あなたのことをもっと知りたい







「噂なんだけど、昔ね失恋したんだって」
「そうなの?でもそれだけで?」
「それがさ、結構痛いヤツみたい。だから恋愛に関してはあんまり…って感じらしい」
「ふーん。だから彼女作らないのか。というより作る気がないのか」
「だけど何気にキツイよねぇ。笑顔でお断りとか」
「告白する勇気はすごいと思うけどね」
「そお?」
「だって相手は元帥よ。元帥!私だったら絶対無理。みんなよく頑張るわ」
「うーん。確かにね。でも地位も名誉もあって、性格もあんな感じだし。元帥の中では一番若いしね」
「好きになっちゃう気持ちも分かる、と?」
「うん。だけど話を聞く限りではみんな悉く玉砕ってね」
「貴族だろうが平民だろうが容赦なし」
「その辺ももてる理由かもね。皆に公平ってことで」
「まあね」


ランチ時のカフェで偶然背後から聞こえてきた会話。
チラリと肩越しに視線を遣ると帝国の事務官らし若い女性二人組だった。
噂のネタは帝国軍元帥ナイトハルト・ミュラー。
自分と同世代と思える女子の二人の会話をフィリーネは微笑ましくも羨ましい気持ちで耳に入れるとはなしに聞いていた。


