高く遠く、そして近く静かに其処にあるもの
無邪気な子供のように、天空にぐっと腕を伸ばし何かを掴む仕草をした。
「こうしてさ」
同時に、天に向かって開かれた口から真っ白な息が吐き出される。
季節は冬。積雪さえしていないものの、気温は下降の一途を辿っている。
掴みとった何かをぎゅっと握って眼前まで降ろし、静かに手のひらを開いてみせた。
フィリーネの視線がそこに釘付けになる。
しかし勿論そこには何も存在はしない。
「フェリックスが星を掴みとる仕草をしたというんだ」
「フェリックス?ミッターマイヤー元帥のお子さんの?」
砂色の瞳が無言で頷く。
ローエングラム朝初代皇帝ラインハルトが崩御した日の夜空は、星が極上の光を放ち輝き瞬くそんな晩だった。その美しい夜、乳児は父親の肩で幼い腕を懸命に伸ばし、未だ届きはせぬ星に手を伸ばした。
フィリーネにも、その夜フェザーンで仰いだ天空は、そこで起こった諸々のことと共に今もしっかりと胸に刻み込まれている。
「それがどうかしたの?」
「昔、子供の頃、俺もよくやってたなと思ってね」
決して届くことのない空の果て、成層圏を越えて、大気圏を越えた先に存在する無数の星々。
「あまりにも綺麗だから自分の物にしたくてね。だけど決して掴み取ることは叶わなかった」
そして、その星々の先に待ち受ける数々の困難も苦労も、人の生死さえも、本当の意味で知ってはいなかった幼い頃の出来事。
「今思うと当たり前の話だけどね」
そこには満点の星空を背景にしたスラリと長身の帝国軍元帥が砂色の瞳を穏やかに緩めて立っていた。
「!?」
気づいた時には彼の腕をがっしりと掴み、顔を押し付けていた。
相手が驚くさまが、密接された部分から当然のように伝わってきた。
しがみついた厚手のコートは冬の冷気にぬくもりを奪われて氷のように冷えていた。
キリリとした寒気の中に具現化された真冬の夜空はそれだけで神々しく美しい。
そんな景色の中で、澄んだ大気を身にまといそこに確かな存在として在るはずのミュラーが、フィリーネには何処か別の世界の住人のように思われたのだ。
そしてまた、今、全身で捉えている彼の腕も見知らぬ異質物のようだ。
早く早くとフィリーネは願った。
ミュラーの暖かいぬくもりを確かめたかった。
なのに、いつもなら布地越しにでさえしっかりと実感できるそれが、今はひどく遠いもののように感じられる。
(お願いだから!)
自分でも何故そこまで必死になるのか解らなかったが、ただそう願った。
「フィリーネ」
頭の上で耳に馴染んだ声がした。
恐る恐る顔を上げると、自分の中の一番大事な部分に収めてある笑顔と出会った。
少し困ったような表情を覗かせてはいるが、確かに自分が知るミュラーだった。
「だって…」
次の言葉が出なかった。
自分でもどう説明していいかわからない。
ほっと一つ息が吐かれ、大きな手がフィリーネの頭部を包んだ。
いつの間にどうやって外したのか、手袋をしていない素のままの彼の手だった。
「前に言ったじゃないか」
「・・・」
「俺は何処にもいかないって」
仄かなぬくもりが冷えた頭頂を伝って全身に沁み渡る。
それはやがて大きなぬくもりとなって心までをも満たし尽くしていった。
<END>