『普通』を知らなかった僕に人並みの幸せを教えてくれてありがとう










ミュラーは自宅官舎の執務机の前で頭を抱えていた。
どうしてもまとまらない案件がある。
(まったく!)
胸中で毒づきながら、腰を下ろして以来何度目かの頭を掻きむしるという動作をする。
仕事が進まないなどということは何も今回ばかりではないが、それでも今日はある意味彼にとって特別な日だった。
フィリーネが来てくれているのだ。
だから、いつになく仕事を終えることが出来ない自分にイライラもするし、このような案件を上げてきた顔も知らない誰かにさえ腹が立つ。
事の次第を聞かされたフィリーネは、仕方ないと言って、あと数日は帝都に居れるからと笑んでくれたが、それでも共に過ごせる時間はミュラーにとって貴重なものである。
だったらキッパリ仕事は諦めて、彼女との時間を過ごそうかとも考えたが、それを優先してしまったらどう逆算しても書類の提出期限に間に合わない。
(上に立つ者としてそれは褒められた所業ではないだろう)
とミュラーは思ったし、万が一そうしてしまった後でその事実をフィリーネが知ってしまったら、彼女が有無を言わさずに怒るだろうことは容易に予測された。あの青い瞳を怒りの炎で染めるのは好んでしたいことでは決してない。
そんなことを考えながら仕事と格闘していると、静かに執務室のドアが開き当の本人が顔をのぞかせた。
遠慮がちにドアの隙間からこちらを窺う彼女にミュラーはどうしたのかと目で語りかける。
「少し休憩しないかと思って・・・」
その言葉に傍らの時計に目をやると、机に齧り付いてから既に3時間が経過していた。
(そんなに彼女を待たせていたのか)
どうにも一度没頭し始めるとダメなようである。
ミュラーは自身を怨んだ。
「コーヒー、どう?」
見れば彼女は小さなトレイにカップを乗せて佇んでいる。
「あ、でも、いいの、私のことは気にしないで。貴方の分を持ってきただけだから」
彼女のことだ。仕事中のミュラーのテリトリーに自分が居座ることは決して良いことではない、とでも考えた結果の言葉だろう。
(それでも)
ミュラーの視線はトレイの中に二つのカップを確認していた。
共に時間<とき>を過ごしたい。
そういうことだろうか。
そう自惚れてしまってもいいのだろうか。
ミュラーは一つ小さく息を吐くと、根が張ったかのように腰を下ろしていた執務椅子から立ち上がった。
そうして本来のあるべき姿に戻ってみれば、3時間分の重みが小さな痛みとなって己の身体を刺激した。