「元帥は人気があるのですね」
ふと思い出した日中の出来事。
「は?それは部下たちに、ということですか?」
フィリーネが自分の見解を口にすると、隣のミュラーが怪訝な表情でこちらを見下ろす。
「いいえ。女性にです」
「女性、というと?」
二人はフェザーン市街で夕食を共にすべく肩を並べて歩いていた。
「いえ。少し小耳に挟んだもので」
見上げたミュラーの砂色の瞳は街のイルミネーションを映して青みを帯びている。
軍服に冬物の黒いロングコートを羽織った彼はとてもじゃないが帝国軍の元帥号所持者に見えはしない。彼を知らない人間が今の彼を見たならおそらく一介の帝国軍士官としか思わないに違いないだろう。
「小耳に…ですか?」
「はい」
ニッコリ笑って答えると、相手は少し困ったような困惑したような複雑な笑みを返す。
「詳しくは言いませんよ。迷惑をこうむる相手がいるかもしれませんから」
機先を制し口にすると相手は更に困ったように眉を寄せた。決して笑みは絶やさずに。
「それも正直困りますね。そう言われると聞きたくなってしまう」
そんな彼を視界に収めるフィリーネの脳裏に、ある言葉がよぎると彼女は自分のコートのポケットにおもむろに両手を突っ込んだ。
(笑顔でお断り…)
フェザーン滞在時だけのこととはいえ、こうしてミュラーと肩を並べて歩くのは何度目だろう。その間フィリーネは彼の穏やかな表情しか見たことがなかった。
「どれだけもててるかということをですか?」
「そうではなくて…一体何処からそのようなことを聞いたのかですよ」
「さあ?それはさっきも言いましたが、言えることではありません」
「フロイライン」
じれったそうな声音でフィリーネを問い詰める格好をしてみるものの、ミュラーには『もてる』ということに関しては多少なりとも自覚があった。
確かにミュラーは社会的には男性として充分なステータスを備えている。そしてその地位にそぐわない穏やかさを絵に描いたような風貌。
あえて口に出したことはなかったが、実は以前からそういった話に引きを切らないところがあった。特に終戦を迎えてからは一段と増加傾向にある。
しかし、例え相手が誰であろうと答えは「ナイン」。
それでも過去には恋人として付き合った女性の存在もあった。だが、それだけだった。縁がなかったと云えばそれまでだが、彼自身それだけでは決してないという自覚はしていた。故に今の今まで独身を通している。
「少しだけ思ったんです」
フィリーネの青い瞳が真っ直ぐにこちらを見ている。
「元帥は大抵いつも笑顔でおられます」
「それは…」
「勤務中は勿論違うように見えますけど、それでも他の方たちに比べると穏やかでいられる。でも…」
「でも?」
「よくよく考えれば、私は元帥のことを何も知らないのです」
「何も?」
「はい。軍歴は勿論知ってますがそれ以外のことは何も…」
ミュラーの脳裏に昨夏のフロイデンでの出来事が走馬灯のようによぎる。それはおそらくフィリーネが誰にも見せたことはない彼女にとっては醜態であるかもしれなかった。であるならば…。
「知りたいと?」
だが本心でミュラーは彼女がそんな取引のようなことを望む筈がないと思っている。
果たして案の定フィリーネがかぶりを振る姿が瞳に映り込むと、彼は内心で肩をなでおろした。
「でしょうね。貴女はきっとそんな人間ではない」
でなければ自分が魅かれる筈がない。
そんな傲慢ともいえる思いをミュラーは身の内に飲み込んだままフィリーネを見つめる。
すると白い欠片が二人の間に舞い降りてきた。
雪だ。
今日は朝から妙に冷え込む一日だったが、夜になっていよいよ帝都を包んだ冷気がその正体を具現化し始めたようである。
「先ほども申しましたが、本当に少しだけ思っただけなんです」
「何を?」
「元帥が何故笑顔を絶やさぬのか。そんなに立派な方でありながら何故独りなのか」
瞬間、ミュラーの第六感は素早く行動する。
彼女は知っている。
そしてミュラーは知っていた。自分にある噂が付きまとっていることを。
「ミュラー元帥は過去に手痛い失恋をしたらしい」
それは長い間帝国軍内にまことしやかに流れる噂の一つに過ぎなかったが、対象である本人が肯定も否定もすることはなかったため根強い噂を通り越して今や公然の事実であるとされつつあることだった。
「その理由を、知りたいと思ったのですか?」
「少しだけ…」
いよいよ本降りになる様相を呈した雪の結晶が一致団結して大きな塊となり二人の間に降下し、それまで楽しげに街を行き交っていた人々は白い洗礼を拒否するかのように足早に二人の側を通り過ぎていく。
だが彼らは人々とは違う次元に存在するかのごとくに動かない。
「フロイライン」
「はい」
「私は貴女より何年も早くこの世に生を受けている。おそらく貴女より多くの経験をしているでしょう」
「はい」
「だから年長者として貴女に語れることも多いのかもしれない。それでも自分の中で未だ解決しえない事態において、私は貴女に何も言うことは出来ないのです」
「分かります。いえ、こんなこと言うのはおこがましいことなのかもしれませんが、多分判ります」
頷き終えると、優雅に舞い落ちる大きめな白い紙ふぶきに似た視界の中でミュラーが何処か寂しげに微笑んだ。
そして、せめて二人の間でこの件に関する会話は終幕を迎える。
フィリーネは無意識に天を仰いだ。
濃い闇に包まれた空から止まることを知らぬ気にたくさんの真っ白な結晶の塊が自分目がけて降下してくる。
彼女の下をゴールと決めた雪の粒が顔面に見事な着地を決めると、想像以上の冷感が全身を襲い、フィリーネは身震いしそうになった。だがそれらの雪片はあっという間に彼女の持つ体温に取り込まれ溶解し一体となっていく。
フィリーネはほんの僅かの間の冬しか味わえない事象の虜となった。
だがしかし、突如の闇が彼女の視界を閉ざすと、白い結晶もそれが持つ冷たさもその一切が失われる。
闇の起点の正体を知るべく視線を移した先には、暗闇に浮かんだ一対の砂色の光。
「いい加減風邪を引く」
ミュラーが自分のコートを犠牲にして傘代わりにしてくれたようだ。
「ミュラー元帥」
独りごちるようにその名を口にすると暗闇の中の光が柔らかな弧を二つ描く。
「行きましょう」
フィリーネはミュラーの言葉に黙って従い、そして二人は歩き出した。


<END>

お題提供:原生地さま