笑ってごまかしてみせた。
彼女がそれを信じてくれたかどうかは些か怪しいものだったが、それでも彼女はそれ以上突き詰めるようなことはしなかった。
その代り、その口からは意外なことが語られた。
「少将のお連れの方」
「連れ?」
交通量が多い大通りの向こう側、キスリングと連れの女性は今やこちらに背を向けショップのウィンドウ越しに何某かを物色しているようだった。
(この寒い中、よくもああ夢中になれるものだな)
仲良さ気に肩を寄せ合う二人の背に普段では考えられない毒を内心で吐きながらも、しかし、ミュラーにはキスリングの連れである女性の正体を容易に推し量ることが出来た。
「サンダルフォン大佐?」
当然のごとくに口にした名にフィリーネが飛びついた。
「サンダルフォン大佐っておっしゃるんですか!?」
「あ、ああ」
ミュラーを見上げる青い瞳が嬉々として輝き、白い頬がほんのりと色づく。
正直、面食らった。
そして、初めて見るその表情に不覚にも己の心臓が大きく一つ跳ね上がるのを聞いてしまった。
「フ、フロイライン?」
しかし、圧迫された胸元から絞り出すように発した声は、フィリーネを我に返すことに成功する。
「すみません。お名前存じ上げなかったものですから」
今しがたの自分の言動に驚き、目を大きく見開き慌てて口を両手で抑え謝る姿にミュラーは目を細める。
「いや、だけど…知ってるのですか?彼女を」
「はい!」
フィリーネが素直に大きく頷いた。
「お顔だけは存じ上げているんです。たまに仕事先でお見かけすることがあって。でも話したことも、もちろんお名前も知らなかったものですから…」
そこまで言ったフィリーネの視線が行きかう車の隙間に見え隠れする二人に注がれる。
「でもどうして?」
「え?」
こちらに向き直った瞳に疑問の色が鮮やかに浮かんだ。
「だから、その、何というか…何故そんなに嬉しげな顔をしてるのかと」
「ああ」
どのように表現すればいいかと図りかねながら苦笑気味に問うミュラーに、その意を組んだフィリーネは再度頷くと笑顔で返してくれた。
「理由は単純です。綺麗な方だからです」
「……」
なるほどと思いながらもミュラーは、果たしてフィリーネの前で頷いてしまっていい類のことなのかと少々頭を悩ませた。
しかしそうこうしていると、眼前の彼女はミュラーにその意思が伝わっていないと踏んだのかその思いを語りだしてしまった。
「綺麗だし、スタイルも良いし、お仕事も出来そうで……憧れてたんです。初めてお見かけして以来」
それは女性が年上の同性に持つ純粋な憧憬の感情なのであろう。
本来なら笑って同意してその喜びを共有する場面である筈が、この時のミュラーは胸中で嘆息を禁じずにはいられなかった。
「憧れ…」
思わず独りごちてしまった。何とも複雑な心境になったからである。
「はい。あの、それで、あの方、サンダルフォン大佐はキスリング少将とお付き合いを?」
そんなミュラーの心の中など知るよしもないフィリーネが遠慮がちにもっとも素朴な疑問を投げかけてきた。
ミュラーは黙って肯定の意を示す。
そうしながらも彼は、自分とキスリングの間に現存する溝をフィリーネが知った時、彼女はどんな表情をするのだろうと人知れず懸念した。そして、サンダルフォン大佐。彼女はこのことを知っているのだろうか。そんな疑問も頭をもたげずにはいられなかった。
しかし、そもそも今の段階ではミュラーが持つこの思いは、あくまで一方通行でしかない。キスリングが自分に放った言葉の数々が最後の一線になっているのか、それとも自分自身がそれを越えることを躊躇しているのか、それさえもはっきりしないのだが、とにかく現時点ではこの件に関してはミュラーの独りよがりにすぎないのは事実である。
(それでも、こうして共にいてくれるということは期待してもいいのか…)
そんなことを考えながらフィリーネを見れば、彼女の意識は既に通りの向こうの二人の下にある。
「めったにない休日を楽しんでいるようだから」
邪魔はしないほうがいいと、彼女の意識を半ば強引にこちらに向けさせた。
彼女の肩に添えた己の手に儚いが暖かいそのぬくもりが伝導してくる。
一瞬恨めし気に眉をひそめたフィリーネに、ミュラーはその複雑な胸中を押し隠し、優しく言葉を掛ける。
「また会えますよ」
「本当ですか?」
「そうだと分かれば話すことだって可能だ」
「本当に?」
「きっと…」
それは本来フィリーネの機嫌を取る為だけに出た言葉であった筈だが、真実それはミュラー自身の願いであるかもしれなかった。

<END>

Heaven's Kitchen」のすぎやま由布子様へ捧げます。
先日の嬉しい贈り物「幸福エゴイズム」から続くお話をずうずうしくも押しつけさせていただきました。更にずうずうしくも、この二人と絡む話をまた書いてみたいなどと思ってたり…。サンダルフォン大佐とはすぎやまさん宅のお嬢様です。素敵な女性です。彼女を知ったフィリーネは絶対憧れるぞと思い、今回書かせて頂きました。未読の方は是非本家サイト様へ!そんな感じですので、もしミュラーがフィリーネの機嫌を損ねてどうしようもなくなったらルシエルに間を取り持ってもらうといいかもしれません(笑)この作品を快く受け取って下さったすぎやまさん!ありとうございました!!