執務室といってもここは高級士官用の官舎である。
室内には簡素だがしっかりした革張りのソファが備えられていて、それは此処の主本来の人となりとは関係なく、軍部ひいては国内での立場が窺い知れる品だった。
ミュラーにその場所を勧められたフィリーネは一度は首を横に振り拒絶した。
が、両手に持ったトレイをミュラーがさっと奪い取り、半ば強引に彼女をそこに座らせ、自分もその隣にさっさと陣取ってしまわれると、それ以上の抵抗は無意味なような気がして諦めた。
傍らのミュラーの視線がトレイに落ちる。
と、そこには二人分のコーヒーと共に、チョコチップを練り込んだクッキーが小さな皿に幾枚か乗せられていた。
ミュラーはそこからフィリーネの人となりの一角が垣間見えるようで、小さな笑みを零す。
「これは君が?」
作ったのかと砂色の瞳が聞いている。
対してフィリーネは慌てて手を振った。
「違うわ。作ったんじゃないわ。言ったでしょ、料理は全然だって」
「ああ・・・」
ミュラーの中に以前そんなことを口にしていた彼女の残暑の光景が蘇る。
「だから、正直、助かったの」
「え?」
「コーヒー。ここにあるのがインスタントで良かったって」
「ははは」
どうやら彼女はコーヒーのドリップでさえ自信がないらしい。
ミュラーはコーヒーカップを手にして笑った。
灰色の雲が幾重にもかかったように悶々としていた頭が一気に晴れ渡っていくような錯覚を覚える。
「これね、昨日、来る途中見つけたの。美味しそうだなって思って、買っちゃったの」
「なるほど」
聞きながら一枚を口に含んだミュラーの口内に菓子の甘みが一気に広がり、その歯ごたえは思いの外ふんわりと優しかった。
「うまい・・・」
思わず声が口をついて出ていた。
「本当!?」
頷くミュラーにフィリーネが興奮気味に話し出す。
「一目見て美味しそうだと思ったの。お店でね、ほんのちょっとだけ試食出来るようになってて、それを食べたらやっぱり美味しかったから、貴方と・・・」
そこまで一気に言うとぱたと軽快な声が止んだ。
「貴方と?」
口に運ぼうとしていたカップを止めて声の主を見遣ると、彼女は自分で自分の言葉に驚いたように目を見開いていた。
かと思うと、顔が一気に上気し、視線だけを逸らす。
「貴方と、食べたいなと思ったの・・・」
急激にしぼんだ言葉尻にミュラーは何事もなかったかのようにそうとだけ答えた。
だがその実、彼の胸中は推し量るべくもない喜びで満たされていく。
「で、でも、ハイネセンにも美味しいお店があるの」
フィリーネは場を取り繕うかのように声を上げた。
わずかばかり上擦ったそれと赤みが残る表情は、何故だかミュラーの心を和ませる。
しかし対するフィリーネは、らしくない自分に戸惑い、それでも語ることを止めてしまったらこの場をどう収拾していいか分からなくなりそうな自分に話をする口を塞がない。対するミュラーの返答がどんなにあっさりしたものであろうと関係なかった。
「私ね、仕事が忙しかったり、煮詰まったりすると甘いものが欲しくなるの」
それほどに自分の口から思わず出てしまった言葉の影響力は彼女の中で大きかった。
「そう」
「きっとナイトハルトも気に入ると思う」
「・・・・・・」
「今度食べさせてあげる。あ、でも、こういうの嫌いじゃなかったらなんだけど・・・」
しかしそこまで言ってはたと我に返れば後悔の念が一気に襲ってきた。
一人で話し過ぎたと急いで口をつぐんだが後の祭りである。
「ご、ごめんなさい」
弾かれるように謝罪の言葉を口にするが、ミュラーは目を細め、口元に弧を描きこちらを静かに見つめている。
「嫌いじゃない」
「え?」
「そういうの」
ぽつり答えると、依然穏やかにこちらを見つめている。その手には大事そうにコーヒーカップを抱えて。
「どう・・・したの?」
「いや」
それ以上何も言わない相手に、自分の言動はやはり不可思議なものだったのかとフィリーネは再度の後悔をした。
そもそもコーヒーを出汁に彼の仕事を中断させたのは自分だった。そして、長時間仕事に集中していた彼に一気に自分の言葉をまくし立てた。疲れているだろう彼に。
しかし、今の彼を見るところ、それを迷惑に思ってはいないだろうことは何故か察せられ、だったらと内心首を傾げざる得ない。
と、ふとある一点が目に入った。
知らず、手が伸びた。
「?」
ミュラーが不思議そうにフィリーネの手の行く先を視線で追う。
「髪・・・」
「え?」
「髪、乱れてる」
言いながら撫でるように砂色の髪を直すフィリーネの手の感触を彼は味わう。
そういえば、何ともし難い苛立ちから己の頭を何度も掻きむしった記憶がミュラーの脳裏に蘇り、その口からふっと一つ吐息のような笑いが漏らされた。
「?」
砂色の髪をいつもの彼のそれに整えてやりながらフィリーネは首を傾げ、彼の瞳を覗き込む。
「いや、忘れてたなと思って」
「何を?」
「こういうことをね」
「こういうこと?」
つい先頃まで恋愛という言葉を心の片隅に追いやっていた自分がいた。
そのことを誰かに問われれば、仕事を理由にその答えを牽制していた。
確かにここ何年も仕事に邁進してきたのは事実だが、その部分に触れて欲しくない自分がいたこともまた事実だった。そして、己の中で恋愛というものが恐れの対象になっていたこともまた認めざる得ない真実だった。
それにはそれで理由があったのも確かだ。
だから、そう至る過去があったのも事実で、それを乗り越えようと幾度かそれめいたことをしたのも記憶の中には確かに存在する。
だけれども不思議なことに、こうしているとそれら全てがまるで霧の中の出来事のようだった。
「普通のさ」
ミュラーは目を瞑り、独りごちるように呟いた。
「普通の?」
首をひねるフィリーネが気配で分かる。
「さっき、俺と一緒にコーヒーを飲みたいと思った?」
目を開き、しかしそれには答えずに問うた。
「え?」
「さっき君はおずおずとそこの扉から顔を出した」
「おずおず・・・そうだった?」
ミュラーが頷く。
「その時、そう思ってたのかって」
「あ、あれは・・・その・・・違うの。そろそろ休憩してもいい頃合いかと思ったから・・・・・・」
否定して答えるがミュラーは食い下がる。
「そうは思ってはくれなかった?」
「・・・・・・」
一瞬絶句するように硬直したフィリーネだったが、案外あっさりコクリと頷いた。
ミュラーの瞳に満足げな色が浮かぶ。
「そうかと思ってさっき無理にでも座らせた」
そして、砂色の瞳が優しげに細められた。
「そういうこと」
「え?」
意味が分からないというように再び首をひねったフィリーネにミュラーは答えず、微笑みながら優しい口づけを落すのだった。



『普通』を知らなかった僕に人並みの幸せを教えてくれてありがとう




<END>

お題提供:原生地さま